2010年12月18日土曜日

クロッカスの水栽培(その4)

クロッカスもだいぶ伸びてきましたね。今日は水替えをして、液肥を少し施しました。

2010年12月12日日曜日

クロッカスの水栽培(その3)

で、クロッカスのその後です。水栽培容器にセットしてから20日くらい経ちました。下の写真のように順調に成長しています。そろそろ追肥を与えてみようかと考えています。

2010年12月4日土曜日

クロッカスの水栽培(その2)

11月23日にセットアップして、その後紙袋をかぶせておいたクロッカス水栽培セットですが、もちろん途中で様子を確認していますが、10日を経てまあまあ順調に育っております。
11月23日にセットしたときは上の状態(もちろん机の上から移動させました。)

そして、現在の状態ですが、
こんな感じになっています。根が2cm程度に伸びてきましたね。そろそろ紙袋は卒業かな?球根の上の方は、
先端が割れて、芽が出始めています。春先に可愛い黄色い花を咲かせるのが待ち遠しいですね。

2010年11月28日日曜日

マレーシアのコンビニお菓子

先週ちょっと仕事でマレーシアのペナン島に行ってまして、今朝帰って来ました。羽田発着の国際便が増えて、シンガポールなど夜行便でいけるようになったので、羽田発シンガポール乗換え、機中2泊ホテル2泊の強行軍でした。

ペナン島はマレーシア北部のインド洋側にある島で、かつては英国植民地の港湾として、現在では電子関係製造業の集積地域として(それなりに)発展しています。旧市街には英国植民地時代に建設されたGeorge Townがあり、この地区全体がユネスコの世界文化遺産に登録されています。

ペナン島やマレーシアに関しては後日書くこととしまして、ホテルの近所にあったコンビニ(セブンイレブン)で見つけたお菓子について報告します。まずこれです。
グリコのポッキーのようですが、箱には「みるくRocky」と書いてあります。こりゃあ、アジア特異のパクリモノか?と思いましたが、箱の上部には燦然と輝く「glico」のロゴが入っています。製造会社を見ると、グリコのタイにある子会社のようです。

Rockyに関して調べたのですが、イスラム人口の多い(>60%)マレーシアでは、イスラム教徒が食べてはいけない豚肉(Pork)を連想させるPockyを避けたことが異なるネーミングの原因のようです。そのほかにも、Pockyがマレーシアでよからぬ意味を持つからという説もあるようですが、それについては真偽が確認できていません。

価格は2リンギで日本円では52円くらいです。

次の写真はこれです。
これは「コアラのマーチ」のパクリモノかと思いましたが、明治製菓から国内でも販売してるのですね。値段は3.5リンギ日本円で93円くらいですね。

これはさすがにパクリものでしょう。
DING DANGと書いてありますが、パッケージの絵は日本の国民的アニメキャラクターに似ていますね。メーカーはマレーシアの金楽食品貿易で、ブランドのマークの「KINOS」もなんとなくポパイに似ています。中身はビスケット入りのチョコボールのようです。値段は0.9リンギで、日本円で24円くらいですね。まあ、何となくほほえましい感じがしますね。

2010年11月23日火曜日

クロッカスの水栽培

ずっとツイッターに気をとられていてブログの更新が止まっておりました。ごめんなさい。


今日は球根の水栽培の話です。水栽培というと、ハイドロカルチャーも水栽培ではありますが、JJの子供の頃は、なんと言っても球根です。小学校の教室などに、ガラス製(プラスチック製もありますが)の水栽培容器が置かれていて、クロッカスやヒヤシンス、スイセンなどが伸びてきて花を咲かせるのは非常に不思議に見守った思い出があります。

 その後、色々と植物は育ててきたのですが、なぜか球根の水栽培はやってみたいと思っていましたが、機会がありませんでした。で、今日いよいよゲットしてきたのです。

近所の園芸店(サカタのタネガーデンセンター)で買ってきました。球根がそろそろ季節が終わるので、特売で31円、栽培容器の方は157円です。球根は、花の色で白と黄色と絞りがありましたが、ここは、春らしい黄色を買いました。

