2016年3月20日日曜日

台徳院霊廟の精巧な模型を見てきました

3月20日(日)今年はうるう年なので、今日が春分の日です。いつもお彼岸には麻布にある菩提寺に墓参りに行くのですが、今日は天気も良かったので、墓参りの後、花粉の事は気になりましたが、芝の増上寺まで歩いて行くことにしました。もちろん前回のブログで触れた、台徳院霊廟の精巧な模型を見に行くためです。

写真1:三縁山増上寺・三解脱門
写真1は元和8年(1622年)に建てられた増上寺の山門(三解脱門)、久しぶりに来ましたが、相変わらず立派ですね。手前に移っている築地塀がまた良いですね。三解脱門は日比谷通りに威容を誇っていますが、おそらく都内でも一番古い部類の建物だと思います。徳川将軍家の菩提寺の一つとして(もう一つは寛永寺)幕府の手厚い庇護を受けた増上寺の大伽藍は、徳川将軍たちの霊廟群とともに、残念なことに昭和20年年5月の山手空襲で灰燼に帰してしまいました。今では日比谷通り沿いに三解脱門をはじめいくつかの門を残すのみです。


写真2:昭和22年の増上寺
今更第二次世界大戦中の空襲に恨みつらみは言いたくないですが、まったくひどいものです。空襲も矢鱈滅法焼き払ったのでは無く、きちんとした計画に基づき目標を狙って攻撃したいましたので、増上寺もターゲットだったということなのでしょう。何とも野蛮だと思います。

 写真2が昭和22年の増上寺上空から撮影された航空写真です。ちょっと見にくいかもしれませんが、中央やや右上が三解脱門、その右側に上下に走っているのが日比谷通りです。台徳院霊廟があったのは三解脱門の南側で、現在はプリンスパークタワーの東口あたりになっています。

 
写真3:台徳院霊廟惣門(裏側)
台徳院 の惣門は今も残っており、先日のブログ記事にも写真を載せましたが、どうも東向きの門を午後に撮影すると逆光でうまく撮れないので、今日撮影した裏側の写真を載せておきます。

写真4:増上寺宝物展示室入口
さて、はやる心を押さえつつ、増上寺宝物展示室へ行ってみました。展示室は本堂の地下にありますので、本堂の右側の階段を下りていきます。入場料は700円。徳川家墓所入場券と共通チケットだと1,000円です。墓所は以前見たので、今回はパスです。写真は撮影可能か受付で聞いたのですが、残念ながら撮影は禁止とのことで、写真はありません。このリンクに多少模型の写真がありますので、ご参照ください。

模型は非常に精巧なもので、単なる模型製作者が作ったものではなく、制作当時(明治43年)の各分野の最高の職人を集めて、東京美術学校(現東京藝術大学)教授の監修の元、精密に再現されたものでした。模型は外観だけではなく、内装まで正確に再現されており、その美しさも息をのむものです。特に本殿内部は金箔押しの壁上に極楽浄土を表す蓮華が描かれており、非常に美しいものです。肘木などの複雑な木組みも実物そのままに再現されており、さらに、日光東照宮でもおなじみの木彫や彩色が施されています。日光東照宮の建設(寛永13年1636年)の前に台徳院霊廟が建設(寛永9年1632年)され、台徳院霊廟が日光東照宮の造作に影響を及ぼしたといわれています。

さて、この模型が日本に長期貸与されてから実際に展示される(2015年4月2日)までの間、専門の修復者による清掃と修復作業が行われており、展示室では模型製作当時の美しさで鑑賞するだけでなく、修復作業をまとめたビデオを見ることもできます。私のつたない文章では、その素晴らしさを伝えられないので、ぜひ実物の展示をご覧いただければと思います。

写真5:焼失前の台徳院霊廟・惣門から奥の勅額門を望む
模型の写真は撮影できなかったのですが、代わりに戦前に撮影された絵葉書セットを貰いました。写真5は台徳院霊廟惣門から奥の勅額門を撮影したものです。模型の前面にある門は惣門でも勅額門でもなく、さらに奥の中門ということで、霊廟がいかに壮大だったのか、そのスケールが分かります。 下図は創建間もないころに描かれたものと思われます。奥の方の塀に囲まれている部分が模型の範囲です。
江戸図屏風(17世紀)に描かれた台徳院霊廟

