2012年11月24日土曜日

久しぶりにブログに

ブログを放置しているうちに、はや半年も経ってしまいました。今年は6月に会社を替わったり、また、6月末には母親を亡くしたりと、いろいろと変化があって忙しかったもので、少し間が空いてしまいました。

Twitter友達の方が、リンクを張ってくれたのもありまして、少し、ブログも再開しようかと思っています。あまり、無理のない範囲でぼちぼちと書き始めることにしましょうかね。

追記..統計を見て分かったのですが、これだけ放置されていても、PV(Page View)はそこそこコンスタントにあったのですね。特に増上寺の記事は人気があるようです。

2012年5月6日日曜日

反原発と脱原発

<三溪園の記事をお休みにして、脱原発のことを少し書きます>

2011年3月11日に日本列島を襲った東日本大震災。大地を揺るがす強烈な揺れとその後に広範囲を襲った大津波。2万人近くの死者行方不明者を出し、また、震災に伴う副次的な災害によって、日本経済にも深刻な打撃を与えました。その副次的な災害の中で、最大のものが福島第一原子力発電所の事故でありました。

事故の詳細に関しては、他の記事によるとして、概要としては、大震災とそれに続く大津波に襲われ、稼働中の1号機及び2号機の運転停止は達成できたものの、その後の電源喪失によって、継続的な冷却ができず、炉心溶融、水素爆発などを引き起こし、放射性物質を広範囲にまき散らしてしまったというものです。事故処理はまだ緒に就いたばかりであり、すでに決定した廃炉に向かって数十年がかりで前人未到の困難な作業工程をこなしていく必要があります。

この事故を受けて、原発の危険性に関する認識が高まり、反原発の機運が盛り上がりました。また、そういった世論の中、全国の原発の見直しや点検が相次いで実施され、とうとう、5月5日には国内50基残った(福一の1~4号機は廃炉なので除外してある)原発がすべて停止する状況に至りました。

今のところ、原発を稼働させなくても、電力の不足という事態には至っていません。私も原発に関して積極的に賛成するものではありませんので、反原発論者の方々が主張されるように、このまま再稼働なしに過ごせればそれに越したことはないと思っています。しかし、このままで本当に乗り切れるのでしょうか?

東京電力の発電設備の一覧に関してはこちらのWEBページにまとまっています。この資料によりますと、2010年3月末現在の総発電能力は、原子力(廃炉になった福一1~4号機も含む)も含めて、6498.8万キロワットになります。以下、その内訳です。

水力    898.1万キロワット  (13.8%)
火力    3869.6万キロワット (59.6%)
原子力 1730万キロワット   (26.6%)
その他 3.4万キロワット      (0.05%)

原子力発電をすべて停止したとすると、東京電力の総発電能力は4768万キロワットになります。しかし、当然定期点検や、改修工事や修理などが発生しますので、発電所の稼働率が100%ということはあり得ません。また、水力発電所の発電量には揚水発電(電力需要の低い深夜帯などの余剰電力を利用して水をくみ上げておく、いわば蓄電池のようなもの)量も少なからず含まれていますので、すべてが純粋なエネルギー源というわけではありません。その他にはいわゆる再生可能エネルギー(風力、地熱、太陽光)による発電が含まれますが、全体の発電量からすると、現状ではまったく微々たるものです。

これに対して、実際の需要を見てみましょう。 東京電力のこちらのWEBページに過去の電力需要データが掲載されています。

まず震災の影響を排除できる、2010年のデータを見ますと、8月23日にピーク需要を記録しており、ピーク時で5888万キロワット(同日の最低時刻で3376万キロワット)の需要がありました。一方で、震災の記憶が生々しく、また、各企業や家庭でも節電に務めていた、昨年、2011年のデータを見ると、8月18日にピーク需要を記録していまして、4922万キロワット(同日の最低時刻で3350万キロワット)の需要がありました。昨年は、製造業で勤務日を平日から週末にシフトするなり、かなりの犠牲を払ってピークシフトを行いましたが、それでもこんなものでした。この需要は東京電力管内の原子力を除くすべての発電所を100%稼働させたとしても供給できない需要です。また現実に、、無理やり稼働率を上げたたり、休止中を再稼働させた火力発電所は、老朽化などでいささか危ない状況でもあるようです。他の電力会社たとえば東北電力からの供給も東京電力として計算には入っているようですが、それにしても綱渡りの状況は間違いありません。

