2016年8月27日土曜日

イタリアの地震とチビタ ( Civita di Bagnoregio )

つい先日のこと、8月24日午前3時36分にイタリア中部をマグニチュード6.2の地震が襲い、決して耐震強度の強いとは思えない建物が多数倒壊し、多くの犠牲者を出しました。8月27日朝の時点で犠牲者が281名。まだ瓦礫の下に不明者が埋まっていますが、余震が怖くて救出作業が進まない模様です。命からがら逃げた人も家を失い、まったく胸が痛みます。

イタリアは石造りの建物が多く、地震など無いのかと思いがちですが、意外と頻繁にあります。1997年にイタリアのアッシジで起きた地震で、聖フランチェスコ大聖堂(ジオットのフレスコ画で有名)が被害にあったのはまだ記憶に新しいですね。このリンク先に世界の地震分布の地図があります。ちょっと凡例が良くわかりませんが、南ヨーロッパ、すなわちフランス南部からイタリア、旧ユーゴそしてギリシャを通ってトルコに至るあたりは結構地震が多いことが分かります。

地球のプレートでいうと、イタリアはアフリカプレートに乗っていて、ヨーロッパプレートにぶつかるあたりが隆起してアルプス山脈になっているようです。したがって日本と同じでプレート境界にあたり、その結果、火山や温泉や地震があります。

その昔、1990年代の初めに米国に住んでいたことがあり、その間、夏休みに3週間程度時間があったので、イタリアを旅行したことがありました。大まかな旅程は、米国→(飛行機)→ウイーン(オーストリア)→(寝台列車)→ベネチア→(レンタカー)でイタリア中部巡り→ミラノ→(飛行機)→米国へ帰国のような感じで、ちょうど5月か6月の初夏の気持ちの良い気候で、なかなか楽しい旅行でした。

イタリア中部巡りは日程的にも余裕があり、またレンタカーでの移動ということもあって、普段はいけないような場所を訪れようと思い、旅程も凝ったものを事前に用意しました。その時に訪れたのが、表題にある Civita di Bagnoregioという町でした。

ここは非常に変わった場所で、いままで訪れた中でも強く印象に残っています。
Civita di Bagnoregio遠景
遠くから見ると写真のようになっています。この町は、リンク先にも説明のある通り、もともと大地の上に作られたエトルリア時代(ローマ時代の前)の町だったのですが、17世紀の大地震により集落の周囲が崩れてしまい、その後もどんどん崩落が進み、19世紀は現在のような島状に中心部だけが残されてしまいました。この町の手前に車を止めて、写真にあるように橋のような通路を歩いて渡って行った記憶があります。
町の中

町の中は典型的な古いイタリア風の集落で、人口も少ないせいか、とても静かでした。なぜか猫がたくさんいたのを覚えています。

地震が作り出した奇跡のような風景です。ツアーの旅程に入ることはないでしょうが、もしも時間に余裕のある旅をするのであればお勧めの場所です。

2016年8月21日日曜日

旗本退屈男は退屈だったのか?

「額に冴える三日月は、天下御免の向う傷、直参旗本早乙女主水之介、人呼んで旗本退屈男..」

という名科白とともに登場する旗本退屈男、諸羽流青眼崩しという無敵の剣技で、周囲を取り囲む悪者をバッタバッタと切り倒す華麗で痛快な殺陣。まさに時代劇の醍醐味ですね。


 旗本退屈男は佐々木味津三が昭和四年に発表した時代小説で、当時自らのプロダクションを持っていた剣劇スタアである市川右太衛門が気に入って映画化。昭和五年から昭和三十八年までの間に計30本もの映画が製作されました。その後、テレビでも市川右太衛門で1本、その息子の北大路欣也の主演で十数本のドラマとして製作されているようです(その他の俳優でも数本)。

ちなみに佐々木味津三は「右門捕物帳」というシリーズも書いており、こちらは嵐寛寿郎主演で36本も映画化されています。当時は時代小説の人気作家だったようです。

Youtubeに旗本退屈男第一作の映像がありましたのでリンクを上げておきます。 この当時はサイレントなので、弁士の解説付きです。その後映画も音声付のトーキーに移るのですが、多くの俳優がトーキー化の流れで脱落する中で、市川右太衛門は器用に生き残っていきます。

武家屋敷(江戸ではなく松江ですが)
さて、旗本退屈男の時代は元禄で早乙女主水之介は1,200石取りの直参旗本。無役のために暇を持て余し、江戸市中をぶらぶらしていて、事件の匂いを嗅ぎつけると遠く西国まで出かけていき剣の技で解決するという設定です。