 容器の中に根腐れ防止剤(ミリオン)を投入して、水を注ぎます。水位は球根の発根部分が漬かるくらいに調整します。このあと、根が1~2Cm暗い伸びるまで、暗いところに置く必要があります。
 ちょうど、不要になったワインの紙袋がありましたので、これを切ってかぶせておきましょう。
 これがカバーをかぶせた状態です。このまましばらく様子を見ましょう。順調に行けば1月下旬くらいに暖かい場所に移し、2月~4月ごろ開花する予定です。

今から楽しみですね。

2010年10月3日日曜日

アート縁日(今年は10月9日(土)と10日(日))

JJの住んでいるのは、横浜のポートサイド地区という場所で、元は倉庫や工場の集積地帯だったのですが、20年程前から「アート&デザインの街づくり」をテーマに再開発されて、現在に至っています。この街のことはいずれ詳しく書こうと思いますので、ここでは省きます。

ポートサイド地区の一番大きなイベントに「アート縁日」があります。今年は10月9日と10日の二日間ポートサイド公園で開催されます。アート縁日では、いろいろな(自称も含めて)アーティストたちが自分の作品を携えて、展示即売を行います。ガラス器、木彫、絵画、写真、手芸、金工など色んなものがあり、見ているだけでも楽しいです。

ポートサイド地区は横浜駅から歩いて10分ほどの距離です。天気がよければ横浜にお越しのついでに寄って見られてはいかがでしょうか?


アート縁日の紹介ページはこちら

ポートサイド地区の紹介ページはこちら


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2010年9月23日木曜日

縄文土器・土偶・埴輪など

先日用事があり、新潟県十日町市を初めて訪れました。市内を車で走っているときに、火焔式土器の看板を見かけたので、十日町市博物館に寄ってみました。この博物館は小ぶりな市営の施設ですが、平成11年に国宝に指定された火焔式土器(実は20個もあります)を始め、縄文時代から近世にいたる地域の生活や織物産業、そして信濃川の水運などに関する充実した展示がされていました。特に縄文時代人の生活を再現したジオラマは圧巻でした。

博物館前に再現された竪穴式住居(奈良時代)
この博物館のエントランスのところに、ガチャガチャが何台か並んでいて、そのうち興味を引いた「埴輪と土偶+土器」シリーズ(エポック社)を一回買ってみました。中に入っていたのは踊る埴輪(女性)でした。

そんなこともあって、それから土器、土偶、埴輪などに何となく関心が向き、先日国立東京博物館に見に行ってしまいました。また、このガチャガチャのフィギャーも気になって仕方が無かったので、楽天で全種そろいのセットを大人買いしてしまいました。今日はこのフィギャーの写真を紹介します。写真の背後に写っているマス目は1Cmなので大体の大きさがわかると思います。
縄文式土器(火焔式土器)


これが十日町博物館にあった国宝の火焔式土器のフィギャーですね。縄文時代中期の作で、十日町笹山遺跡からの出土品です。用途ははっきりしませんが、これだけ凝った精緻な装飾が施されていることから、何らかの祭祀用だったと思われます。縄文時代は初期は非常に寒冷で中期は現代よりも気温が高く晩期に向かって再び慣例化して行ったようです。十日町は日本でも(世界でも)有数の豪雪地帯ですが、この土器が作られた当時はもっと温暖だった可能性があります。あとのほうで弥生式土器も登場しますが、この縄文土器のもつ創造のエネルギーの高さを非常に感じる一品です。この土器は一般の人が作業の合間に製作したというレベルではないですね。おそらく専門の工人が存在したものだと想像します。
遮光器土偶
遮光器土偶は縄文晩期の作で、青森県木造町亀ヶ岡遺跡からの出土品です。これも面白い造形ですね。目の部分がはれぼったく見えますが、これはイヌイットなどの北方民族が使用した雪メガネ(スリットの入ったメガネで雪原の反射による強烈な光をさえぎるサングラスのようなもの)と考えられています。全体の体型や衣服の文様、頭部の複雑な髷など、非常に興味深いですね。これを宇宙人の像だと解釈する人もいるようです。実物は重文で東京国立博物館に所蔵されています。
ヴィーナス土偶

