2009年12月31日木曜日

月の写真うまく撮れなかったので、とりあえず満月入りの夜景です


横浜コットンハーバー地区の上に昇る2009年大晦日の満月。手前に見えるオレンジ色の光は、横浜市中央卸売市場(青果部側)です。

神社なう。今年のお札と破魔矢を納めに。


源頼朝創建と言われる、洲崎大神。このあたりは、東海道の旧神奈川宿。

神社の縁起に拠れば、石橋山の合戦(西暦1180年)に破れた源頼朝は真鶴から海路安房国(南房総)に逃れ、その地の洲崎神社を参拝したそうです。その後、安房国の洲崎神社を勧請して、ここ神奈川の地(ここは武蔵国です)にこの神社を建立(西暦1191年建久2年)したとの事です。いまから820年位前のことですね。結構歴史の古い神社です。

安房国の洲崎神社から源頼朝によって勧請されたという同じ話が東京の品川神社にもあるようですね。とすると、品川神社とは兄弟のようなものでしょうか?

この近くには横浜市中央卸売市場(青果と鮮魚)があり、神社の玉垣にも市場関係者の名前が多く見られます。

2009年12月29日火曜日

テスト画像

Pixel Pipeのテスト用画像。横浜港に入港する飛鳥Ⅱの写真。
This is a test picture for Pixel Pipe.

2009年12月27日日曜日

ブルースの夜

JJは色んな音楽を聴くのですが、めんどくさがりなのであんまり自分からライブに行ったりはしません。でも、誘われれば断らないので、おつきあいでこじんまりしたシャンソニエとか、六本木の東京ミッドタウンにあるビルボード・ライブとかにたまに行ったりしてます。ミッドタウンには富士フィルムの写真ギャラリー(富士フィルムスクエア)があり、無料なので開演前に立ち寄ってきれいな写真を楽しんだりもできますね。

昨日はお友達に誘われて、その知り合いの方がやっているブルースバンドのライブに行きました。場所は渋谷です。会場のライブハウスは結構古くて味わいのある建物なのですが、再開発の道路用地ゆえ立ち退きのため来月いっぱいでなくなってしまうそうです。このバンドは毎月一回このライブハウスで演奏しているのですが、今回が最後になってしまいました。今後は渋谷の別のライブハウスに移って活動するようです。ステージの様子はこんな感じです。

会場が狭いので、非常に臨場感がありました。また、バンドの演奏は水準が高く、とても楽しめました。メンバーの方々はもちろん本職ではなく、他に仕事をお持ちです。ライブの詳しいことはお友達のブログに記事がありますので、こっちを見てください。演奏の録音もアップされています。

ブルースってJJにとって割と好きなジャンルで、Eric Claptonを筆頭に結構コレクションも持っています。学生の頃にブルースギターを弾きたくて、BB Kingのブルースギター入門という本を買ったことがありました(ソノシートつきです)が、挫折して本もどこかになくなってしまいました。もう一回挑戦してみますかね?

2009年12月23日水曜日

横浜から千葉県は見えるか(副題:水先人という職業)

ええっと、前回は横浜から筑波山が見えるかという記事でしたね。今回は千葉県ですね。千葉県というと、横浜から行くには東京を抜けていく必要がありますので、地面上では遠いのですが、東京湾というのは奥のほうこそ広がっているものの、入り口のほうは結構すぼまっているので、楽勝で見えてしまいます。

JJの家から対岸を見ると、君津や富津あたりが見えます。


ベイブリッジのちょっと右側で煙を上げているのは新日鐵君津製鉄所です。また写真の右端に見える煙突は東京電力の富津火力発電所です。港内では遊覧船のロイヤルウイングが航行していますね。

もう少し右側を見るとこんな感じです。

写真中央に遠くもっこり見えるのが鋸山ですね。インターコンチネンタルホテルの左側にちょっと出ているのが観音崎(神奈川県側)です。夜になると観音崎の灯台の光が見えます。今日は大桟橋にクルーズ船のパシフィックビーナスが停泊していますね。

もうちょっと左側を見るとこんな感じです。

風力発電用の風車の奥に水平に見える白い線は東京湾アクアラインですね。海ほたるの奥に見える煙突は東京電力の姉ヶ崎発電所でしょうか?

