2009年12月5日土曜日

大艦巨砲主義の末路と戦艦大和の悲劇 (副題:昭和三大馬鹿査定)

テレビを見ていたら、「宇宙戦艦ヤマト 復活編」のCMをやっていました。宇宙戦艦ヤマトですか、懐かしいですね。「さらば~地球よ~♪♪」といまでも主題歌をカラオケで歌うのを耳にすることもありますね。

ということで、今日は本物の戦艦大和の話をしましょう。

昭和三大馬鹿査定という言葉があります。これは、1987年12月、政府予算復活折衝のさなかに大蔵省田谷廣明主計官(当時)が述べた言葉だそうで、

「昭和の三大バカ査定、と言われるものがある。それは戦艦大和、伊勢湾干拓、青函トンネルだ。もし(民営化したばかりのJRで)整備新幹線計画を認めれば、これらの一つに数えられるだろう。」

と発言されたそうです。

一方で、世界三大無用の長物という言葉もあり、、「万里の長城、ピラミッド、戦艦大和、新幹線、青函トンネル」 の 5つの中から 3つを組み合わせたもののようです。戦艦大和以外は観光資源として役に立っていたり、現在では欠く事のできない社会資本だったりしますが、どうにも戦艦大和だけは能力を発揮できず、ほとんど役に立たずに沈没してしまいました。運命をともにされた2740柱の英霊には申し訳ありませんが、馬鹿査定といわれようと無用の長物と言われようと反論は難しいような気はします。


<波濤を蹴って進む公試中戦艦大和の威容(昭和16年10月30日)>

戦艦大和は昭和15年8月8日に広島県にある呉海軍工廠において進水しました。当時の日本国内最高水準の技術と1億3780万円(当時の国家予算の3%)をつぎ込んだ大和は、基準排水量65,000トンを誇り、現在に至るまで人類史上における最大の戦艦という輝かしい記録を持っています。

大東亜戦争のころには既に航空戦力と制空権の重要性は認識されており、事実真珠湾攻撃は航空機動部隊により赫々たる戦果を挙げました。しかし、それまでの常識では制海権を重視し、そのための艦隊決戦の切り札としては大艦巨砲主義が信奉されていました。

大艦巨砲主義というのはこういう理屈です。

「敵の戦艦よりも射程距離が長い巨砲を装備し、同等の巨砲で攻撃されても防御するのに十分な装甲を有する戦艦を建造すれば、原理的には海戦で勝利することができる。」というのがその理屈です。戦艦大和は当時世界最大を誇る46センチ砲を装備(3連装の砲塔を3基装備)し、同時に、46センチ砲で攻撃されても防御できる装甲を有していました。


<艤装中の戦艦大和>

敵戦艦の主砲が46センチよりも小さければ、大和は敵戦艦の射程外から攻撃することが可能であり、万が一敵戦艦の攻撃にあっても装甲で防御できるので、無敵であるということになります。しかしながら、この考え方は実際には間違っていました。

46センチ砲の最大射程は42.026Kmで、最大仰角である45度で発射した場合弾丸の最高高度は11,900m(現代のジェット旅客機の巡航高度くらいですね)まで到達します。長さ2mで1.5トンもの重量のあった砲弾の初速は時速2,808Km/hで音速をはるかに超えます。

しかし、最大射程の42Kmというのは、東京駅から江ノ島を狙うようなもので、着弾地点の誤差は目標を中心にして最大1Km程度に及んだということです。また、大和型の第一艦橋は高さ34mあり、42Km先まで目視できたということですが、実際には敵艦に煙幕や弾幕を張られれば目視確認はできず、電探(レーダー)の装備はありましたが、当時の日本の技術水準では砲撃の照準を行うほどの技術的成熟はなかったので、あまり使い物にはならなかったようです。また、弾着を確認するための艦載機(零式艦上観測機)も搭載していましたが、制空権の無い状態では艦上観測機の発着もままならなかったでしょう。46cm砲の実質的な射程距離は20Km~30Kmとも言われていますが、誘導機能のない巨砲の長距離射撃は特に実戦状況では技術的に困難を極めたものと推測されます。

また、主砲を発射する際には爆風や衝撃波による被害(甲板から吹き飛ばされたり鼓膜を損傷したり)を防ぐため、甲板上の乗組員は艦内に退避する必要があり、その際に主砲以外の他の砲に装着されていた衝撃に弱い照準機は取り外す必要があったということです。と、いうことは、主砲を発射する際にはその前後を含め対空砲が使えないということで、敵航空機に対する防御が極端に手薄になります。一方で、46センチ砲の信頼性に関しても問題が多く、何発か発射するうちに故障が発生する事がしばしばあったといった情報もあります。