現在原発を全停止してもなんとか需要を賄えているのは、5月の需要が少ないためです。たとえば本日の需要予測は、最大で3210万キロワット(供給能力は3650万キロワット)にすぎません。現在はちょうど良い気候で、冷房も暖房も必要ないからです。昨年と同じように節電を図ったとしても、夏場のピーク需要を乗り切るためには、少なくとも柏崎は再稼働せざるを得ないでしょう。

原子力発電には経済的や戦略的なメリット(化石燃料の輸入を止められたとしても、発電を継続できる)がありますが、ひとたび大規模な事故を引き起こせば、その影響は重篤なものがあります。従って、長期に渡って、原発なしに成り立つ方策を考える必要があると思います。いわば脱原発です。しかしながら、化石燃料に頼る火力発電が完全に安全かというと、燃料の流出に伴う環境汚染や火災の危険もゼロではありませんし、常に資源国の顔色を伺いつつ、国際的な相場にも左右される状況が国家戦略的に見て正しい戦略かというと、それもどうかということになります。間違いなく電力のコストも上昇します。また、ダムの建設によって広範囲に環境破壊を引き起こす大規模な水力発電所の新設が容易かというとそうでもありません。現在「その他」に含まれる再生可能エネルギーや小水力発電など、代替エネルギーの開発も緒に就いたばかりであり、原子力発電の穴埋めをできる規模では全くありません。

一方で、原発の危険性というのが、原子炉の運転を停止していればまったく安全かといえば、危険性は幾分下がるものの、その後、継続的に冷却できなければ福島第一と似たり寄ったりの 状況を作り出してしまいます。今ある原発は止めていても動かしていても危険性に大きな差があるようにも思えません。もちろん廃炉を前提に段階的に作業を行えば、数年後には安全度は引き上げられるでしょうが、廃炉費用や使用済み核燃料の処理など、多額の費用を負担せざるを得ないのも事実です。どこまでは大丈夫か、という線引きが難しいのは承知しておりますが、使えるものは使うべきではないでしょうか?原発設備も古いものと最新のものでは安全性にも差があるはずだと思いますし、また、今回の事故から得られた貴重な経験(補助電源のあり方、緊急時の手順、津波対策など)も既存の原発の安全性向上に寄与できるはずです。

長期的には脱原発の方向性は取らなくてはいけないと思いますが、現実的な解としては、より一層の安全性を確保した上で、原発の再稼働を容認して、電力の安定供給を確保し、その上で、戦略的にエネルギー政策を考えていく必要があると考えています。

2012年4月24日火曜日

原富太郎と三溪園(その1)

私は、横浜市に住んで20年以上、今の横浜駅近くに越してからも、8年になります。しかし、あの有名な三溪園には行ったことがなく、今回初めて訪れましたのでその件を記事にしましょう。

三溪園を造営したのは原富太郎という明治時代の富豪です。この人は文人でもあり、号を「三溪」としていたので、その庭園を三溪園と呼びます。ここは、本牧三の渓と呼ばれていた場所で、富太郎さんはその場所の名前を号にしたのだと思います。

原家の経済的な基礎を築いたのは、原善三郎( 文政10年4月28日1827年5月23日) - 明治32年(1899年2月6日))という人です 。この人は、今でいう埼玉県の神川町というところの出身で、もともと、秩父地方で産出した生糸を買って江戸の呉服問屋に販売する、問屋のようなことを家業としてやっていたようです。