横浜駅から新日鐵君津製鉄所までは直線距離で24kmしかありません。戦艦大和の主砲だったら十分射程圏内ですね。

東京湾の入り口は浦賀水道と呼ばれていてもっとすぼまっています。そこをひっきりなしに貨物船やタンカーが航行しています。最近は乗りませんが、東京湾アクアラインが完成する前は南房に行くのに、久里浜から東京湾フェリーに乗ったものでした。フェリーは航行船舶の多数行き交う浦賀水道を横断しますので、船上で見ていると、右から左からやってきては目の前を掠めていく他の船舶に、よくぶつからないもんだと思って、ひやひやしたものでした。

東京湾は強制水先区といって、一定以上の大きさの船舶は水先人(英語だとPilot)を乗せることが義務付けられています。(船長の経験や船舶の種類(たとえば米軍の軍艦)などによっては免除されるようです)水先人というのは、一般にはなじみがありませんが国家資格で非常に取得が難しい難関資格との事です。水先人は地形や潮流などを熟知し、船長に対して操船の補助をします。収入は良い(開業医程度と聞いています)職業のようですが、荒れた海を小船で乗り付けて縄梯子で貨物船に乗り込んで...といった荒業も要求されますし、船舶事故を起こしてはいけませんので大変責任の重い職業だと思います。

水先人は船舶の安全を守るための大事な業務を担っているのですが、色々な職業があるものだと感心します。日本水先人連合会のホームページに詳しいことが記載されていますので、一読してみてください。ホームページには縄梯子(パイロットラダーというそうです)で船舶に乗り込む水先人の写真が掲載されています。

ちなみに、ここに水先料表が掲載されています

2009年12月20日日曜日

横浜から筑波山は見えるか

冬至も近くなって、だいぶ寒くなりましたね。今年の冬至は......っと、12月22日ですね。

晴天で気温が下がると遠くのほうが良く見えます。理由はよくわかりませんが、相対湿度の低下による地表付近での靄(もや)や霞(かすみ)の発生が抑制され、高気圧による下降気流により空気中の塵が地表に落ちてくるからでしょうか?もともと、JJの家は高い場所にあるので、遠くのほうがよく見えますが、特に冬場は一層遠くまで見ることができます。

JJの家から東京方面を撮ったのが下の写真です。ズームはしていません。


そこで、ズームして撮ると、上の写真より時刻は少し早いですがこんな写真が撮れます。

写真中央に鉄塔が二本見えると思います。手前の方は鶴見にあるTVKの送信所で、奥の小さいのが東京タワーです。東京タワーの右側二つ目のビルが愛宕ヒルズでその右側にちょこっと丸い影が見えると思いますが、これが筑波山です。JJの家から筑波山までおおよそ100Kmありますが、何とか見えましたね。冬場の晴天時に見える日がありますが、そんなに何日もあるわけではありません。

筑波山は茨城県から見ると孤立峯ゆえ雄大ですが、標高が900m弱しかありませんので、横浜から都心のビル街を通してみると、やっと見えるか見えないかと言ったところですね。ちなみにJJが通っていた東京下町の高校の校舎からはもっと大きく見えました。

一方で富士山の方は、距離が多少近いというのもありますが、さすがに日本一の雄大さを誇りますので、こんな感じに見えます(もちろんズームはしてます)。

右手前側の稜線は丹沢ですね。最初のピークが大山だと思います。冬の冠雪した富士山は荘厳で美しいですね。

ところで、筑波山は小学生のころ一度行ったことがあります。土浦から関東鉄道に乗って筑波駅で降りてバスに乗ったような記憶があります。土浦駅には入れ替え作業用に蒸気機関車が働いていたのが印象的でした。調べたら関東鉄道(筑波線)もずいぶん前に廃止になってしまったようですね。

