2009年11月29日日曜日

Art for art's sake : 伊藤若冲の場合

また、伊藤若冲の話です。

以前ご紹介したように、伊藤若冲は京都錦小路の青物問屋「枡屋(通称枡源)」の主人でしたが、40歳にして家督を弟に譲り、好きな画業に専念したということです。「枡源」は使用人が2000人というから大変な大企業ですね。

江戸時代は商人に対する税金は、冥加金や運上金、それから商家の間口によって課税される地子銭、あとは公共事業への拠出金のようなものもあったようです。しかし、一般的には商家に対する税率はそれほど高く無かったといわれています。幕府財政が窮乏してくると豪商などに御用金と称して金銭を供出させる不条理な制度がありましたが、若冲が生きていた江戸初期はまだ幕府財政は健全であり、そのような事も無かったはずです。

ということを考えると、若冲はかなり金銭的な余裕のある楽隠居の身分だったと考えられます。彼の代表作である動植綵絵も高価な画絹や舶来の絵の具など、かなり高価な画材を使用していたことが知られており、彼の裕福さを物語っています。

このことを、さる画家に話したときのこと、「っていうことは、若冲は金のためとか他人のために画を描いたんじゃないのね。」というレスでした。そうですね、確かに若冲は金持ちの趣味で描いていたわけなので、自分のため、自分の表現のためだけに描いていたということでしょう。

先に書いたとおり、動植綵絵は釈迦三尊像とともに相国寺に寄進したものです。若冲は同寺に永代供養を依頼してもいたので、芸術的動機以上に宗教的な動機もあったものと思います。しかし、動植綵絵は誰に依頼されるものでもなく、金のためでもなく、権力者におもねるものでもないことは明白な事実だと思います。

相国寺は足利義満花の御所の隣接地に建立した古刹で、配下に有名な金閣寺(鹿苑寺)もあります。若冲は金閣寺の大書院障壁画も水墨で描いており、今に残されています。義満が建立した当時、伽藍には高さ106mの七重大塔があり、数年で焼失したものの、以後530年間(1926年まで)日本一高い建造物の記録を持っていたと言うことです。


<花の御所>

いかに芸術家とはいえ、通常の場合は世過ぎの事も考えざるを得ない状況ですので、若冲のような境遇で、誰の意見も目も気にせず、このように自分の思うままに製作でき、しかもそれが数百年来伝わる傑作として残されるという状況は稀有のことだと思います。

このようなケースは、古くは姫路藩主(譜代:15万石)の弟で「夏秋草図屏風」などの秀作を残した酒井抱一や、下っては中央画壇を見限り、奄美大島で染色工として働きながら傑作の数々を残した異色の日本画家田中一村に通じるものがあるかもしれませんね。


<「風雨草花図」通称「夏秋草図屏風」>

今日のタイトルにある"Art for Art's sake"は直訳すれば「藝術のための藝術」という意味ですが、普通は「藝術至上主義」と訳します。この言葉はフランス語の''l'art pour l'art''という19世紀初期の言葉の英訳です。フランス語のほうが語呂がいいですね。ラテン語だと"Ars gratia artis"です。このラテン語の言葉は、MGM映画の最初のタイトル画面でライオンが吼える場面がありますが、ライオンの上に現れるリボン(良く見たらリボンじゃなくてフィルムですね)に書き込まれています。今度MGM映画を見ることがあれば、目を凝らして探してみてください。

なんかラテン語ってなんとなくかっこいいですね。たいして意味の無い言葉でも深遠な意味があるような感じがしてくるから不思議です。(JJは昔、学生時代にラテン語の授業を登録していたのですが、一度も出ないで単位も落としたという、トラウマがあります。)

2009年11月22日日曜日

天下の退屈男、土田孫左衛門の謎

このブログページの右上に「Fish」というタイトルのガジェットが貼り付けてあるのですが、昨日から不調で、魚が出てこなくなってしまいました。JJの家の猫が食べてしまったのでしょうか?いずれ、また出てくるのかどうかちょっと心配です。