ヴィーナス土偶は縄文中期の作で長野県茅野市の棚畑遺跡からの出土品です。妊娠した女性の身体的特徴をよく映した像で、素朴さの中に力強さを感じます。他の土偶がほとんど破壊された状態で出土したのに、この像だけが手付かず出土したそうです。出来がよかったので壊すのに忍びなかったのでしょうか?実物は高さ45Cmで発掘された土偶の中で最大の作例のようです。



ハート型土偶
 ハート型土偶は縄文後期の作で、群馬県群馬県東吾妻郡郷原からの出土品です。顔がハート型していて、とっても不思議な造形です。妊娠している女性ではないかとも見られています。





みみずく土偶

みみずく土偶は縄文時代後期の作で、埼玉県鴻巣市滝馬室遺跡からの出土品です。これもなんか可愛い造形ですね。表情は人間のそれというよりもみみずくのように見えることから、この名称で呼ばれています。髪も複雑な形状に結ってあり、耳飾もつけています。



土偶に関しては、ここにあるWikipediaの記事を参照ください。全体にあるいは一部が破損した状態で巣yつ度することが多いため、厄除けのために人為的に破壊したものではないかとのことです。また、土偶の出土は圧倒的に東日本が多いようです。

それで時代は下って弥生時代ですね。 弥生時代の特徴は稲作農耕文化と言われていますが、最新の研究では縄文時代でも栗の木を植えて育てるなどの農耕は行われており、稲作も一部で行われていたようです。とすると、弥生の特徴としては青銅器文化を持った異文化(異種族)の流入ということになるのではないかと推定しています。
弥生式土器
縄文式土器に比べると、弥生式土器は垢抜けており、作りも精巧です。この土器は弥生後期の作で、名古屋市熱田区高蔵町からの出土品です。デザイン的にも優れており、現在でも通用しそうですね。

武人埴輪
次は埴輪ですね。埴輪は3世紀から6世紀にかけて古墳時代に製作された、素焼きの焼き物で、古墳上に並べられたものだそうです(埋められていたんじゃなかったんだ)。このサイトに古墳上に埴輪が置かれている再現写真が掲載されています。最初は円筒型のようなものから始まり、人物、動植物、家などの形象のものがあったようです。


写真の武人埴輪は6世紀のもので、群馬県太田市から出土したものです。桂甲といわれる甲冑を着用しており、当時の武装の状況を偲ぶことができます。埋葬された主を悪霊から守る役割があったのではないかと考えられているようです。この埴輪は国宝に登録されています。
 武人埴輪を見ていたら昔の大映映画「大魔神」を思い出し、ついネットで探して見てしまいました。
馬埴輪
武人があれば馬もあるわけで、これはちょっと可愛い馬の埴輪です。馬といっても裸馬ではなく、結構ちゃんとした馬具を装着しています。東京国立博物館には、馬埴輪の馬具を復元したものが展示されています。これは6世紀に埼玉県熊谷市上中条から出土したものです。動物埴輪には他にも犬などがありましたがその中で馬が圧倒的に多く、当時の豪族にとって馬が重要な意味を持つものだったと考えられます。

踊る人々
最後の写真は踊る人々の埴輪です。これは7世紀の作で、埼玉県江南町野原から出土したものです。フィギャーの説明では、小さいほうが女ということになっていますが、リンク先の東京国立博物館の説明では小さいほうが男(後ろに鎌を帯に挟んでいる)と書いてありました。魂の入っていない顔ですが、ユーモラスな顔で、ポーズもひょうきんです。また、他の像に比べて動きがあって面白いですね。葬送の場における歌舞の様子を再現したものだろうと考えられているようです。

以上、見ていただいたとおり、このフィギャーは精巧にできており、子供の教育などにもよろしいのではないかと思います。また、我々の祖先の遠い姿に思いをはせる媒体としても役に立ちます。欲しい方はこちらから購入可能です(2010年9月23日現在)。(特に宣伝しているわけではありません)