実は台徳院霊廟は空襲で完全に焼けてしまったわけではなく、惣門の他にも勅額門、丁子門、御成門が残っていましたが、これらの建物は、戦後重要文化財に指定され、惣門以外は埼玉県狭山市に移設されました。移設先は当初はユネスコ村と呼ばれ、現在は狭山不動尊と呼ばれているようです。写真6,7,8に狭山不動尊に移設された建物の写真を上げますが、リンクが切れると表示されなくなるかもしれません。
写真6:狭山不動尊に残る勅額門
写真7:同丁子門

写真8同御成門
増上寺の北半分は戦後東京プリンスホテルに、南端部はプリンスパークタワーになっていることや、移設先などを考えると、西武グループの影響を強く感じますね。移設には堤義明氏がかかわったようですが、東京プリンスホテルがらみの話は父親の堤康次郎の仕事でしょうね。
写真9:本日の増上寺境内
 増上寺は桜の名所としても名をはせておりますが、残念ながら染井吉野はまだ開花しておらず、枝垂桜が少し咲き始めたところでした。来週末ごろには桜も見ごろになるのではないかと思われます。この後、増上寺から浜松町駅の方に歩いて行く途中で、何人もの外国人観光客とすれ違いました。芝離宮から増上寺にかけてが観光おすすめコースなのかも知れません。



2016年3月13日日曜日

空襲で焼失した増上寺の台徳院霊廟だが精巧な模型があったんだ

2010年8月10日に「江戸の面影・芝増上寺」というブログ記事を書きました。リンクはここです。この記事を書いたのはもう5年半も前の事ですが、記事の中で、戦前にあった徳川家の霊廟の事も触れました。戦前はこの地に6名の徳川将軍の壮大な霊廟があり、旧国宝に指定されていました。現在残されていたら間違いなく世界遺産に指定されていたはずですが、残念なことに大戦中に昭和20年5月の空襲で焼失してしまいました。ただ、ごく一部、たとえば台徳院(二代将軍秀忠)霊廟の惣門は残されており、日比谷通りに面した場所に現在も威容を誇っています。
台徳院霊廟の惣門

 霊廟は非常に立派なもので、日光の東照宮を上回るものだったといわれていますが、現在その姿を残すものは戦前に撮影されたモノクロ写真のみとなっていた...はずでした。
有章院(徳川家継)霊廟
元の記事を書いていた当時は、勤務先が増上寺の近くだったので、昼休みなどには良く境内を散歩したものでした。そういうわけで何か催しがあれば、すぐに気が付いたのですが、その後勤務先が変わったこともあり、増上寺とは疎遠のまま数年が過ぎてしまいました。で、なにげなくGoogleで増上寺に関して検索していたところ、驚くような記事を発見しました。


 国宝「台徳院殿霊廟」空襲で消失→「まさか…」英国で国宝級の精巧模型発見→増上寺で日本初公開という産経ニュースの記事(2015年4月10日付け)です。

 詳細はリンク先を読んでほしいのですが、記事自体が削除されてしまう可能性もあるので、概要をここに記載します。

1920年(明治43年)に日英博覧会が英国ロンドンで開催され、それに出展するために東京市が東京美術学校(現在の東京藝術大学)に依頼して台徳院霊廟の模型を製作させたものだそうです。博覧会終了後。模型は英国王室に献上されたのですが、その後第二次世界大戦の戦火を逃れるためにロンドンの北西約200Kmの片田舎の倉庫に収納され、忘れ去られていたそうです。それをオーストラリア人の建築史学者ウィリアム・コールドレイク教授が1996年に発見したとあります。
この模型は10分の1スケールで作られている為、かなり大型で幅4メートル奥行5メートル高さ2メートルということです。制作には東京美術学校教授であった高村光雲もかかわっていたとのことで、かなり精巧に作られているようです。上の方に写真を載せた惣門もしっかりと再現されているのが分かります。(模型の方はスケルトンになっている感じはしますが)

発見された模型
 コールドレイク教授はキリスト教宣教師の両親の元1952年に日本で生まれ現在は東京大学の特任教授をされているそうです。

この模型は日本に長期貸与されることが決まり、昨年(2015年4月2日)に開館した増上寺宝物展示室に展示されているそうです。これはさっそく見に行かなくては。 見てきたらまたブログを書きます。

2016年3月12日土曜日

加賀鳶を歌舞伎にした河竹黙阿弥という人 ~江戸から明治へ~


加賀鳶の話ついでに..