江戸時代は幕府に直接仕えていた武士は旗本御家人と呼ばれ、旗本は直接将軍に面会することが許される御目見えかつ一般的に家禄200俵以上を言うようです。寛政年間(元禄よりも100年ほど後)の資料によると、その数が5,158家(200俵未満の旗本も含んでいますが)。その下の御家人を合わせると17,000家ほどに上るようです。

しかし、 早乙女主水之介のように1,200石以上もの石高を与えられた大身の旗本は626家ですので、旗本の中でもかなりな上澄みですね。1,200石と言っても収量が1,200石の知行地の徴税権を与えられということです。旗本知行地の場合の税率は四公六民と言って40%(不作の年もあるので実勢は35%という説もあり)ですので、実際の早乙女家に入るのは、1,200石×0.4=480石。当時の1石は貨幣で1両ですので、年収480両ということになります。当時の1両が今の貨幣価値でどのくらいに相当するのかは変換が難しいのですが(江戸時代でも時代によって変わってくる)、ここでは1両=12万円と計算すれば、早乙女家の年収は5,760万円ということになります。

年貢の取り立て
もちろんここから税金はかかりませんし、屋敷も幕府からの拝領屋敷(上物は自前だったりしますが)なので家賃もかかりません。それじゃぁ丸残りかというとそうではなく、家来や奉公人を雇う必要があります。先ほどのリンク先の情報では、1000石級の旗本ですと、軍役21名(侍に足軽や槍持ちなども含むようです)に女中さん5名位、拝領屋敷は900坪程ということですので、それなりに侍や足軽や中間なども抱えておかなければいけません。旗本と言えば「殿様」と呼ばれますが、1,200石だと規模的には中小企業のおやじさんみたいな感じでしょうかね。 
旗本屋敷の例(330坪)
話が脱線しましたが..約5,000人もいる旗本に幕府での役職がすべて割り振られるかというと、そうではなく、役が割り振られない旗本は家禄3,000石以下の場合は小普請組という組織に所属させられました。ここは就職待機組のようなもので、禄高に応じた普請金を負担(2%程度)し、月に三回支配屋敷へ出仕しました。支配屋敷に行っても大した仕事があるわけではなく、 役希望・隠居・相続・急養子などの相談をするのみで、すぐに終わってしまったようです。

無役の旗本が何人くらいいたのか、ちょっと数字が出てきませんが、小普請は家禄のある浪人とも呼ばれ、幼年小普請、老年、しくじり、病気小普請などの俗称もあるようですので、無役でいるのは何らかの「わけあり」な殿様だということになります。当時の番衆狂歌というものに、こんな歌が残っています。

  小普請は公儀おきてを知らずして 自まま気ままの不行跡あり

早乙女主水之介も何らかの問題を抱えていた人物だったのでしょう。

ということで、旗本退屈男・ 早乙女主水之介は無役で小普請組には出仕すものの、大変暇だったので、たいそう退屈していたものと思われます。しかし、旗本は将軍直属の家来でありますので、知行地に行くなどの職務以外で勝手に江戸を離れるわけにはいきません。 早乙女主水之介のように退屈だからと言って、上役に断わりもなくふらっと遠方に旅立つようなことは実際にはできなかったと思います。

番町の地図
蛇足ですが、先ほどの旗本屋敷の平面図ですが、北側が裏六番町、東側が善国寺谷通往還とありますので、上の六番町の地図でいうと「大熊」さんの家にあたりますね。ただ旗本の屋敷もしょっちゅう変更されていたので、平面図に住んでいたのが大熊家かどうかは定かではありません。

ちなみにこの大熊家の場所は現代の住所でいうと、東京都千代田区六番町で、現在は河合塾麹町校があるようです。

2016年8月14日日曜日

横浜の終戦後・進駐軍による占領時代

熊本の地震のショックなどもあり、しばらくブログ書きから遠ざかっていましたが、明日は終戦記念日ということもあり、横浜の占領時代の事でも書きましょう。JJは横浜に住んで30年近くになりますが、もともと横浜の出身でもなく、戦後生まれでもあります。それほどこの話題に詳しいわけではありませんので、最初にお断りしておきます。