さて、今日は歴史のお話しです。

JJは江戸時代ってすごく面白いと思っています。以前は閉塞して抑圧されて遅れた時代と思われることが多かったと思いますが、実際は250年以上も続いた平和な時代の中で、GDPは成長、人口も増加し、文化、産業、経済そして民度も成熟しました。また、鎖国とはいうものの、西洋の文化や科学そして国際情勢もそれなりに国内に入ってきていました。明治以降の西洋化、産業化を急速に推し進め、ひいては現代の科学技術立国に繋がるための下地ができた時代だと思っています。江戸時代の文化に関しては、色々書いても書ききれない多様性がありますので、おいおい掲載していきましょうね。

一方で、江戸時代初期に確立した幕藩体制は途中多少の改革は経験したものの、基本構造は最後まで墨守したこともあり、今から見ると硬直的で相当におかしな事も起こっていました。

江戸時代の政治は人口の10%弱を占める武士によって支配されていました。幕末になると身分間の移動は多少見られましたが、基本的には支配階級である武士は世襲であり、その役割や石高(収入)も固定されていました。また、幕府での政治は譜代大名と旗本によってなされ、外様大名には幕政に参加する機会はありませんでした。外様で文人大名として有名な松浦静山(肥前国平戸藩)なども、そのような体制には不満を持っていたようです。

幕政を支えていた旗本たちに関して言えば、石高は世襲でしたが、能力を認められれば出世することもあったようです。たとえば、江戸町奉行で有名な大岡忠相(大岡越前)などは書院番士を振り出しに昇進を続け、江戸町奉行の後は通常は大名の役職である寺社奉行を拝命し、最後は寺社奉行を務めながら1万石の大名(三河国西大平藩:今の愛知県岡崎市)になりました。ただし、これは例外中の例外で、通常は昇進して足高(役職手当のようなもの)は支給されるものの、在任期間だけの話で、加増が無ければ世襲できるのは基本の石高のみになります。

一方で、江戸城の中では変わった役職が色々あり、それらの多くは世襲されていきました。例を挙げれば、旗奉行という徳川家の軍旗を管理する役職(太平の世の中ではほとんど閑職だったと思われます)だとか、露地の者と呼ばれる庭を掃除したり、茶道具の運搬をする役職とか、鳥見と呼ばれる狩場の管理をする役職などが世襲されていきました。

その中でも、もっとも変わっていたのが「公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)」という役職でしょう。この役職は将軍が京都に上洛するときに同行し、将軍参内の折、束帯姿で排尿に困難を極めた将軍のために尿筒(ちなみに「しとづつ」と読みます)を持参する仕事です。尿筒は当時一般的であった竹筒ではなく、銅製であったそうです。(金属だとちょっと冷たそうですね。懐で常に暖めていたんでしょうか?)「公人朝夕人」は代々土田家が世襲し、土田孫左衛門を名乗ったそうです。「公人朝夕人」は10人扶持(50俵)の禄高で、身分も町人並み(下級武士だったという説もあるようです)でした。

宝暦11年(西暦1761年)に幕府に提出された土田家の由緒書きによれば、土田家は古くは鎌倉時代に藤原頼経公が鎌倉幕府第四代将軍になって京都から鎌倉に下った時(1219年)に従い、以来将軍の尿筒持ちとして、足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉に仕え、慶長8年(1603年)に徳川家康に請われて徳川家にも仕えるようになった事が記されています。土田家が幕末まで続いていたとしたら、尿筒持ち一筋に650年ということになりますね。役割も役割ですが、征夷大将軍という貴人に近づくので、誰でも良いという訳ではなかったでしょうし、歴史も長いということで、土田家も名家ということになるのでしょう。

ただし、土田家の職務は将軍上洛時だけで、実際は江戸でも将軍が束帯を着る機会はありましたが、それは別の役人が尿筒持ちを担当したとのことです。しかも、将軍の上洛は初代の家康から三代の家光までで、その後は数百年行われず、次の上洛は幕末の14代家茂まで間が空いてしまいます。もっとも家茂上洛時に土田家が同行したのかどうかは記録に残っていません。と、言うことは、四代将軍の家綱(~慶安4年:1651年)から14代家茂(安政5年:1858年~)までの間、少なくとも200年間はまったく仕事が無かったということになります。

世界中を見ても200年間何の仕事も発生しないのに世襲していくポストって他にあるんでしょうか?一世代25年としても200年で8世代、仕事の無かった土田孫左衛門が普段何をしていたかは歴史の謎ですね。いざというときに備えて、日頃から研鑽(銅製の尿筒をピカピカに磨いたり、採尿の鍛錬を積んだり?)を積んでいたのでしょうか?