2010年9月20日月曜日

「月見の会」@向島百花園

お彼岸の入りというのに、毎日暑い日々が続きますね。どうやら秋分の日から涼しくなるそうですので、もうひとがんばりです。ブログのほうもなかなか更新できずに申し訳ありません。8月に取材した向島百花園の記事を書こうと思いつつ、まだ果たせていませんが、そのうちに次の行事が来てしまいました。

来る9月22日(水)は旧暦の8月15日つまり中秋の名月です。向島百花園では恒例の「月見の会」が催されます。以下「公園へ行こう」WEBページから。

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中秋の名月を楽しむ『月見の会』を開催します。
初秋の風物詩を身近に感じることができる、百花園の伝統的な催しです。

9/21(火)~23(木・祝)9時~21時
(最終入園は20時30分まで)

①お供え式      9/21(火)17時~
②絵行灯の点灯  期間中毎日 日没~21時
③野草ウォッチング 9/23(木・祝) ※雨天中止
11時40分~、14時40分~ 各回30名(先着順)
④琴の演奏     期間中毎日 18時~20時
⑤茶会        期間中毎日 15時~20時
費用  2席 2千円(入園料別途)※予約不要

http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/info032.html#1
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また、名物の萩のトンネルを擁する百花園では同時に「萩まつり」も開催されていますが、今年は猛暑で開花も遅れているようです。

横浜にお住まいの方は三渓園でも 観月会を開催しております。

観月会

午後8時30分まで入園できます。 (閉園午後9時) 

三重塔などの古建築をライトアップするほか、もと紀州徳川家の別荘建築・臨春閣を舞台に邦楽の演奏などを行います。
※安全上、観覧区域を限定します。

[2010年]
9月22日(水)~26日(日)開催

http://www.sankeien.or.jp/

2010年8月24日火曜日

虫ききの会@向島百花園

ブログの次の記事は向島百花園と決めていたのですが、記事を書く前に一件行事が来てしまいましたので、ご紹介いたします。

催し:   虫ききの会
期間:   8月26日(木)~8月29日(日)
開園時間:9:00-21:00(最終入場は20:30)


期間中は園内に鈴虫、松虫、くつわむしなどが放され、風流な庭園を巡りながら虫の声を楽しむことができます。

詳細は下記URLをご参照ください。

http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/info032.html#1

向島百花園の住所:


〒131-0032

東京都墨田区東向島3丁目18−3
03-3611-8705

東武伊勢崎線東向島駅、または京成曳舟駅が最寄りです。


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2010年8月22日日曜日

江戸の面影-2・浅草

江戸の面影シリーズ第二回は浅草です。

JJの生まれ育ったのは東京都墨田区です。それも、浅草から見ると「川向こう」と呼ばれた向島地区ですね。 浅草はすぐ近くだったので、子供の頃は良く出かけました。母親の買い物はちょっとしたものは浅草の松屋デパートだったので、ここの屋上遊園では良く遊んだものです(母親の買い物中に)。今から思えばおおらかな時代でした。また、浅草寺周辺も色んな思い出があります。四季おりおり色々な行事がありますのでね。

 浅草は 江戸の名刹「金龍山浅草寺」の門前町として栄えて来ました。浅草寺の歴史は非常に古く、寺の縁起によれば、以下のようです。

「時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈(ぎょろう)中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得(かんとく)した。郷司(ごうじ)土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依(きえ)し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝(らいはい)供養に生涯を捧げた。」

二人の漁師と郷司の三名は後世に神として祭られ今では浅草神社(三社様)の祭神になっています。二人の漁師が観音様の像を引き上げたのはいかにも超自然的な話ではありますが、その100年ほど前にこんな話もあるようです。

「浅草寺創建より100年程前に、埼玉県飯能市岩淵にある岩井堂観音に安置されていた観音像が大雨によって増水した成木川に堂ごと流され、行方不明になったという伝承が残されており、この観音像が成木川から入間川荒川を経由して隅田川に流れ着いたと伝承されている。下流にて尊像発見の報を聞いた人々が返還を求めたが、かなわなかったという伝承も残っている。」