<46センチ砲の勇姿>

太平洋戦争の最初期段階である真珠湾攻撃で航空優位が実証されてしまったこともあり、戦艦大和の出番はほとんどありませんでした。温存という意味もあったのでしょうが、戦争中はほとんど呉の海軍基地で待機していたようです。大和は艦内の居住性に優れ(居住空間は他艦より広く、士官室は冷房完備であったり、洋式便器が装備されていたり、アイスクリームやラムネの製造機械が設置されていたり)、食料などの物資も優先的に配給されたため、時には「大和ホテル」とも揶揄されていたようです。最後は天一号作戦(菊水作戦)に動員され沖縄に向かう途中、昭和20年4月7日に鹿児島県坊ノ岬沖にて撃沈されました。


<戦艦大和最後の大爆発>

大和型としてはは兄弟艦の武蔵が三菱重工長崎造船所で建造され、最後はフィリピンのレイテ島沖で撃沈されました。また大和型三番艦である信濃は横須賀海軍工廠で建造されましたが途中で空母に改造され、呉に回航中に潮岬沖で米潜水艦に撃沈されました。

戦争中は大和、武蔵の存在は軍事機密として秘匿され、一般には知られていなかったようです。かわりに元々連合艦隊の旗艦であった長門のほうが知名度が高かったようです。ちなみに長門は終戦まで生き残り(満身創痍だったようですが一応航行はできたようです)、その後米軍に接収され、最後はビキニ環礁における原爆実験材料にされ、昭和21年7月28日ごろ沈没しました。

第二次世界大戦で航空戦力の優位が実証されたこともあり、終戦後は戦艦が建造されることはありませんでした。現代における艦隊は航空母艦を中心に、他には航空母艦を守るための巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、強襲揚陸隊、補給艦、哨戒機などから編成されています。

中でも航空母艦を守る盾の役目をしているのがイージス艦です。イージス艦とは高度なレーダーと対艦対空ミサイルとそれらを制御する戦闘指揮システム(いわゆるイージスシステム)を装備した艦船(排水量によって、巡洋艦であったり駆逐艦であったり、フリゲート艦であったりします)で、同時に10個以上の敵に対してミサイル誘導攻撃が可能です。イージスとはギリシャ神話で最高神ゼウスが娘アテナに与えたという盾(胸当)が語源になっているようです。


<横浜港大桟橋に接岸中の海上自衛隊イージス艦「きりしま」>

先日JJの自宅近くの横浜港大桟橋にイージス艦「きりしま」が来航して南極観測船「しらせ」とともに一般公開されましたので、見に行きました。その時の話はいずれ詳しく書こうと思いますが、一つだけ印象に残ったことがあります。

イージス艦の装備はミサイルがほとんどですが、そのほかにも魚雷の発射装置があり、あとは20mm自動機銃(ファランクス)の他、船首に1門だけ大砲(12cm速射砲)が装備されています。他の見学者が速射砲の砲塔下に立っていた説明要員の海上自衛官に質問していました。質問自体はよく聞いていなかったのですが、たぶんこんなことを聞いていたんだと思います。

「実際にこの大砲で敵艦と交戦するようなことがあるんですか?」

自衛官はこのように答えていました。

「現代の海戦は水平線の向こうからミサイルが飛んでくるようなところから始まりますので、速射砲の活躍する機会はほとんどありません。まあ、出会い頭に敵艦と交戦状態に入るような場合くらいしか考えられません。」

とのことでした。イージスシステムというのはなかなかにすごいものなので、その内ご紹介しましょう。

2 件のコメント:

  1. JJさん、おはようございます。

    オトコの子的にたまらない話題ですね。

    ・木を見て森を見ず
    ・大きいことはいいことだ(古っ!)

    なんて言葉を思い出しました。
    『矛盾』 の語源にも通じるところがありますね。

    しかし、ビジネスの現場では本当に木ばかり見て森を見れていない場面が多すぎるように感じます。何事も対極的に観察し、バランス感覚を養いたいものです。

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  2. ハリーさん

    コメントありがとうございます。私もミリタリー関係は結構好きで、色々と情報を集めています。また、そのうち記事にしたいと思います。

    >・木を見て森を見ず

    確かに、気をつけないといけませんね。重要なのは戦いの状況、前提条件、ルールは絶え間なく変化しているということで、それに気づいて対処しないことには勝ち目は無いでしょうね。まあ、当時の日米間に限って言えば経済規模や生産能力が違いすぎて、話にはならなかったようですが。

    ちなみに、「大艦巨砲も航空兵力が拮抗していればそれなりに意味がある」とする説もあるようです。

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