2009年11月15日日曜日

リベット萌え

JJが子供のころ、母方の伯父が近所で町工場を経営していました。工場は木造で40~50坪くらいだったでしょうか。金属加工を行っていたので、金属を切断する機械やプレスの機械が並んでいて、「ガシャコン、ガシャコン、ガシャコン、ガシャコン」と大きな音を立てて材料を加工していきます。それぞれの機械にはモーターが付いていなくて、一箇所に設置されたモーターが天井に設置されたシャフトをベルトで駆動しています。シャフトの別の場所から金属加工機械へ、やはりベルトで回転を伝えます。子供心にそういった仕掛けを見るのがすごく面白くて、機械油と、金属の切子の匂いが充満している工場の中で時間も忘れて機械の動きを眺めていたものでした。葛飾区の博物館に昭和30年代の町工場を再現した展示があるようですが、伯父さんの工場はまさにこんな感じの建物でした

最近の言葉で言うところの「工場萌え」って言うんでしょうか。JJは仕事で色んな工場に行ったりもしますが、今でも工場を見ると心ときめくものを感じます。大きな工場の棟の間で錯綜する配管なんかは特にいいですね。労働安全衛生管理の観点からは、工場はきちんと整理整頓されていないといけないんですが、やはり町工場の雑然とした感じはいいですね。

最近は社会が寛容になってきて、ちょっと違った感覚とかも容認されるようになりました。何か、人と違うものに関心があったり、「いいな~」って思うような感覚って誰でもあると思うんですが、以前は口にするのも憚られるようなことが、今は簡単にカミングアウトできるようになりましたね。

で、告白しますが、JJはリベットがボコボコとたくさん見える鉄製構築物が好きです。こういうのって、最近の言葉では「リベット萌え」ということになるんでしょうかね。


これは渋谷駅近くの東急東横線のガードですが、ありますねぇリベットがボコボコと。東横線は2012年に予定されている地下鉄副都心線への乗り入れを機に渋谷駅が地下化されますので、このガードもそのうちなくなってしまいますね。

でもリベット構築物は緑色に塗装されているやつが感じが出てていいですね。


ああ、これこれ、ペンキは剥げてますが緑色ですね。こっちは横浜駅近くの京浜急行線のガードです。

昔は鉄骨(及び鉄板など)を接合するのに、リベットを用いていました。リベットというのは鉄でできた鋲のようなもので、接合したい鉄材と鉄材の接合部に穴を開けておき、そこに熱したリベットを挿入して先をかしめることによって接合します。リベットは冷えるとキュっと縮まるので、強度を持って接合できるのです。以前は電車も汽車も船舶もみんなリベットで作っていました。理由としては、技術的問題で溶接やボルト接合での強度が十分出せなかったことが挙げられます。子供の頃に良く見た米国製のアニメ(トムとジェリーなど)でも、工事現場のシーンでリベットを熱して鉄骨を接合するシーンを目にしたものです。

ところが、大阪万博の開催された昭和45年ごろを境に、リベットによる接合は姿を消し、溶接や高力ボルトに取って代わってしまいました。技術の進歩もありますが、リベット止め作業が建設現場で発する騒音も嫌われたようです。その間の事情はこのリンクに書かれています。

ということで、リベットがボコボコと出ているような構築物は、昔のものということになりますね。

以前ドイツに出張に行った時のことですが、ハノーバーの見本市(CeBit)に行ったのですが、帰りのフライトがハノーバー発の便が取れなくて、ICE(ドイツの特急列車)に乗ってハンブルグまで移動しました。ハンブルグの駅は、何本ものプラットホームが巨大なドーム型の屋根で覆われていて、そのドームが見事な鉄骨造りだったのです。もちろん随所にリベットがボコボコこ出ており、「リベット萌え」のJJには圧巻でしたね。

この写真では鉄骨やリベットのディテールがわかりませんが、全体の壮観さは伝わると思います。

日本だと、神田あたりのJRのガードの橋脚がすごいですね。ちょっと写真がありませんが、今度撮影してきましょう。

ところで、現在のことですが、JJの家の近所で歩道橋の設置が行われています。横浜のみなとみらいの日産自動車本社前で、V字型の歩道橋です。写真奥のビルが日産自動車本社です。


2009年11月15日現在、歩道橋は開通はしてません。まだ工事中です。ところが、この歩道橋を裏から見ると....