幕末になって、生糸の輸出が開港場で行われるようになると、横浜に移り、居留地の外国人商人に生糸を販売する事業を始めたようです。詳しくはこのリンクをご参照ください。生糸商はそれはそれで競争が激しかったようですが、何とか競争を勝ち抜いて、明治の初めには横浜の豪商の一角を占めるに至りました。また、横浜市の最初の市議会議員を務めたり、明治25年には埼玉県選出の衆議院議員、明治28年には高額納税者として神奈川県選出の貴族院議員として中央政界にも進出しました。


大きな地図で見る


善三郎さんが現在の三溪園の土地20万㎡を購入したのは、明治初年のこと。明治20年には山上に別荘松風閣を建設しました。 善三郎さんが亡くなったのは明治32年のことです。一方、善三郎さんには跡取り息子がいたものの、夭折してしまいましたが、孫娘の原 屋寿(はら やす)がおりました。屋寿が東京の跡見女学校で学んでいた時に、教師だった青木富太郎(慶応4年8月23日1868年10月8日) - 昭和14年(1939年8月16日))(のちの原富太郎(三溪))をみそめてしまい、明治25年(1892年)に結婚しました。青木富太郎は東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学んだのですが、岐阜の庄屋の跡取り息子だったそうで、入り婿に際してはいろいろともめたようですが、跡見の校長が何とか話をつけたようです。


三渓の生家である青木家は今の岐阜市にあった素封家で、代々庄屋を務めるとともに、養蚕や絹の行商などにもかわっていたようです。 また母方の祖父である高橋杏村は南画家で、詩書にも造詣が深かったとのこと。三渓自身も地元に近い鶏鳴塾という場所で、漢詩漢文を学んだそうです。この辺の生い立ちが、のちの生糸王にして文人である原三渓を形成していったものと思われます。

話は前後してしまいましたが、三渓さんは入り婿として、原商店に入り、部屋住みの店員見習いから初めて黙々と働きました。そして、明治32年に善三郎さんが亡くなると、大胆な経営改革に着手するのです。まずは原商店を、原合名会社に改組し人事制度も刷新。従来居留地の外国人商人に販売していた生糸の海外市場への直接取り引きの開始。また、富岡、名古屋などの製糸場を三井家から譲り受け、生産から販売までの一貫体制を確立し、また先代から引き継いだ第二銀行の経営にあたるなど、マルチな経営の才能を見せました。


三渓さんは自らのビジネスに集中するだけではなく、蚕糸業全体の振興にも努め、第一次大戦直後の恐慌の際には、自らが率先して政治家と交渉を行い、蚕糸業を救済する枠組みを策定し、自ら帝国蚕糸株式会社の社長に就任し、蚕糸相場の安定に奔走しました。その後も横浜経済界の重鎮として第七十四銀行の破綻処理や、関東大震災からの復興に率先して取り組み、また横浜港の近代化にも並々ならぬ成果を上げました。いわば今日の横浜の基礎を築いた偉人であります。(最後はだいぶ端折りましたが) 生糸は明治時代の主要輸出産業でありますから、原三渓さんの地位は、今でいうとトヨタ自動車の会長くらいの感じではないでしょうか。

で、三溪園の話になります。

2012年3月17日土曜日

BCR日記・累計PV(ページ・ビュー)上位記事

当ブログ「BCR日記」に使用しているBloggerの機能で、過去のアクセス統計などが取れるようになったので、累計でPVが多かった記事の一覧を作成してみました。まあ、こんな感じです。火災の件は別として、増上寺、伊藤若冲、縄文土器、神奈川台場、指の多い猫、三越包装紙、横浜ノースドック、シーランド公国といったところが上位でありました。
 