加賀鳶を歌舞伎の芝居として登場させた盲長屋梅加賀鳶は初演が明治19年。芝居を書いたのが河竹黙阿弥文化13年2月3日1816年3月1日) - 明治26年(1893年1月22日)という歌舞伎狂言作者です。詳しい来歴はリンク先のWikipedia記事を読んでください。もともとは二代目河竹新七と名乗っていたのですが、ある理由で黙阿弥と名乗るようになりました。

河竹黙阿弥
この人は幕末から明治にかけて活躍した狂言作者で、白波(盗賊)ものなどで現在でも演じられる多くの名作を残しています。個人的には幕末に書かれた四代目市川小團次との提携による『三人吉三廓初買』(三人吉三)(安政7年1860年)や十三代目市村羽左衛門(五代目尾上菊五郎)のための『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)(文久2年1862年)あたりが好きですね。特に黙阿弥調とも呼ばれる七五調を連ねた台詞回しにはしびれるものがあります。

特に三人吉三廓初買の 「大川端庚申塚の場」でお嬢吉三が夜鷹を川に突き落として百両を奪った後の科白「厄払い」は名科白であります。
月も朧(おぼろ)に 白魚の
(かがり)も霞(かす)む 春の空
冷てえ風も ほろ酔いに
心持ちよく うかうかと
浮かれ烏(からす)の ただ一羽
ねぐらへ帰る 川端で
竿(さお)の雫(しずく)か 濡れ手で粟(あわ)
思いがけなく 手に入る(いる)百両
(舞台上手より呼び声)御厄払いましょう、厄落とし!
ほんに今夜は 節分か
西の海より 川の中
落ちた夜鷹は 厄落とし
豆だくさんに 一文の
銭と違って 金包み
こいつぁ春から 縁起がいいわえ
『三人吉三廓初買』の序幕「大川端庚申塚の場」(三代目歌川豊国画)
 百両と言えば、今でいうと1,000万円くらいにはなるでしょうか(幕末なのでもう少し少ないかも。でも数百万円にはなるでしょう)。夜分に女性を川に突き落として大金を奪う(強盗傷害、場合によっては致死)など、本当にひどい話ではありますが、まあこれは芝居の中ということでご勘弁を。現代は便利なものでYoutubeで、この名調子を聞くことができます。ここにリンクを貼っておきます

二代目河竹新七は明治に入っても筆は衰えることはなく、数々の狂言を世に送り出していたのですが、若干世の中の風向きは変わってきたようです。それが演劇改良運動ということで、Wikipediaの記事では

「明治時代に入って文明開化の世となり、西洋の演劇に関する情報も知られるようになると、歌舞伎の荒唐無稽な筋立てや、興行の前近代的な慣習などを批判する声が上がった。1872年(明治5年)歌舞伎関係者が東京府庁に呼ばれ、貴人や外国人が見るにふさわしい道徳的な筋書きにすること、作り話(狂言綺語)をやめることなどを申し渡された。」

とあります。なんだか無粋な話ですね。さらに

文明国の上流階級が見るにふさわしい演劇を主張し、女形の廃止(女優を出演させる)、花道の廃止、劇場の改良、芝居茶屋との関係見直しなどを提言し..」

 とあります。「文明国の上流階級が見るにふさわしい」という表現に思わず失笑を禁じえません。まあ西欧列強国から馬鹿にされないために、明治の官員さんにとっては死活問題だったのでしょう。

鹿鳴館での舞踏会風景
 一方、二代目河竹新七は元々九代目市川團十郎のためにも狂言を書いていたのですが、九代目が新聞記者出身の福地桜痴などと本格的に演劇改良運動に取り組み始めると、これに嫌気がさして筆を折ってしまいます。そして名前も「黙阿弥」と称して、表舞台からは一歩退きました。が、他の狂言作家の助筆として書き続けていたようです。

このような経緯の中でも彼の評価は衰えず、その後、演劇改良運動が失敗に終わると、名を黙阿弥改メ古川黙阿弥と称し、また表舞台に戻ってきました。そうして書かれた盲長屋梅加賀鳶の初演は、復活後の明治19年3月(1886年)の事です。江戸から東京に変わり、すでに18年の歳月が流れています。