ううむ。なにかボツボツとしたものが見えますね。これはどう見てもリベットのように見えるのですが、どうなんでしょうね。誰か知ってる人がいたらコメントください。

2009年11月8日日曜日

ショーセンデンシャ(省線電車)の思い出

JJが子供のころに住んでいた地区には、鉄道といえば、京成電鉄と東武鉄道が走っていました。親と電車に乗ってどこかに出かけるときには大体東武か京成に乗って行きます。一方で、都電もありましたので、「電車で行く」という時には、都電を意味することもありました。

国鉄(今で言うJRですね)は余り近くに無かったので、めったに乗ることはありませんでした。当時は国鉄の電車のことを国電といいましたが、子供のころはJJの親は「ショーセンデンシャ」と呼んでいたのを覚えています。子供のころなので、「ショーセンデンシャ」が漢字に結びつかなかったのですが、漢字で書くと何のことは無い、「省線電車」になります。国鉄は日本国有鉄道の略ですが、それ以前は鉄道省が経営していたので、省線といったもののようです。

JJは国鉄世代なので、JRになってからも時々「国電」といってしまうことがありましたが、今はさすがにそういったことはありません。民営化後の一時期、JR東日本が「E電」という呼称を普及させようとしていましたが、定着する前に、見事に忘れ去られてしまいましたね。

それで、近所には国鉄が走っていなかったので、親が話している「ショーセンデンシャ」というものが、どんなものか想像が付きませんでした。何か、とんでもなくすごいものを想像していました。

国鉄は昭和32年以降新型の通勤電車として101系の展開を始めました。101系以降の通勤電車は、路線ごとにカラフルな塗装がされています。一方、それ以前の電車を旧型国電といい、代表的な電車として戦中量産型電車である63系を改良した72系と呼ばれるものがあります。旧型国電は、カラフルではなく、茶色に塗装されていました。この色は旧国鉄では「ぶどう色2号」と呼ばれていたようです(ちなみにマンセル値は「2.5YR 2/2」)。「省線電車」という呼称にふさわしいのは、ぶどう色2号塗りの旧型国電ですね。



これはもちろん本物ではなくてJJの部屋にある模型鉄道です。また実際の車両を正確に縮小したものではなく、型もフリーランスですが、まあ、こんな感じですね。

JJが学生のころは、ぶどう色2号の車両は都区内ではあまり目にすることはありませんでしたが、奥多摩のほうに登山などに行く時に立川駅で青梅線に乗り換えていきましたが、当時は青梅線には旧型国電が使われていたので、乗りました。当時は立川駅もずいぶん牧歌的で、木製の柵で改札内外が仕切られていたのを覚えています。現在は新宿から青梅線直通電車も出ていますし、すごく立派なエキナカもできていて、隔世の感がありますね。

旧型国電は床が木製でワックスの匂いがします。また、補強の為にドアのある位置にあわせて車内中央に金属製のポールが立っています。この金属製のポールは、掴まり易くて意外に便利なのですが、現在の山手線6ドア車両に受け継がれて復活しています。窓は3段式の木枠だったと思います。

旧型国電はホームに停車中には、床下で圧搾空気を作るコンプレッサーが「タムタムタムタムタムタムタムタム」とリズミカルな音を刻みます。また、ホームを発車すると、釣掛け式特有の「グゥァウォ~」という騒音を振りまきながら、車体を左右に揺らして加速していきます。エネルギー効率とかは良くないんでしょうが、蒸気機関車と同じように、何か電車が一生懸命走っている様が五感でもって感じられるってすごいですよね。

JR品川駅と大井町駅の間の西側に東京総合車両センターがあり、山手線の車両が止まっているのを見ることができますが、この車両センターの西側は旧大井工場にあたり、旧型車両の保存も行われています。湘南新宿ラインに乗ると、大崎-西大井間でこの旧大井工場の脇を通過します。電車から眺めると、見えるんですね、旧型国電が...