2010/08/12
984 ページビュー








2010/01/08
787 ページビュー








2010/01/08
548 ページビュー








2010/09/23
526 ページビュー








2009/11/29
470 ページビュー








2010/01/09
325 ページビュー








2009/10/17, コメント(2)
240 ページビュー
















2010/01/17
198 ページビュー









2012年3月7日水曜日

高島水際線公園と動輪の謎

またまた投稿が久しぶりになってしまいました。すみません。

昨年、みなとみらい21地区の端っこに、高島水際線公園(たかしますいさいせんこうえん)ができました。公園の概要はこちらのリンクかこちらのリンクを見てください。

この辺はみなとみらい地区として造成される前は、高島貨物駅(及び横浜機関区)として活用されていました。貨物船で運ばれてきた貨物が、艀(はしけ)に移し替えられ、この近くの岸壁で陸揚げされ、貨車に積み込まれ。この貨物駅で、行き先ごとに貨物列車として編成されて全国に輸送されていったのです。当時は搭載する貨物ごとに、無蓋貨車、有蓋貨車、タンク車、ホッパー車などなど、いろいろな貨車が存在していました。しかし、貨物輸送がコンテナに切り替わった80年代に(特に1984年2月1日国鉄ダイヤ改正)従来型の貨物列車は大幅に削減されてしまい、全国に配置されていた操車場や貨物駅も大幅に整理されてしまいました

 これは昭和6年版の大横濱全図という地図の高島貨物駅あたりの部分です。

さて、話は戻って、高島水際線公園ですが、この公園の中ほどに、車輪モニュメントというものがあります。説明によると、公園の造成中に出土した車輪をモニュメントとして飾ったということのようです。



しかし、この車輪、単純な車輪ではありません。よく見ると、クランクのようなものがついています。これは紛れもなく機関車の動輪です。それにしても小さいですね。これはいったい何でしょうか?
鉄道オタクとまではいえないものの、鉄道関係に興味のある私は、気になって気になって仕方がありませんでしたので、調査を開始しました。

 後日、自宅からメジャーを持ってきて、実測してみました。まずは軌間(レールとレールの距離)ですが、左の写真のように約760mmです。ううむ、これはナローゲージですね。軌間にはいろいろな規格があり、日本で最も普及しているのが、JRの在来線や多くの私鉄で採用している1067mm、京浜急行や京成電鉄などの私鉄や新幹線で採用している標準軌1435mm。そして、昔の馬車鉄道の流れをくむ、1372mm(一部の私鉄、たとえば京王線などで採用)

 これに対して、762mmという規格もあって、Wikipediaの記事では「 762 mm(2 ft 6 in) - 世界の多くの軽便鉄道・森林鉄道。日本では三岐鉄道北勢線近鉄内部・八王子線黒部峡谷鉄道。 日本で「ナローゲージ」と呼ばれる鉄道の多くがこの軌間である。2フィート6インチから、ニロク、ニブロクと呼ばれる。」とあります。鉄道網の全国への整備の過程で、建設費の安い軽便鉄道が、本格的な鉄道を補完する目的で各地に建設された時期があります。

ていうことは、この動輪は、旧国鉄の規格のものではなくて、どこかの軽便鉄道。あるいは森林鉄道の機関車のものということになります。
さらに、動輪の径を実測してみました。写真はありませんが、655mmでした。かなりな小径です。

さて、ここで、手元にあった資料。中学生の時に買った、機芸出版社の「蒸気機関車スタイルブック」を引っ張り出して、隅から隅まで探して見たら、 ちょうどこのサイズに適合する機関車を見つけることができました。

耶馬溪鉄道10型..ですね。説明文を転載します。「762mm軌間の小型タンク機関車。大分県の耶馬溪鉄道が購入したが、のち四国の別子鉱業に転じた。この種の小型機しては割合に近代的な、まとまったスタイルであった。キャブ廻りなど同一形態のCタンクが南武鉄道に納入されている。No.10・気筒229φ×356mm・重量14.5t・最少曲線半径21.3m・製造1927・汽車」