明治維新以降、旧来の文化が否定されるも、やはり価値のある伝統は復活するものなんですね。似たような話が美術界にもありますので、いずれ筆を執りたいと思います。筆と言ってもキーボードを打つのですが(笑)これも伝統的な表現ですね。

2016年3月6日日曜日

朱引きと墨引き ~江戸の境界~

昨日の投稿で「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」という川柳をご紹介しましたが、これは中山道の本郷三丁目にあった「かねやす」小間物店あたりまでは都会的な瓦屋根で、そこから下ると板葺や茅葺屋根に変わることを喩えたものであり、実際に江戸の行政区分の境界の事を言っていたわけではありません。それでは、実際の行政区分として、江戸の領域はどこまでを言うものだったのでしょう。
図1 雪の日本橋
 江戸の範囲は当初二里四方、後に四里四方などと言われていましたが、実際にははっきり決まっていなかったようです。江戸近郊は全て幕府の天領(直轄地)だったことや、土地によって管轄が異なる(町人地は町奉行、寺社は寺社奉行、武家地は目付や大目付など)事や、そのほかにも細かい規定(江戸曲輪内から四里以上離れる場合は旗本は届を出す必要があるとか、江戸払いの者は四宿以内と本所深川には入れないなど)がありました。

これでは不便だということで、文政元年(1818年)の8月に目付だった牧助右衛門が「御府内外境筋之儀」についての伺いを幕府に出しました。これは「どこからどこまでが江戸なのという問い合わせを受けても目付の方に書き物がなく、調べても統一的なものがないので、はっきりさせてくれ。」というものだったそうです。

これを受けて幕府評定所の方で入念な評議が行われ、同年12月に老中阿部正精から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の正式見解が示されました。現代語でいうと、「別紙の地図上の朱引き(赤線)内が御府内(江戸内)である。」ということです。で、別紙の地図が図2(東京都公文書館所蔵の旧江戸朱引内図)です。

図2 旧江戸朱引内図
 なんだかちょっと分かりずらいのですが、東が上になっていますので、右に90°回転させると現代の地図に近い方向になります。朱引きの他に黒線が描き込まれていますが、こちらは墨引きと呼ばれて、町奉行の管轄範囲を示しています。一部目黒のあたりで、墨引きが朱引きからはみ出している部分(目黒不動のあたり)がありますが、他はおおむね朱引きの範囲内に収まっています。

朱引の範囲を大まかに言えば
  • 東…中川限り
  • 西…神田上水限り
  • 南…南品川町を含む目黒川辺
  • 北…荒川・石神井川下流限り
 ということになります。江戸四宿(千住、板橋、内藤新宿、品川)は朱引の範囲内なので、一応御府内です。図2だと分かりにくいので、現代の地図に重ねて引いてみると図3のようになります。
図3 現代版朱引き墨引き地図
 こうやって見るとだいぶイメージが湧きますね。老中から出てきたのはずいぶんと大雑把な線でしたが、実際は細かい凸凹が多く見られます。伊能図の完成が文政4年(1821年)なので、まだ正確な地図がなかったこともあるでしょうが、国防上の理由からわざと不正確な縮尺の地図を使っていたのかもしれませんね。

こちらのリンク先にもう少しわかりやすい朱引図が掲載されていますので、併せてご確認ください。図4がリンク先の地図になります。リンク先に目黒不動がなぜ墨引き内だったのか説明があり、大変参考になります。(注:リンクが切れると図4は表示されなくなるかもしれません。)

図4 現代版朱引き図(主要な地名入り)
私の出身地である墨田区北部(スカイツリーの近く)は墨引きの範囲外ではありますが、朱引き内には入っていたので、少し安心しました。でも江戸当時は郊外の田園地帯だったと思います。墨田区北部に人口が急増したのは大正12年の関東大震災以降と、昔聞いたことがあります。

ということで今日は江戸の境界についてまとめてみました。

2016年3月5日土曜日

本郷もかねやすまでは江戸の内

前回は本郷の盲長屋の話を書きましたが、その盲長屋のすぐ近く、本郷三丁目の交差点の所に「かねやす」という店があります。今日はその「かねやす」のお話です。

図1現代の本郷三丁目
図1は現代の本郷三丁目付近の地図です。前回も掲載しました。地図の下の方を東西に走っているのが今の春日通り(江戸当時は本富士通りと呼ばれていたようです。)で東に行くと坂を下って湯島を通り御徒町に出ます。地図の左の方を上下に走っているのが本郷通りまたは国道17号線(江戸当時の中山道) でその交差点が、今でいう本郷三丁目の交差点です。それで、交差点の南西の角に「かねやす」と書かれているのが分かると思います。