2009年12月13日日曜日

クロトンとカイガラムシ

久々に園芸ネタです。

JJの家の机の周りには、色んな植物が置いてあります。植物を見てると気持ちが落ち着くからです。このクロトンのハイドロカルチャーは、もうずいぶん前から世話をしています。もう7年くらいになるかもしれません。

 クロトンは南方系の植物で、フィリピンなどでは植栽として地植えで平気に育っていますが、関東地方では冬場は室内で管理する必要があります。このクロトンも他の観葉植物と同じように最初はミニ観葉から始まったのですが、今ではこのくらいの大きさです。他の観葉植物の成長に比べるとちょっと育つのが遅いように感じます。これは、クロトンが草ではなく木だからという理由もあると思いますが、もう一つ別の理由があります。


その原因はこいつです。葉っぱの上に白い粉のようなものが付着しているのが見えると思いますが、これは「カイガラムシ」です。この白い粉のようなものはカイガラムシを覆う分泌物のようなもので、リンク先の記事によれば「虫体被覆物」というそうです。

じつは最近デジカメを買いました。あんまりいいのではありませんが、一番安くてマクロ撮影のできるキャノンのA480というモデルです。いままでブログの写真はiPhoneのカメラで撮影していたのですが、色々と制約が多く、思ったとおりの写真が取れなかったので、限界を感じていたのですが、新しいカメラのマクロ撮影は強力です。で、上の写真はマクロで撮影したカイガラムシの本体です。ダンゴムシを延ばして漂白して縮めたような感じですね。

どうもカイガラムシはクロトンが好きでしょうがないようで、この木に取り付いて樹液を吸ってしまいます。(他の植物にはあまり寄生していないようです。)このせいで成長が遅いようなのです。

カイガラムシの駆除には色々な農薬も効果的で、オルトランなども実績はあるのですが、家の中の人間を含めた他の生き物たちの健康を考えると室内で使用するには問題があります。次善の策として、いつもやるのが「テデトール」の使用です。(「手で取~る」ということなのですが...)

まず用意するのが、使い古しのハブラシです。ハブラシはちょこっとした部分の掃除に便利なので、JJは自分で使った後、いつも使い古しのハブラシを取っておきます。洗剤を使用したものとカイガラムシ駆除用のものを混ぜたくないので、JJは専用ハブラシを持っています。(使い古しですが)


間違うといけないので、柄の部分に「カイガラムシ駆除専用」と拙い字(ハブラシの柄に文字を書くのは結構大変なので)で表記してあります。

次に行うのが鉢の養生です。ハブラシで落としたカイガラムシが鉢の根元に降り積もると、そこから這い上がってきますので、クロトンの根元と鉢全体を切れ込みを入れたビニール袋でしっかりと密封してやります。


後はこれを洗面所にもって行き、流水の元、専用ハブラシでカイガラムシどもを虫体被覆物ごと流してしまえばよいのです。前回は9月ごろにこの作業を行って完全に駆除したと思っていたのですが、ふと気づくと再びカイガラムシがたかっていたのです。この調子では来春ごろに次の駆除を行うことになりそうですね。定期的な駆除の手間を考えると、クロトンを買い換えてもいいのですが、何年も面倒を見てるとそれなりに愛着がわいてくるものです。

と、いうことで、JJはまた来年も何回かこの作業を行っていることでしょう。

2009年12月5日土曜日

大艦巨砲主義の末路と戦艦大和の悲劇 (副題:昭和三大馬鹿査定)

テレビを見ていたら、「宇宙戦艦ヤマト 復活編」のCMをやっていました。宇宙戦艦ヤマトですか、懐かしいですね。「さらば~地球よ~♪♪」といまでも主題歌をカラオケで歌うのを耳にすることもありますね。