気になって調べてみると、この車両は昭和一ケタ時代に製造された31系17m車の末裔(クモハ12052・12053 )のようです。最後は鶴見線の大川支線で働いていたのが、1996年を以って引退したようです。ここに拡大写真が掲載されていますが、なかなかいいですね。まず、控えめなぶどう色2号の塗色、凛とした機能美を感じる姿、現代の標準的通勤車両の20m比べて少し小さい17mの短躯が引き締まって見えますね。また、表面に見出せる無数のリベット。(嗚呼、鉄と電気の時代、映画メトロポリスよ。)台車はDT11ですか、これも古臭くていいですね。

こういうものは産業歴史遺産として是非長期間保存して欲しいですね。

2009年11月3日火曜日

トロリーバスの思い出



JJが子供のころは東京都内をトロリーバスという乗り物が走っていました。近所を走っていたのは103系統「池袋駅前-亀戸駅前」で、亀戸から明治通りを通ってJJの住んでいた下町地域を走り抜けて行きました。

近所には、もう一路線101系統「今井-上野公園前」という路線もあり、谷中に墓参りに行くときに良く乗りました。こちらは言問通りを走って行き、根津の交差点から不忍通りを左折し、今の千代田線湯島駅のあたりが終点で、折り返すためのループ線があったと思います。不忍通りは当時都電も走っていたので、今思えば架線はかなり錯綜していたんではないでしょうか?また、都電は途中から動物園方面の専用軌道に分かれて行くので、このあたりの架線の交差部分がどのように処理されていたのかは気になるところです。

調べると、都営トロリーバス全盛期には全部で4系統存在し、101系統、103系統のほかにも、102系統「池袋駅前-品川駅前」や104系統「池袋駅前-浅草雷門」がありました。104系統と103系統はかなり路線が重なっており、三ノ輪のあたりで明治通りを分かれて浅草方面に入って行ったようです。102系統は池袋から渋谷まで明治通りを通っていたようなので、101系統を別にすれば、トロリーバスは基本は明治通りを根城にしていた様ですね。

トロリーバスは非常にゆっくり走っていた記憶があります。子供心に、その遅さにいらいらしたものです。心の中では「ノロリーバス」と揶揄していました。でも、今考えると排気ガスやエンジンの騒音を出さずに街中を走る乗り物は環境には良さそうですね。

トロリーバスは電気で動くので、道路には架線が張り巡らされ、車体の上部に取り付けられた二本の集電ポールが架線から電気を取り込んでいました。普通の電車と違って、レールから電流を逃がすわけには行きませんので、ポールは二本(直流600V方式なので、プラスとマイナスですね)あります。ポールの先端にはプーリーのような部品が付いていて、それが架線と接触していました。Wikipediaの記事によると、このプーリーのことをトロリーといったようです。また、ポールを下ろすために先端にロープのようなものが付いており、その逆端が車体後部のリールのような部品につながっていたと思います。東京都交通局では、トロリーバスは電車のくくりで、「無軌条電車」と呼ばれていたようですね。

先ほど出てきた103系統ですが、亀戸から帰ってくると、京成電鉄の踏み切りの手前で(電話局の前あたりで、バス停があったかもしれません)いったん止まると、車掌さんが車外に出て集電ポールを下ろすと再び車内に乗り込み、今度は運転手さんがおもむろにエンジンをかけて踏み切りを越えるともう一度止まってポールを上げて...といったことをやっていました。トロリーバスの架線と京成電車の架線が電圧の違いもあって交差できないので、やむなく補助エンジンで踏み切りを超えていたのでした。もともとのろいトロリーバスがさらにのろくなる理由がここにありました。

このために103系統を走っていた車体(300型とか350型)には補助エンジンがあり、フロント側に小さいラジエータグリルもついていて、他の路線のものとちょっと顔が違います。