 ここに「かねやす」という雑貨店があったのですが、最近はいつ行ってもシャッターが閉まっており、店は閉店してしまったのかもしれません。「かねやす」は400年以上もの歴史があり、タイトルにある川柳にも詠まれています。

いわれはWikipediaにありますのでリンクを張っておきます

まあ、簡単に要約すると、その昔京都に兼康祐悦(かねやすゆうえつ)という名前の歯医者がおり、徳川家康の江戸入府に伴い、江戸についてきたそうです。元禄年間になって「乳香散」という名前の歯磨き粉を販売したが、それが人気を博し、ここ本郷三丁目の地に「兼安」という小間物店を開いたそうです。さらに「乳香散」が売れまくったので、のれん分けをして別の「兼安」が芝に開店したそうです。後に本郷の店と芝の店が本家争いをした時に、時の町奉行である大岡忠助が、「芝は「兼安」本郷は「かねやす」を名乗るように」との大岡裁きで本郷の店はひらがなの「かねやす」になったそうです。

加賀鳶として加賀金沢藩の藩邸に出入りしていた、我がご先祖の巳之助はこの「かねやす」で歯磨き粉でも買っていたかもしれないと思うと不思議な感じです。買い物はしていなかったかも知れないですが、加賀鳶詰所から目と鼻の先にある有名な小間物屋だったので、知らなかったことはないでしょう。

図2かねやすのプレート
で、その後..(Wikipediaの記事を引用)..「享保15年、大火事が起こり、復興する際、大岡忠相は本郷の「かねやす」があったあたりから南側の建物には塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根茅葺きを禁じ、で葺くことを許した。このため、「かねやす」が江戸の北限として認識されるようになり、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳が生まれた。」とのことであります。

昨日、用事があって本郷三丁目まで出かけたのですが、 「かねやす」は現在は7階建てのかねやすビルになっています。1階には「かねやす」の店はあるものの、シャッターが閉まっていました。でもビルの端の所にはしっかりとこの川柳といわれの書かれたプレートが取り付けられていました。

大岡越前守忠助の命により、「かねやす」よりも南側では茅葺屋根が禁じられたということですが、板葺は許されたのでしょうかね?すべて瓦葺の建物ばかりだと江戸の町もかなり壮観だったのでしょう。実際残された幕末の写真を見ると、特に大名屋敷街は壮観だったようです。

図3幕末の大名屋敷街(愛宕山から浜御殿方面
 図3は幕末にフェリーチェ・ベアトという写真家が撮影したもので、愛宕山から東方向の写真です。遠くに見える森は浜御殿(今は浜離宮恩賜庭園と呼ばれていますが..)手前に立派な大名屋敷が並んでいますね。当時の地図を見ると、手前の塀の向こうは左側が御老中越後長岡藩牧野備前守様の下屋敷。右の方にあるのが(写真からははみ出しているかもしれませんが)大和小泉藩片桐石見守様の上屋敷のようです。その奥が伊予松山藩の松平隠岐守様の上屋敷。そんな感じで浜御殿までお屋敷が延々と続きます。幕末に江戸を訪れた海外の人々も、江戸のスケールに相当驚いたことだと思います。

図4愛宕山からのパノラマ写真
実は図3の写真はパノラマ写真になっていて全体像が図4です。ちょっと細かくて見ずらいので中央部分だけを取り出したのですが。図4には果てしなく広がるかに見える壮大な大名屋敷群が見て取れると思います。左の奥の方に築地本願寺の本堂も映っています。

ということで今日は江戸の町に思いを馳せてみました。

PS.投稿後本件に関連する画像を追加で見つけたので上げておきます。


図5本郷カネヤス店頭の賑わい
図5は「かねやす」が集客のために作った双六を兼ねたチラシの一部です。宣伝用なので、当時本当にこんなに賑わっていたのか真相は不明ですが..洋傘を差したご婦人の姿や上の方に西洋式の建物が描かれたりしているので、明治期のものと推定されます。「大うり多し(大売出し)」と書いてあるのが何だか微笑ましいです。

図6乳香散の引き札(ちらし)
図6は「かねやす」の人気商品である乳香散のチラシですね。「口中一切之薬」と書いてあるのが分かります。