最後の汽車というのは製造元が「汽車製造会社」という意味です。文中にはありませんが、図面のほうには動輪の径が660φと記載されています。まさにこのサイズですね。

ここで、気になるのが、「 同一形態のCタンクが南武鉄道に納入されている。」という部分です。Cタンクというのは動輪の軸が三軸で炭水車がつかない機関車です。

今のJR南武線は、当初私鉄の南武鉄道として、多摩川の砂利を運ぶために建設されました。昭和2年(1927年)3月に川崎ー登戸間の旅客線と、矢向ー川崎河岸間の貨物線が開通し、順次延伸していったようです。南武鉄道は当初から電化されていたようですが、貨物列車には蒸気機関車も使われていたようです。すると、上記の耶馬溪鉄道10型の姉妹機が活躍していた可能性もありますね。ちなみに、南武鉄道は、大東亜戦争の戦局の悪化に伴い、昭和19年4月1日に国鉄に買収されてしまいました。

ということで、先の動輪は、南武鉄道に納入された上記の同型機か?という話ですが、ここで、符合しないのが、南武鉄道の軌間です。ここはナローゲージ(762mm)ではなく、旧国鉄軌間(1067mm)だったはずです。南武鉄道に納入された同型機とはたぶんこのリンクにある、国鉄買収後に1120型となったものだと思いますが、動輪の径は860mmで少々大きいし、軌間も1067mmですね。

次に、神奈川県に762mm軌間の軽便鉄道が存在したかという観点で、調査をしてみました。 検索したところ、二種類の軽便鉄道が見つかりました。ひとつは、湘南軌道というもので、秦野から二宮までを南北に結んでいました。秦野で産出される葉タバコを二宮まで運ぶのが主目的だったようです。ここのリンクに湘南軌道で使用されていた蒸気機関車の写真が載っていますね。耶馬溪鉄道のものよりも、旧態依然ですが、かわいらしい機関車です。この動輪だったのかもしれませんね。

もう一つは、小田原熱海間を結んでいた熱海鉄道です。もともと、国鉄の東海道本線は、国府津から御殿場線を通って箱根を北側に迂回していました。そこで、国府津-小田原-熱海を結ぶために、国府津-小田原間は馬車鉄道(客車を馬が引く形式)小田原-熱海間は豆相人車鉄道なるものが整備されました。人車鉄道とは、人間が客車を押すもので、6-8人乗りの小さな客車を3人の車丁が後から押していたそうです。小田原熱海間25.5kmを4時間5分(その後急行ができて3時間5分)かけて走破したとのこと。まあ、のんびりした時代であるが、人車鉄道以前は悪路を歩いて1日がかりであったということなので、熱海への湯治客には画期的な交通手段だったのでしょう。

人車鉄道には、面白いエピソードがあり、こんな話もあります。「豆相人車鉄道では、狭い客車ながらも1・2・3等と客のランクが分けられて運賃にも格差が設けられており、上り勾配区間では3等→2等客の順番で、押手の押す作業を手伝うために駆り出された。最後まで客車にいられたのは1等客のみであった。」

人車の時代は明治28年からはじまり、明治40年には軌間が762mmに改軌され、小型の蒸気機関車が客車を牽引するようになりました。その後、国鉄が熱海を通って丹那トンネル経由で沼津に抜けるルート(現在の東海道線)を建設することになり、熱海鉄道は国が買い上げ、事業者は線路を国から貸与を受けて営業を続けました。しかし、小田原熱海間の国鉄の完成を待たず、大正12年の関東大震災による壊滅的な被害から立ち直れずに、営業中止に追い込まれたとのことです。熱海鉄道で使用されていた蒸気機関車の内1両(7号機)は熱海駅前に展示されているそうです。

話はそれましたが、結局動輪の由来はわかりません。どこかの軽便鉄道で使われていた蒸気機関車の動輪であることは間違いなさそうですが、それがどういう経緯で、高島貨物駅(あるいは横濱機関区)に埋まっていたものでしょうか?なぞは深まるばかりです。熱海鉄道は廃線時には国有化されていたので、その車両の残骸が国有鉄道の管理下にあったという仮定も成り立つかもしれませんね。