大東亜戦争の末期、1945年になると日本の各大都市が連合軍(といっても米軍だが)の空襲に晒されました。これは民間人を巻き込んだ無差別爆撃で、明らかに国際法違反の攻撃です。我が横浜も昭和20年5月29日の昼間にB-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機による攻撃(主に焼夷弾による爆撃)で8,000名から10,000名に上る犠牲者を出しました。アメリカ軍は攻撃目標を東神奈川駅平沼橋横浜市役所日枝神社、大鳥国民学校の5ヶ所に定めて襲撃し、特に被害が甚大だったのは、現在の神奈川区反町保土ケ谷区星川町南区真金町地区一帯とされているようです。東神奈川駅が攻撃地点の一つに選ばれたのは、相模原の補給廠や長津田の弾薬庫(現在のこどもの国)などの内陸部の軍事拠点と横浜港や横須賀の海軍基地を結ぶ鉄道の要所だったからでしょうか。

しかし一方で、横浜大空襲による港湾施設への被害は比較的軽微で、これは終戦後を見据えて破壊を控えたものと言われています。その後7月26日のポツダム宣言とそれに対する日本政府の黙殺を経て8月6日に広島、8月9日に長崎への原子爆弾、同日にソビエト連邦の参戦があり、8月15日にとうとう無条件降伏することになります。で、終戦です。

8月30日に進駐軍総司令官となるダグラス・マッカーサーが厚木基地に降り立ちました。マッカーサーはその足で横浜のホテルニューグランドに向かったということです。このホテルはかつてマッカーサーが新婚旅行で訪れた場所でもあります。
厚木基地に降り立つマッカーサー
 引き続いて9月1日には進駐軍が各地に上陸してきます。米海軍の戦艦ミズーリ号上での降伏文書への調印式は翌9月2日のことです。
進駐軍上陸の記事
日本占領には40万人の将兵が投入されましたが、神奈川県にはフィリピンで日本軍と戦った第8軍が進駐し、同年11月までに進駐軍人の数は6万4625人に上りました。この人数は沖縄を除く全国の都道府県の中でも最も多く、東京都 の3万3890人と比較しても倍以上に相当し、厚木、横須賀などの重要な軍事基地と横浜港という重要な物流拠点を有する神奈川県を進駐軍の拠点として非常 に重要視していたことが分かります。
横浜港へ向かう上陸用舟艇
 米軍は横浜に上陸すると次々に港湾施設を接収していきました。大桟橋はサウスピア、新港埠頭はセンターピア、そして瑞穂埠頭はノースピアと呼ばれ、焼け跡になっていた市内中心部も接収され、兵舎などが建設されます。
山下公園に立ち並ぶ進駐軍住宅

横浜市内に立ち並ぶカマボコ型兵舎
血気盛んな若い兵隊さんたちが大勢上陸してくれば、当然性犯罪なども起こったのですが、当時の進駐軍による報道規制(プレスコード)により、報道記事も「強姦事件の犯人は大きな男..」のような表現にとどまらざるを得なかったようです。

接収の解除は日本国側からの要請と進駐軍側の重要性を勘案して順次進められてきたようですが、本格的な接収解除は昭和26年のサンフランシスコ講和条約締結を待たなければなりません。それ以降も接収の続いた施設は多く、瑞穂埠頭(ノースピア)に至っては2016年現在まだ返還されていません(自衛隊も共用で利用しているようではありますが)。この大規模な接収が横浜の戦後復興を遅らせたという見方もあります。

ただ、別の側面から見れば、戦後復興が遅れたために、市の中心部の建物は比較的新しく、多くの米国軍人が居住していたことから、エキゾチックな文化も感じられ、現代の国際観光都市としての横浜の魅力形成に一役買っていると言えるかもしれません。

最後にちょっと興味深い占領時代の地図を掲載します。各道路に1st streetとか"A" Avenueとかの英語名がついているのが興味深いです。今でいう伊勢崎モールが5th Streetすなわち5番街になっていますね。横浜球場も接収されてLou Gehrig Stadiumに改名されています。市街地の中で黄色い部分は進駐軍が接収していた土地のようで、先ほど写真にあるカマボコ型兵舎などが建ち並んでいたようですね。この地図は昭和26年~30年ごろにかけて発行されたもののようで、サンフランシスコ講和条約が締結され、一応の独立国になった頃でも、まだ横浜の中心部は進駐軍に占領されたような状態だったことが分かります。
占領時代の横浜中心部の地図
地図の周囲は当時の進駐軍相手の店やホテルの広告が取り囲んでいるのも興味深いですね。

ということで、今日は終戦記念日にちなんで、横浜の占領時代について書いてみました。