2010年1月4日月曜日

浅草にお参りその後東京スカイツリーの建設現場を見学

JJは毎年近所の氏神様に初詣に行くとともに、浅草にお参りに行きます。JJの出身地は墨田区で、浅草は歩いても行ける距離だったことから、子供のころから頻繁に出かけており、なじみの深い町であります。

浅草観音こと金龍山浅草寺は東京でも一番古いといわれる古刹で、寺の縁起に拠れば、その歴史は推古天皇36年(西暦628年)に遡るということです。文書上の記録としては鎌倉時代の「吾妻鏡」に浅草寺のことが書き残されているのが初出だそうです。(1181年に鶴岡八幡宮の造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せたというもの)


まずは雷門ですね。雷門は慶応元年(西暦1865年)に焼失後、仮門であったのを昭和30年に当時松下電器産業の松下幸之助翁からの寄進によって、現在の鉄筋コンクリート造りのものが再建されました。


雷門をくぐると仲見世通りが続きます。そして現れるのが宝蔵門(通称仁王門)です。宝蔵門は東京大空襲で焼けてしまいましたが、ホテルニューオータニの大谷米太郎夫妻の寄進により昭和39年に現在の鉄筋コンクリート作りのものが再建されました。ここの大提灯には小舟町と書かれています。小舟町にはかつて日本橋の魚河岸があり、そこの信徒の心意気を示しすものとして万治2年(1659年)に奉納したことにはじまり(浅草寺志・・・高さ三間半、幅二間、重さ約五十貫)、3百有余年の歴史と伝統を今に連綿として受け継いでいます。現在の大提灯は平成16年に小舟町に本社を構える小原化工株式会社という会社が寄進したものということです。


宝蔵門をくぐると本堂ですね。旧本堂は慶安2年(1649年)に再建されたものでしたが、東京大空襲で消失。現在の鉄筋コンクリート造りのものは昭和33年に再建されたものです。

現在改修工事中ということで、全体が仮囲いされてしまっています。仮囲いの龍の絵は本堂の天井画として描かれた日本画家川端龍子氏のものですね。浅草寺の公式ホームページによると、屋根瓦の吹き替え及び塗装を行うようです。宝蔵門の方は2007年にやはり屋根の葺替えを行い、その時に軽量化を図るため、チタン成型瓦を多用したとの事です。たぶん同様に瓦の軽量化を行うのではないかと思われます。


本堂の右側には、浅草神社が鎮座しております。浅草神社は三社様とも呼ばれ、浅草寺の縁起にかかわる三人が神として祀られています(東照宮(徳川家康)・大国主命も合祀)。毎年5月に行われる三社祭は浅草神社のお祭りです。

西暦628年に地元の漁師、檜前浜成・武成の兄弟が隅田川で漁をしていたところ、網に木の人形像がかかり、この地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺としたのが浅草寺の縁起との事です。

拝殿の前には幕が下がっており、ちょっと見難いのですが向かって左には三葉葵紋、右側には三社様の紋(魚網が三つ)が染め抜かれています。拝殿及び本殿は慶安2年(1649年)に3代将軍徳川家光公の寄進で完成したもので、奇跡的に空襲を免れた強運の建物で、現在は重要文化財に指定されています。ご利益 も一層大きいはずです。浅草寺境内には、このほかも二天門、伝法院など空襲を免れた建物が散在しています。

東京の古刹は浅草寺も含めて江戸幕府の庇護を受けていましたので、あちこちの寺社で三葉葵紋を見かけます。菊紋よりも三葉葵紋に慣れ親しんだのが、江戸っ子が今でも徳川贔屓な所以です。

いつかそのうち東京大空襲の記事も書こうと思いますが、空襲でほとんどの建物が破壊されてしまった都内に残る江戸の遺構は貴重ですね。代表的なところは、浅草寺周りと、上野のお山(寛永寺と東照宮関係)、芝の増上寺、江戸城、池上の本門寺、護国寺といったところでしょうか。谷中あたりも空襲を免れているので古い建物が残っているかもしれませんね。

浅草まで来たついでに業平橋まで一駅のって東京スカイツリーの建築現場を見学してきました。

ただいま254mまだ横浜からは見えません。まだまだ伸びますね。

ちょっと長くなりましたので、スカイツリーの方は後日レポートいたします。

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