ということで、今日は本物の戦艦大和の話をしましょう。

昭和三大馬鹿査定という言葉があります。これは、1987年12月、政府予算復活折衝のさなかに大蔵省田谷廣明主計官(当時)が述べた言葉だそうで、

「昭和の三大バカ査定、と言われるものがある。それは戦艦大和、伊勢湾干拓、青函トンネルだ。もし(民営化したばかりのJRで)整備新幹線計画を認めれば、これらの一つに数えられるだろう。」

と発言されたそうです。

一方で、世界三大無用の長物という言葉もあり、、「万里の長城、ピラミッド、戦艦大和、新幹線、青函トンネル」 の 5つの中から 3つを組み合わせたもののようです。戦艦大和以外は観光資源として役に立っていたり、現在では欠く事のできない社会資本だったりしますが、どうにも戦艦大和だけは能力を発揮できず、ほとんど役に立たずに沈没してしまいました。運命をともにされた2740柱の英霊には申し訳ありませんが、馬鹿査定といわれようと無用の長物と言われようと反論は難しいような気はします。


<波濤を蹴って進む公試中戦艦大和の威容(昭和16年10月30日)>

戦艦大和は昭和15年8月8日に広島県にある呉海軍工廠において進水しました。当時の日本国内最高水準の技術と1億3780万円(当時の国家予算の3%)をつぎ込んだ大和は、基準排水量65,000トンを誇り、現在に至るまで人類史上における最大の戦艦という輝かしい記録を持っています。

大東亜戦争のころには既に航空戦力と制空権の重要性は認識されており、事実真珠湾攻撃は航空機動部隊により赫々たる戦果を挙げました。しかし、それまでの常識では制海権を重視し、そのための艦隊決戦の切り札としては大艦巨砲主義が信奉されていました。

大艦巨砲主義というのはこういう理屈です。

「敵の戦艦よりも射程距離が長い巨砲を装備し、同等の巨砲で攻撃されても防御するのに十分な装甲を有する戦艦を建造すれば、原理的には海戦で勝利することができる。」というのがその理屈です。戦艦大和は当時世界最大を誇る46センチ砲を装備(3連装の砲塔を3基装備)し、同時に、46センチ砲で攻撃されても防御できる装甲を有していました。


<艤装中の戦艦大和>

敵戦艦の主砲が46センチよりも小さければ、大和は敵戦艦の射程外から攻撃することが可能であり、万が一敵戦艦の攻撃にあっても装甲で防御できるので、無敵であるということになります。しかしながら、この考え方は実際には間違っていました。

46センチ砲の最大射程は42.026Kmで、最大仰角である45度で発射した場合弾丸の最高高度は11,900m(現代のジェット旅客機の巡航高度くらいですね)まで到達します。長さ2mで1.5トンもの重量のあった砲弾の初速は時速2,808Km/hで音速をはるかに超えます。

しかし、最大射程の42Kmというのは、東京駅から江ノ島を狙うようなもので、着弾地点の誤差は目標を中心にして最大1Km程度に及んだということです。また、大和型の第一艦橋は高さ34mあり、42Km先まで目視できたということですが、実際には敵艦に煙幕や弾幕を張られれば目視確認はできず、電探(レーダー)の装備はありましたが、当時の日本の技術水準では砲撃の照準を行うほどの技術的成熟はなかったので、あまり使い物にはならなかったようです。また、弾着を確認するための艦載機(零式艦上観測機)も搭載していましたが、制空権の無い状態では艦上観測機の発着もままならなかったでしょう。46cm砲の実質的な射程距離は20Km~30Kmとも言われていますが、誘導機能のない巨砲の長距離射撃は特に実戦状況では技術的に困難を極めたものと推測されます。

また、主砲を発射する際には爆風や衝撃波による被害(甲板から吹き飛ばされたり鼓膜を損傷したり)を防ぐため、甲板上の乗組員は艦内に退避する必要があり、その際に主砲以外の他の砲に装着されていた衝撃に弱い照準機は取り外す必要があったということです。と、いうことは、主砲を発射する際にはその前後を含め対空砲が使えないということで、敵航空機に対する防御が極端に手薄になります。一方で、46センチ砲の信頼性に関しても問題が多く、何発か発射するうちに故障が発生する事がしばしばあったといった情報もあります。