また、踏切を渡る時だけでなく、何かの拍子にポールが架線から外れることもあり、そのたびに車掌さんが車外に降りて直していました。

写真は以前「タイムスリップグリコ」のおまけについていた模型です。他の模型と組み合わせて撮影してみました。多少雰囲気は出てるかなと思います。

東京都内のトロリーバスは、残念ながら昭和43年に全部の路線が廃止されてしまいました。後から出てきた高性能のディーゼルバスに比較して効率が悪かったことが廃止の理由とされているようです。最初に敷設された101系統が昭和27年ですから、たかだか16年の短い命でした。

同じころ、都電も各地で廃止されていきましたが、都電のほうがもう少し後まで残った路線があったようです。それでも昭和47年には専用軌道部分の多かった荒川線を残してあとはすべて廃止になってしまいました。そのうち都電の思い出も書きましょう。


この写真は昭和27年開業当時のトロリーバスです。後に塗装は変更になりましたが、最初は薄いピンクと青のツートンカラーだったようです。撮影時期から考証して車体は50形、路線は101系統のはずです。50形は、もともと中国の天津市に輸出するために製造されたのですが、朝鮮戦争(中国義勇軍の参戦など)の影響で輸出ができなくなり、東京都が買い上げたという経緯があったようです。(写真出展:毎日新聞社「一億人の昭和史 6」より。なお、この写真は既に公表済である。)

日本では見かけなくなってしまったトロリーバスですが、中国など海外ではまだまだ現役です。二年ほど前に北京に行った時にも乗ってみました。車体に二本のツノが生えていて、ちょっと愛嬌のある乗り物ですよね。

2009年11月1日日曜日

「皇室の名宝」展と伊藤若冲

今回はやっと伊藤若冲(1716-1800)の話しですね。

「皇室の名宝」展の目玉展示のもう一つは伊藤若冲の「動植綵絵」30幅です

伊藤若冲は狩野派や円山派などの特定の派閥に属していたわけでもなく、表現も日本画の本流からずれていた部分があり、また当時の権力層と強固な関係を築いていた訳でも無く、比較的最近までは高い評価を得られていない画家でした。

若冲は京都の錦小路にあった枡源という青物問屋(奉公人が二千人ということなので、大変な大店ですね)の跡取りとして生まれ、40歳にして家督を弟に譲って隠居し、好きな画業に専念したということです。最初は狩野派に学んだということですが、当時流行していた本草学(西洋の博物学にも大きな影響を受けていました)に根ざした写実力と、中国の伝統絵画の技法と、前の世代にあたる尾形光琳(1658-1716)にも大きな影響を受けていたようです。江戸後期の画家、白井華陽の著した「画乗要略」という書物には若冲の作風を「模元明古蹟、兼用光琳之筆意」としています。

JJが最初に若冲の作品を見たのは、昭和59年に京都国立博物館で開催された特別展「近世日本の絵画 -京都画派の活躍-」という展覧会で、これはかなり衝撃的でした。もちろん、動植綵絵も展示されていましたが、他のユニークな作品たちや、同時代に京で活躍した画家たち、すなわち円山応挙(1733-1795)や、その弟子の長沢芦雪(1754-1799)、そして曽我蕭白(1730-1781)といった画家たちの奇想溢れる作品を目にすることができました。

それで「動植綵絵」ですが、この作品は若冲の代表作で、釈迦三尊像とともに臨済宗の名刹、相国寺に寄進した仏画です。隠居直後の1757-1766にかけて製作された30幅の作品は動物や植物達が色鮮やかに、精密に描かれており、若冲畢生の大作です。これらの生き物たちは人間と同じように仏に導かれる衆生で尊いものであることを描きたかったと言われています。

若冲は寄進した仏画によって相国寺に永代供養を望んでいたようで、実際に彼の墓の一つは同寺にあります。その後、明治になって廃仏毀釈の風潮や、幕府や大名から庇護を受けられなくなったことから、各地の名刹はその経営に窮し、伽藍の修理費にも事欠いたと言われています。相国寺も経済的に逼迫し、高名な作品であった動植綵絵を皇室に献上し、代わりに一万円を下賜されています。同じ時期に法隆寺も同様の状態に陥り、300点あまりの寺宝を皇室に献上し同じく一万円を下賜されています(明治11年)。法隆寺の寺宝は一部(かの有名な聖徳太子及び二王子像など)を除いて東京国立博物館の法隆寺宝物館で観覧することができます。