浅草寺の本坊である伝法院には裏の古墳から掘り出してきた石棺が保管されていたりするようですので、いずれにせよ古代から人の住む場所だったのは間違いなさそうです。

創建後、10世紀には立派な伽藍が整ったそうで、鎌倉時代に鶴岡八幡宮を建設した際には浅草の宮大工を招いた故事が「吾妻鏡」に記載されているそうです。家康が入府する以前にはたいしたものが無かった江戸ですが、浅草はそれよりもずっと歴史が古いということになりますね。その後、徳川家康は浅草寺を祈願所と定め寺領500石をあたえ保護したとのことです。また徳川家光公の援助により慶安元年(1648年)に五重塔、同2年(1649年)に本堂が再建されました。

宝蔵門(仁王門)
 江戸時代を通して浅草寺は観音霊場として人々の信仰を集めました。 仲見世ができ、奥山には見世物が出、幕末には芝居小屋が集まってきます。江戸時代の庶民にとって、お参りは宗教行事であると同時に、重要な娯楽であり、大義名分を以って大手を振って出かけることのできる行楽だったのです。そういうことで、浅草は観光地として大変賑わい、それは戦前まで続きました。

一方で、七堂伽藍の方は関東大震災でも生き残り、慶安年間再建の本堂や五重塔など戦前の旧国宝に指定されていました。しかし、東京大空襲では、残念ながらその大部分が消失してしまいました。それでも、伝法院や浅草神社、二天門など400年近く昔の建物が部分的に残っています。現在までに雷門、本堂、宝蔵門、五重塔などは鉄筋コンクリートで再建されています。

 現在の本堂は昭和33年(1958年)に再建されたコンクリート作りのものです。慶安期の設計に従って再現されたそうです。今年になって改修工事がなされ、屋根瓦が軽量で丈夫なチタン製のものに葺き替えられました。ところで、以前は宝蔵門の前後に卍の大看板がありましたがいつの間にかなくなってますね。某国からの抗議でしょうか?
幕末頃の本堂前
本堂の隣に浅草神社があります。ここは先に述べたように、縁起につながる観音像を見つけてお祀りした三名を祀ったものです。
浅草神社の社殿は徳川家光公の寄進により慶安2年(1649年)に完成したもので、江戸の大火や関東大震災や戦災を潜り抜け、昭和36年に重要文化財に指定されています。
 浅草神社の鳥居の脇には二天門があります。これも非常に古いもので、元和4年(1618)浅草寺境内に造営された「東照宮」の「随身門(ずいじんもん)」として建立されました。その後1642年に東照宮は火災で焼失してしまいましたが、随身門は二天門と名前を変え、現在に伝わっています。今年4月に大修理が完了して、現在は朱塗りの綺麗な姿を見せています。扁額は三条実美公の筆によるものです。
 浅草寺の本坊である伝法院には安永6年(1777)建築の客殿・玄関や明治4年(1871)築の大書院、浅草寺貫首(かんす)大僧正のお居間などがあります。約3,700坪の庭園は、寛永年間(1624~44)小堀遠州(こぼりえんしゅう)により作庭されたと伝えられる「廻遊式庭園」でありますが、現在は両方とも非公開で、門のみを仲見世側から望むことができます。
その他にも境内には歴史のある小堂などが立ち並んでおり、江戸の面影を今に伝えています。

先に述べたように浅草は戦前まで大変にぎわっていたのですが、その後一時期寂れた時がありました。ちょうどJJが子供時代のことです。その後の観光ブームや歴史ブーム、さらには近年の外国人観光客の急増、そして、地元商店街の魅力ある観光地作りも寄与して、現在は相当の賑わいを復活させています。

浅草寺周辺には江戸の情緒を伝えるようなお店や飲食店が仲見世をはじめとしてたくさん立ち並んでおり、それがまた観光地としての浅草に魅力を添えています。

浅草松屋北面の壁

JJの子供の頃はデパートいえば、浅草松屋でした。数々の思い出を残す松屋も今年5月に大幅縮小を発表し、屋上プレイランドも閉鎖されてしまいました。松 屋の建物は東武伊勢崎線の浅草延伸にともない、浅草駅駅舎と一体型として建設されました。そのご大幅に改修されたので、往時の面影は無いのですが、この北側の壁面あたりはオリジナルの外観のはずです。