<46センチ砲の勇姿>

太平洋戦争の最初期段階である真珠湾攻撃で航空優位が実証されてしまったこともあり、戦艦大和の出番はほとんどありませんでした。温存という意味もあったのでしょうが、戦争中はほとんど呉の海軍基地で待機していたようです。大和は艦内の居住性に優れ(居住空間は他艦より広く、士官室は冷房完備であったり、洋式便器が装備されていたり、アイスクリームやラムネの製造機械が設置されていたり)、食料などの物資も優先的に配給されたため、時には「大和ホテル」とも揶揄されていたようです。最後は天一号作戦(菊水作戦)に動員され沖縄に向かう途中、昭和20年4月7日に鹿児島県坊ノ岬沖にて撃沈されました。


<戦艦大和最後の大爆発>

大和型としてはは兄弟艦の武蔵が三菱重工長崎造船所で建造され、最後はフィリピンのレイテ島沖で撃沈されました。また大和型三番艦である信濃は横須賀海軍工廠で建造されましたが途中で空母に改造され、呉に回航中に潮岬沖で米潜水艦に撃沈されました。

戦争中は大和、武蔵の存在は軍事機密として秘匿され、一般には知られていなかったようです。かわりに元々連合艦隊の旗艦であった長門のほうが知名度が高かったようです。ちなみに長門は終戦まで生き残り(満身創痍だったようですが一応航行はできたようです)、その後米軍に接収され、最後はビキニ環礁における原爆実験材料にされ、昭和21年7月28日ごろ沈没しました。

第二次世界大戦で航空戦力の優位が実証されたこともあり、終戦後は戦艦が建造されることはありませんでした。現代における艦隊は航空母艦を中心に、他には航空母艦を守るための巡洋艦、駆逐艦、潜水艦、強襲揚陸隊、補給艦、哨戒機などから編成されています。

中でも航空母艦を守る盾の役目をしているのがイージス艦です。イージス艦とは高度なレーダーと対艦対空ミサイルとそれらを制御する戦闘指揮システム(いわゆるイージスシステム)を装備した艦船(排水量によって、巡洋艦であったり駆逐艦であったり、フリゲート艦であったりします)で、同時に10個以上の敵に対してミサイル誘導攻撃が可能です。イージスとはギリシャ神話で最高神ゼウスが娘アテナに与えたという盾(胸当)が語源になっているようです。


<横浜港大桟橋に接岸中の海上自衛隊イージス艦「きりしま」>

先日JJの自宅近くの横浜港大桟橋にイージス艦「きりしま」が来航して南極観測船「しらせ」とともに一般公開されましたので、見に行きました。その時の話はいずれ詳しく書こうと思いますが、一つだけ印象に残ったことがあります。

イージス艦の装備はミサイルがほとんどですが、そのほかにも魚雷の発射装置があり、あとは20mm自動機銃(ファランクス)の他、船首に1門だけ大砲(12cm速射砲)が装備されています。他の見学者が速射砲の砲塔下に立っていた説明要員の海上自衛官に質問していました。質問自体はよく聞いていなかったのですが、たぶんこんなことを聞いていたんだと思います。

「実際にこの大砲で敵艦と交戦するようなことがあるんですか?」

自衛官はこのように答えていました。

「現代の海戦は水平線の向こうからミサイルが飛んでくるようなところから始まりますので、速射砲の活躍する機会はほとんどありません。まあ、出会い頭に敵艦と交戦状態に入るような場合くらいしか考えられません。」

とのことでした。イージスシステムというのはなかなかにすごいものなので、その内ご紹介しましょう。

2009年11月29日日曜日

Art for art's sake : 伊藤若冲の場合

また、伊藤若冲の話です。

以前ご紹介したように、伊藤若冲は京都錦小路の青物問屋「枡屋(通称枡源)」の主人でしたが、40歳にして家督を弟に譲り、好きな画業に専念したということです。「枡源」は使用人が2000人というから大変な大企業ですね。

