2019年1月14日月曜日

江戸時代の高級料亭「八百善」と一両二分の茶漬け(その2)

八百善は順調に商売を拡大し、四代目善四郎が誕生した明和五年(1768年)には、年商が2000両近くにまで達します。この四代目善四郎という人がかなりのやり手だったらしく、若いころには2度ほど諸国に料理の取材のための旅に出たり、文政五年(1822年)には、前述の江戸流行料理通の初版を発行したりと、料理文化の発信に努めます。

また、この四代目善四郎は文人墨客との交遊も厚く、文化文政時代を代表する江戸の文化人たち、酒井抱一、大田蜀山人、谷文晁、葛飾北斎らともかかわりがありました。
図1:八百善の二階座敷にて文人会食の図   
 図1は江戸流行料理通の挿絵で、右側の角ばった顔の人が我が敬愛する狂歌師の大田蜀山人(南畝)です。酒井抱一や大田蜀山人と言えば、我が故郷の名園である向島百花園(文化年間開園)にもかかわりがありました。この両名に関しては、いつか筆を運びたいと思います。

八百善で出していた料理は大変凝っていたもので、前出の江戸流行料理通を読み込めばその手間の掛けようが分かります。当時のくずし字の本は読みずらいので、現代の八百善のホームページにいくつかのレシピが掲載されていますので、ご参照ください。どれもみなおいしそうであります。


江戸流行料理通には優れた挿絵が何枚も入っており、これもまた人気に一役を買ったものではないかと思います。挿絵のいくつかをご紹介しましょう。
図2:八百善増築の様子・葛飾北斎画
 これは八百善の増築の様子でしょうか、左側の仮囲い(江戸時代も仮囲いしたんですね)の方で職人が作業しています。職人の動きが北斎漫画そのままに生き生きと活写されています。何棟かの建物が描かれていますが、みな瓦葺きで立派ですね。右側の門のところに八百善と書かれた暖簾が下がり、その奥に鳥居らしきものが見えます。
図3:江戸流行料理通の挿絵・酒井抱一画
きのこ、わさびに侘助の花でしょうか。しゃれた俳画で、このページは数少ない色刷りになっています。姫路藩十五万石の次男坊にして当代一の画家に敬意を表しての色刷りでしょうか。くずし字が読めないので、上の文言が分かりませんが、最初の「八百善」と途中の「割烹家」最後の「蜀山人」だけは何とか分かります。だれかわかったら教えてください。
図4:江戸流行料理通の挿絵・谷文晁画
 こちらは谷文晁です。こちらも色付きですね。模様は鰹みたいですが、ちょっと痩せすぎな感も。背中と腹のとげとげがキハダマグロみたく見えますが。うむ。絵は良いでしょう。
 
また、江戸流行料理通には当時は珍しい卓袱料理や普茶料理に関する記載も多く、作法から調理法まで詳細に記載されています。
図5:江戸流行料理通の挿絵・清人普茶式
図6:江戸流行料理通の挿絵・普茶料理略式
普茶料理とは江戸初期に中国から来日した禅僧である隠元禅師が伝えたとされる精進料理で、法事の時などに食されたようです。通常の料理は個別の膳に盛られたものが供されますが、卓袱料理や普茶料理では大皿に盛られたものを取り合って食します。図5は清国の人々が会食をする場面で、これに対して日本では図6のように座卓で食されたようです。「賓主一礼して席に着く図」と書かれています。襖をあけて挨拶しているのが主賓なのでしょう。

鎖国を始めて200年くらい経ったころですが、料理にもじわじわと海外の文化も取り入れていたようですね。図1でも、寝惚け先生(大田蜀山人)はワイングラスのようなものを手にしています(ギヤマンと言いますかね)。

文化文政時代に先進的な食文化を提供し、当代一の文人から将軍様にまで愛された「八百善」色々な伝説も語り継がれています。最後に伝説の一つである「一両二分の茶漬け」の話で締めましょう。この話は江戸末期に著された「寛天見聞記」という随筆に記されており、この「寛天見聞記」は「燕石十種」という随筆集の第5巻に収録されています。国会図書館デジタルコレクションで読むこともできます。以下、現代語で要約します。

ある通人が、酒も飲み飽きたし八百善にでも行って、極上の茶を煎じさせて香の物とともに茶漬けでも食おうという事になり、友人二名ほどを連れて八百善に行き、茶漬けを頼んだ。 「しばらくお待ちくだされ」と言われて半日も待たされ、やっとのことで香の物と煎茶の土瓶が運ばれてきた。香の物は春にしては珍しい、瓜と茄子の粕漬を切り混ぜたものだった。食べ終わって、値段を聞くと金一両二分(現代の価値で10万円~15万円)と聞いて、一気に興ざめとなった。

「いくらこの時期に珍しい香の物と言っても、あまりに高いではないか」

と客が訝し気に聞くと、亭主はこう答えた。

「いや、香の物のお代はともかく、茶の方が高うございます。まあ、茶葉は極上と言いましても土瓶には半斤も入りません。しかし、 この茶葉に合う水が近隣にはございませんゆえ、玉川まで早飛脚を立てて水を汲みに行かせました。この運賃が莫大となりました。」