ところで松屋のロゴは昔は鶴丸だったのですが、現在はスマートなローマ字になっています。そこで、一箇所だけ鶴丸のロゴの残っている看板を見つけたので、写真を撮ってきました。これは銀座線浅草駅から新仲見世に伸びる地下街の一角で、デパートへの出入り口のある場所の天井から下がっています。ご覧の通りかなりのレトロを感じますね。

最後の写真は地下鉄銀座線から新仲見世に抜ける地下街の写真です。地下鉄の開通が昭和2年、松屋の完成が昭和6年なので、いづれにしても日本で一番古い地下街ではないかと思います。とはいっても、現在では(実は昔から)かなりうらぶれた感じではあります。



 まあ、数々の苦難を乗り越えてきた浅草ですが、東京スカイツリーという新たな観光資源も手中にし、これからも庶民や海外からの観光客が楽しめる観光地として末永く発展してくれることを、元地元民として切に望みます。

ところで、浅草から上野にかけての下谷地区に寺院がたくさんある件については、いつか記事を書きますので、少々お待ちください。

次回、江戸の面影シリーズは、いよいよ向島百花園です。

ご参考
浅草寺公式ホームページ
Wikipedia浅草寺の記事
浅草神社公式ホームページ

2010年8月12日木曜日

江戸の面影・芝増上寺

しばらくブログをサボっていましたが、江戸の面影というテーマで、取材も取り混ぜてすこし記事を書きましょう。前回芝の増上寺を取り上げましたが、 今回はもう少し細かく書いてみましょう。
 増上寺は正式には三縁山広度院増上寺といいまして、浄土宗のお寺です。室町時代(明徳四年(1393年))に千代田区紀尾井町のあたりに建立されたそうです。その後、徳川家康が江戸入府後、徳川家の菩提寺として幕府の庇護を受け、現在の地に移転しました。15代徳川将軍の内6人の墓所が増上寺に建立されています。(家康公と家光公は日光、慶喜公は谷中墓地、他の将軍たちはもう一つの菩提寺である寛永時に墓所があります)位置的には寛永寺(天台宗)が江戸城の鬼門を守るのに対し、増上寺は 裏鬼門を守る位置になります。家康公は当時の住職存応(ぞんのう)上人に深く帰依し、増上寺で葬儀を行うように言い残して元和二年に亡くなったそうです。

江戸時代の増上寺は幕府の庇護もあり、たいそう発展したようです。現在に残る三解脱門(元和8年(1622年)建造・上の写真)をはじめとする大伽藍の隣接地には歴代将軍の霊廟を従え、門前には数多くの別院や僧坊がありました。 以下増上寺ホームページからの転載です。

「全国の浄土宗の宗務を統べる総録所が置かれたのをはじめ、関東十八壇林(だんりん)の筆頭、主座をつとめるなど、京都にある浄土宗祖山・知恩院に並ぶ位置 を占めました。 壇林とは僧侶養成のための修行および学問所で、当時の増上寺には、常時三千人もの修行僧がいたといわれています。 寺所有の領地(寺領)は一万余石。二十五万坪の境内には、坊中寺院四十八、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」とうたわれています。 」
写真は台徳院(二代将軍秀忠公)霊廟の惣門だったものです。台徳院霊廟の他の遺構で焼け残ったものは、埼玉県所沢市の狭山山不動寺(西武ドーム前)に移築されているそうです。


ところが明治維新以後、増上寺は苦難の時期を迎えます。上野戦争(戊辰の役)で甚大な被害を受けた寛永時に比べればまだましだったものの、江戸幕府の庇護がなくなり、廃仏毀釈の波に洗われ、また徳川家の菩提寺であったことから、明治政府からもずいぶんな嫌がらせ(一万人の官軍が一時駐屯したとか、上納金を要求されたりとか、広大な境内を政府用地に召し上げられそうになったりとか..)を受けたようです。 また、明治6年と42年の火事で堂宇を失ったことも大きな痛手でした。その後、芝公園の指定により、境内も半減したようです。

ただ、この時点までは6大将軍の壮麗な霊廟は残されており、戦前は旧国宝に指定されていました。これらの霊廟は日光東照宮に匹敵するものだったということですが、残念ながら米軍の空襲でほとんど破壊されてしまいました。その跡地には東京プリンスホテルなどが建設されています。