動植綵絵に先立って製作された「旭日鳳凰図」には「花鳥草虫にはそれぞれ霊があるのだから、我々はその真をよく認識して描き始めなければならない..」と書き込まれており、これが動植綵絵の製作にかかわる精神を良くあらわしていると思いますね。


動植綵絵で一番有名なのは、この群鶏図だと思います。13羽の色鮮やかな鶏が描かれていますね。

一羽づつ模様の異なる雄鶏を生き生きと見事に書き分けています。詳細・緻密でかつ濃密ですね。遠目に見ると、抽象的な模様まるでアラベスクのようにも見えます。

若冲は鶏が好きだったようで、この絵を含めて30幅中に8枚の鶏の絵を描いています。実際に手元で鶏を飼育して詳細に写生をしたものでしょう。ただ、ちょっと詰め込みすぎかなといった感もあります。

若冲は晩年に大阪西福寺の障壁画を依頼されたときも群鶏図(重要文化財)を描いており、こちらのほうは、多少間隔が空いて、すっきりしています。



また、動植綵絵の画題には他にも鳥が良く出てきます。鴛鴦、雀、孔雀、鸚鵡、鵞鳥、鶴、錦鶏、鳳凰、雁、そしてその他の小禽(小鳥)たち。

動植綵絵の中でJJが好きなのは、右側の一枚「蓮池遊魚図」です。蓮池を泳ぐ魚群で、1匹を除くと鮎のように見えます。鮎が池にいるのか?といった疑問はありますし、何となく動きが無いのが気になりますが、なかなか静謐で涼やかな一幅ですね。

若冲は動植綵絵で海の生き物も色々と描いていて、群魚図二幅などは、まるで魚類図鑑を見ているような精密な表現です。

先に述べたとおり、若冲はかなりな金持ちでありましたので、製作には時間をかけたのは言うまでも無く、画材は惜しげもなく高級なものを使用していたようです。描かれている素材は高級な画絹で、表の彩色を際立たせる為に裏彩色を施したりもしています。

また群魚図の鰹には、1704年にドイツで発見されたプルシアンブルーと呼ばれる当時は珍しい輸入品の顔料が使用されていることが最近の調査で判明しています。

若冲にはユーモラスな面もあり、動植綵絵でもこの池辺郡虫図には、たくさんの虫のほかに蛙やおたまじゃくしがたくさん描かれています。蛙がみんな同じ方向を向いているのは、なんか面白いですね。


若冲のユーモラスな面を伝える作品としては、今回の「皇室の名宝」出品作ではありませんが、「野菜涅槃図」というものがあります。

普通は涅槃図というのは釈迦入滅の様子を描いた仏画で、中央で安らかに横たわる釈迦の周りを弟子たちが取り囲んで悲しみを表現しているものです。

この「野菜涅槃図」(「果蔬涅槃図」とも言うようですね)は水墨で描かれており、中央の大根が釈迦、周りを囲んでいる人参、牛蒡、瓜、茄子などが菩薩や羅漢を表しています。

この画からは若冲がもともと青物問屋の主人だった出自が伺われます。

最後に非常に不思議な絵をご紹介しましょう。「鳥獣草花図屏風」という六曲一双の屏風絵です。遠目に見るとちょっと変わった感じの絵なのですが、近寄ってみるとすごく変わっていることに気付きます。画題は古今東西の生き物たちで、中には想像上の動物も含まれていますが、画を構成しているのが一辺1.2cmの正方形なのです。この正方形が片隻43,000個あるそうです(誰が数えたんだろう?)。従って、この画はモザイクのように見えるのです。異色の画家と言われた若冲の作品の中でも最も異色な作品かもしれません。この絵は舶来品の繊維製品(ゴブラン織りなど)の図柄に影響を受けたのではないかという説もあるようです。今は米国にあるので、めったに見られませんが、前出の1984年の展示でJJは見たことがあり、忘れられない一品です。


若冲は人物や風景ではなく、身近な動植物を愛情を持って描いた画家と言えるのではないかと思います。画自体もすばらしいのですが、動植物への慈しみという観点からも、JJにとっては大好きな画家ですね。