江戸時代は商人に対する税金は、冥加金や運上金、それから商家の間口によって課税される地子銭、あとは公共事業への拠出金のようなものもあったようです。しかし、一般的には商家に対する税率はそれほど高く無かったといわれています。幕府財政が窮乏してくると豪商などに御用金と称して金銭を供出させる不条理な制度がありましたが、若冲が生きていた江戸初期はまだ幕府財政は健全であり、そのような事も無かったはずです。

ということを考えると、若冲はかなり金銭的な余裕のある楽隠居の身分だったと考えられます。彼の代表作である動植綵絵も高価な画絹や舶来の絵の具など、かなり高価な画材を使用していたことが知られており、彼の裕福さを物語っています。

このことを、さる画家に話したときのこと、「っていうことは、若冲は金のためとか他人のために画を描いたんじゃないのね。」というレスでした。そうですね、確かに若冲は金持ちの趣味で描いていたわけなので、自分のため、自分の表現のためだけに描いていたということでしょう。

先に書いたとおり、動植綵絵は釈迦三尊像とともに相国寺に寄進したものです。若冲は同寺に永代供養を依頼してもいたので、芸術的動機以上に宗教的な動機もあったものと思います。しかし、動植綵絵は誰に依頼されるものでもなく、金のためでもなく、権力者におもねるものでもないことは明白な事実だと思います。

相国寺は足利義満花の御所の隣接地に建立した古刹で、配下に有名な金閣寺(鹿苑寺)もあります。若冲は金閣寺の大書院障壁画も水墨で描いており、今に残されています。義満が建立した当時、伽藍には高さ106mの七重大塔があり、数年で焼失したものの、以後530年間(1926年まで)日本一高い建造物の記録を持っていたと言うことです。


<花の御所>

いかに芸術家とはいえ、通常の場合は世過ぎの事も考えざるを得ない状況ですので、若冲のような境遇で、誰の意見も目も気にせず、このように自分の思うままに製作でき、しかもそれが数百年来伝わる傑作として残されるという状況は稀有のことだと思います。

このようなケースは、古くは姫路藩主(譜代:15万石)の弟で「夏秋草図屏風」などの秀作を残した酒井抱一や、下っては中央画壇を見限り、奄美大島で染色工として働きながら傑作の数々を残した異色の日本画家田中一村に通じるものがあるかもしれませんね。


<「風雨草花図」通称「夏秋草図屏風」>

今日のタイトルにある"Art for Art's sake"は直訳すれば「藝術のための藝術」という意味ですが、普通は「藝術至上主義」と訳します。この言葉はフランス語の''l'art pour l'art''という19世紀初期の言葉の英訳です。フランス語のほうが語呂がいいですね。ラテン語だと"Ars gratia artis"です。このラテン語の言葉は、MGM映画の最初のタイトル画面でライオンが吼える場面がありますが、ライオンの上に現れるリボン(良く見たらリボンじゃなくてフィルムですね)に書き込まれています。今度MGM映画を見ることがあれば、目を凝らして探してみてください。

なんかラテン語ってなんとなくかっこいいですね。たいして意味の無い言葉でも深遠な意味があるような感じがしてくるから不思議です。(JJは昔、学生時代にラテン語の授業を登録していたのですが、一度も出ないで単位も落としたという、トラウマがあります。)

2009年11月22日日曜日

天下の退屈男、土田孫左衛門の謎

このブログページの右上に「Fish」というタイトルのガジェットが貼り付けてあるのですが、昨日から不調で、魚が出てこなくなってしまいました。JJの家の猫が食べてしまったのでしょうか?いずれ、また出てくるのかどうかちょっと心配です。