明治時代に撮影された有章院(徳川家継)霊廟の写真(出展:平凡社「鹿鳴館秘蔵写真帖」より。)がありましたのでアップします。モノクロではありますが、その壮麗さは伝わってくると思います。空襲前には、この規模のものが6箇所+α(夫人の分などもあるので)存在していました。徳川家霊廟群は前述の通り日光東照宮にも匹敵する文化遺産で、今に残されていれば間違いなく世界遺産に指定されていたものと言われています。

さて、ということで、ここから江戸の面影をたどる記事になります。まずは江戸時代の増上寺を見てみましょう。

当時の様子は切り絵図でみるとこんな感じです。松原のあたりが現在の日比谷通りですね。大門から三解脱門に至る間に別院や学寮がたくさんあるのが良くわかります。

次が現代(一寸古いですが)の増上寺周辺の地図になります。残念ながら、境内が極端に減っています。地図にはありませんが本堂の裏手に東京タワーがあり、建設時には増上寺の墓地を提供したそうです。ただ、注意深く見ると、大門と三解脱門の間にお寺の記号がたくさん残っていますね。これらは昔の別院の流れを組むものと思われます。

たぶん幕末の写真だと思いますが、三解脱門のほうから大門を写した写真があります。

 突き当たりの門が大門ですね。通りの両側は増上寺の別院だと思います。同じ場所を最近JJが撮影したのが、下の写真です。
 さすがに150年も経つと周辺の景色は大分変化しますね。写真奥にかろうじて見える大門は昭和12年にコンクリートで再建されたものです。こうやって見ると江戸の面影はなさそうですが、実はビルの合間には**院という寺院が隠れています。
 残っている寺院もほとんど鉄筋コンクリートになってしまいましたが、一軒だけ三解脱門に一番近い寺院が往時の姿を留めています。 二つ前の幕末ごろの写真と比べてみてください。まさに幕末の写真に写っている塀と門であることがお分かりでしょう。こういった築地塀は増上寺の側にも残っています。

ところで、浜松町という町は大門から増上寺側は寺社領で、海側(貿易センタービルあたりから海側)は大名屋敷でしたが、現在の第一京浜(国道15号線)すなわち旧東海道沿いは町民地でした。徳川家康はここに漁師などを連れてきて 住まわしたようです。なんでも二代目の名主が浜松の人だったので、浜松町という町名になったとか。

江戸の町にはお稲荷さんがあちこちにありました。地口に「江戸に多きもの、伊勢や稲荷に犬のくそ」というのがあるくらいです。有力な商人が自邸の庭に設けることもあったようです。以前見たNHKの番組で、そのことが取り上げられていたのを思い出い出しました。お稲荷さんのような祠は勝手に祀ることはできず、総本社の伏見稲荷から分祀を受ける必要があります。江戸時代には分祀が非常に簡単に受けられる制度が発達し、一種の通信販売のような形態で江戸中に広まったようです。
ここは、会社の近くにあるお稲荷さんですが、比較的大規模なものですね。屋敷の中にあったものは建物の立替でも破壊することはできず、ビルの合間にひっそりと残っていたり、あるいはビルの屋上に祀られていたりと、結構生き残っているようです。
この写真は墨田区のほうですが、屋敷がなくなってもお社だけは塀に囲まれて残っていたりします。これも江戸の面影ですね。お稲荷さんについては、またそのうち記事を書くことにして今日はこれまで。

増上寺のホームページはこちら
増上寺のWikipedia記事はこちら

2010年8月8日日曜日

江戸の面影

江戸が東京と名を変えてから今年で142年。子供のころの大東京祭で明治100年のパレードを見てからでも既に40年以上経ってしまいました。この間、明治政府による都市開発や、関東大震災による被災、そして東京大空襲と何度も被害をこうむった東京には、江戸の面影がほとんど残っていません。江戸期の建物も非常に少なく、都心部で残っている所は、浅草寺周辺、上野公園周辺(旧寛永寺)、江戸城周辺、芝増上寺周辺、池上本門寺周辺といったところでしょうか。