という伝説です。真偽のほどは「?」ですが。「寛天見聞記」の記述では、そのころ煎茶が流行っており、客を招いて煎茶の土瓶をいくつか出して、茶の銘と水の出所(玉川とか隅田川とかどこそこの井戸とか)を当てさせるのが流行っていたそうではありますが、きき茶みたいなもんでしょうかね。そういった背景はあるものの、自宅でも簡単に食べられるのに、わざわざ八百善で茶漬けなどという贅沢を諫めるような書きぶりでした。

「一両二分の茶漬け」天下泰平が長く続いた江戸時代らしいエピソードではないでしょうか。

2019年1月13日日曜日

江戸時代の高級料亭「八百善」と一両二分の茶漬け(その1)

江戸の町に八百善という高名な料理屋があり、たいそうな評判を博していました。どのくらいの評判かというと、酒井抱一が挿絵を寄せた「江戸流行料理通(リンク先で電子書籍として購読可能)」という料理本がロングセラーとなったり(参勤交代の武士や江戸見物の人々が土産に買い求めたという事です)、第十一代将軍の家斉公がたびたび訪れたり(将軍様が民間の料理屋を訪れるというのはかなり異例の事だと思います)といった具合です。また、江戸の懐石料理を完成させたという話も有名です。

図1:江戸時代の八百善の様子
八百善は代々栗山善四郎が継いできており、現在は十一代目まで来ています。栗山家は1570年ごろは百姓をされていたようですが、その後自家栽培の作物を販売する八百屋に転じ、その名も八百屋善四郎となりました。明暦の大火(俗にいう振袖火事:1657年)以降の江戸都市改造の際に、神田から新鳥越(浅草と新吉原の間くらい)に移転。名前も八百屋善四郎から八百善に代わり、二代目善四郎の頃、享保二年(1717年)を八百善の創業の年としているそうです。
図2:八百善の所在地
図2の赤丸は八百善の所在地です。ちょっとわかりにくいのですが、地図の右下の川が大川(隅田川の事ですね)左下の赤線の中が浅草寺。左上の赤枠の中が新吉原です。枠の中ではありませんが、桃色に塗られているのが寺院でこれらは浅草寺の別院であったり、別の寺院であったりと、とにかく寺が多いです。明暦の大火の後に幕府が都市改造を行った際に、寺は郊外(下谷、谷中、あるいは麻布あたり)に移転させたという経緯が関係していると思います。

当初は青果商であった八百善ですが、場所柄法事などのために寺院への仕出しなどを行うようになり、しだいに料理屋へと商売替えをしたようです。

大川から吉原に向かって水路が見えると思いますが、これが山谷堀で、堀に沿って日本堤という堤防がありました。吉原への遊客は日本堤を歩いて行ったり、あるいは舟で山谷堀を通って行ったようです。吉原で遊ぶにはたいそうな金(一流の太夫と遊ぶには一晩十両とか..)が掛かりますから、通人や豪商などの通り道近くに八百善の店があったという事になります。吉原の遊郭では客の料理は仕出しを頼んだそうですから、八百善あたりにも仕出しの依頼があったかもしれません。

ところでJJの母方の祖母の実家が今戸という場所で、船宿を営んでいたという事なので、先祖は舟で遊客を運んでいたりしたのかも知れません。 関東大震災の大火事の時には舟宿の舟で川に逃げて、難を逃れたという話を叔父から聞いたことがあります。今戸町は図2の地図だと大川寄りの青い楕円のあたりです。なんと八百善の目と鼻の先ですね。八百善で食事をする金はなかったかもしれませんが、客を舟で運んだかもしれません。
図3:名所江戸百景から「よし原日本堤」
 稀代の浮世絵画家、歌川広重も何枚か吉原の絵を残していますが、図3は日本堤の様子です。奥の屋根が連なっている場所が遊郭のある吉原です。吉原は遊女の逃亡を阻止するために堀で囲まれており、日本堤側にある大門(「だいもん」ではなく「おおもん」と読みます)からのみ出入りが可能でした。堤の上に小屋掛けのような建物が多くみられますが、茶店や飲食店のようなものでしょうかね。
図4:八百善周辺の風景
 先述の江戸料理通の挿絵に八百善周辺の風景がありましたので、図4として掲載します。真ん中に八百善の看板が見えると思います。その奥に左右に通るのが日本堤、右奥が吉原、左奥に浅草寺の五重塔が見えて、右手前は待乳山聖天です。待乳山の少し南側の大川の方から吉原を俯瞰した構図になると思いますが、現実の位置関係からは多少無理があるかもしれませんね。

話が一両二分の茶漬けまで至りませんでしたので、そのあとの話は(その2)へ続きにしましょう。

2019年1月12日土曜日

平成最後の新年を迎えて

このブログの方も昨年の9月を最後に投稿できず。気が付けば年を越してしまいました。

9月にある講演を引き受けて、その準備と日常の業務で心身共に疲弊し、しばらく体調を崩してしまいました。年末の入院を最後に体調も回復してきましたので、そろそろ投稿も再開しようと思います。