 写真は都心に残る最古級の建築物である、芝増上寺の三解脱門です。元和8年(西暦1622年)建造です。

JJの母方は江戸っ子でありまして、江戸時代には湯島天神の門前で酒屋を営んでいたそうです。門前といっても、どっち側かよくわかりませんが、たぶん黒門町の側だと思います。湯島天神は町人地と武家地の境に位置しており、江戸時代には諸藩(金沢藩とか)の江戸詰めの下級侍やら下級御家人やら(身分の高い武士は自分で買い物なんて行きませんので)、もちろん長屋住まいの熊さん八っつぁんに至るまで、貧乏徳利を提げて酒を買いに来たのではないかと思うと、想像が膨らみます。

東京には江戸期の建物こそほとんど残っていませんが、江戸の面影は、行事や人々の生活の中に 色濃く残されています。江戸時代から、明治、大正、昭和、平成と時代は流れて行きましたが、文化や人々の生活やものの考え方は江戸を連綿と引き継いでいるのです。

江戸の風俗などは、江戸期の優れた画家によって絵画として伝えられてはいますが、やはり、情報量は写真にはかないません。幕末にはわが国にも写真術が伝えられ、長崎の上野彦馬や横浜の下岡蓮杖の写真館は幕末には既に開業していました。

こういった人たちは、最初は外国人や国内の開明派要人などを撮影していましたが、外国人のエキゾチックなお土産として、日本の風景や、風俗などを撮影するようになり、近年になってそういった幕末・明治を写した写真が数々「発掘」されています。

そのなかでももっとも有名なのが、モース・コレクションで、大森貝塚を発見したお雇い外国人のモースが帰任時に米国に持ち帰った膨大な写真が存在します。そのほかにも色々なコレクションがあり、中には明らかな演出写真もあるのですが、どれも当時の人々の息遣いまで聞こえて来そうな、貴重な歴史資料です。

最近、ここのサイトに江戸・明治の写真がアップされているのに気がつき、 いとおしく眺めました。もしも興味があればぜひともご覧ください。

2010年8月1日日曜日

ブログさぼりちう

このところTwitterにかまけてブログの更新をサボり続け中です。読者の方申し訳ありません。ちょっと、仕事のほうもドタバタ(いつもそうですが)していたこともありました。7月は一度も更新しないうちに8月になってしまいました。近々更新しますので少々お待ちくださいませ。

2010年6月27日日曜日

今日のビオトープ

その後、ビオトープ小の方は順調に推移しています。今日の水面の様子です。
なんかいい感じですね。実際のサイズは小さいので、水辺の盆栽のようなものですね。ちょっとカメラを引いて鉢全体を撮ってみましょう。
おや、左端のほうに花が咲いていますね。これは水中に植えたコインウォーターチェーンの花ですね。スミレのような可憐な花です。では花のアップ写真です。
 ビオトープ小の方はいいのですが、大の方が一寸まずい状況になってまして、藻類(アオミドロ)が大量発生してしまいました。ピンセットで取っているのですが、ぬるぬるして取りきれません。一度中身を空けて鉢を洗うという案もありますが思案中です。

ビオトープの世話をしていたら猫がベランダに出てきて覗き込んでいます。メダカなどにも多少興味を持っているようです。(でも節度を持った大人猫(?)なので、水鉢に手を突っ込んだりはしません)

 (追記)ビオトープ大の藻類に関しては、熟慮の結果「テデトール」を使う決断をしました。割り箸で鉢壁に付着したものをこそげ落とし、割り箸あるいはピンセットで遊離した藻を掬いあげ、また底土にから生えている藻もピンセットで取り除きます。またアマゾンソードのほうも藻が絡まった葉をはさみで切り取りました。30分くらいの作業で藻類は大分減らせたので、鉢を180°回転(太陽光のあたる壁面に発生していたので)させて終了です。これで一寸様子を見ましょう。

 注:「テデトール」とは園芸家が使う専門用語(?)で、害虫や雑草などを薬剤を使用せずに手で除去することを意味します。ちょっとかったるい作業ですが、生体にとっては一番安全な手法です。