さて、今日は歴史のお話しです。

JJは江戸時代ってすごく面白いと思っています。以前は閉塞して抑圧されて遅れた時代と思われることが多かったと思いますが、実際は250年以上も続いた平和な時代の中で、GDPは成長、人口も増加し、文化、産業、経済そして民度も成熟しました。また、鎖国とはいうものの、西洋の文化や科学そして国際情勢もそれなりに国内に入ってきていました。明治以降の西洋化、産業化を急速に推し進め、ひいては現代の科学技術立国に繋がるための下地ができた時代だと思っています。江戸時代の文化に関しては、色々書いても書ききれない多様性がありますので、おいおい掲載していきましょうね。

一方で、江戸時代初期に確立した幕藩体制は途中多少の改革は経験したものの、基本構造は最後まで墨守したこともあり、今から見ると硬直的で相当におかしな事も起こっていました。

江戸時代の政治は人口の10%弱を占める武士によって支配されていました。幕末になると身分間の移動は多少見られましたが、基本的には支配階級である武士は世襲であり、その役割や石高(収入)も固定されていました。また、幕府での政治は譜代大名と旗本によってなされ、外様大名には幕政に参加する機会はありませんでした。外様で文人大名として有名な松浦静山(肥前国平戸藩)なども、そのような体制には不満を持っていたようです。

幕政を支えていた旗本たちに関して言えば、石高は世襲でしたが、能力を認められれば出世することもあったようです。たとえば、江戸町奉行で有名な大岡忠相(大岡越前)などは書院番士を振り出しに昇進を続け、江戸町奉行の後は通常は大名の役職である寺社奉行を拝命し、最後は寺社奉行を務めながら1万石の大名(三河国西大平藩:今の愛知県岡崎市)になりました。ただし、これは例外中の例外で、通常は昇進して足高(役職手当のようなもの)は支給されるものの、在任期間だけの話で、加増が無ければ世襲できるのは基本の石高のみになります。

一方で、江戸城の中では変わった役職が色々あり、それらの多くは世襲されていきました。例を挙げれば、旗奉行という徳川家の軍旗を管理する役職(太平の世の中ではほとんど閑職だったと思われます)だとか、露地の者と呼ばれる庭を掃除したり、茶道具の運搬をする役職とか、鳥見と呼ばれる狩場の管理をする役職などが世襲されていきました。

その中でも、もっとも変わっていたのが「公人朝夕人(くにんちょうじゃくにん)」という役職でしょう。この役職は将軍が京都に上洛するときに同行し、将軍参内の折、束帯姿で排尿に困難を極めた将軍のために尿筒(ちなみに「しとづつ」と読みます)を持参する仕事です。尿筒は当時一般的であった竹筒ではなく、銅製であったそうです。(金属だとちょっと冷たそうですね。懐で常に暖めていたんでしょうか?)「公人朝夕人」は代々土田家が世襲し、土田孫左衛門を名乗ったそうです。「公人朝夕人」は10人扶持(50俵)の禄高で、身分も町人並み(下級武士だったという説もあるようです)でした。

宝暦11年(西暦1761年)に幕府に提出された土田家の由緒書きによれば、土田家は古くは鎌倉時代に藤原頼経公が鎌倉幕府第四代将軍になって京都から鎌倉に下った時(1219年)に従い、以来将軍の尿筒持ちとして、足利将軍家、織田信長、豊臣秀吉に仕え、慶長8年(1603年)に徳川家康に請われて徳川家にも仕えるようになった事が記されています。土田家が幕末まで続いていたとしたら、尿筒持ち一筋に650年ということになりますね。役割も役割ですが、征夷大将軍という貴人に近づくので、誰でも良いという訳ではなかったでしょうし、歴史も長いということで、土田家も名家ということになるのでしょう。

ただし、土田家の職務は将軍上洛時だけで、実際は江戸でも将軍が束帯を着る機会はありましたが、それは別の役人が尿筒持ちを担当したとのことです。しかも、将軍の上洛は初代の家康から三代の家光までで、その後は数百年行われず、次の上洛は幕末の14代家茂まで間が空いてしまいます。もっとも家茂上洛時に土田家が同行したのかどうかは記録に残っていません。と、言うことは、四代将軍の家綱(~慶安4年:1651年)から14代家茂(安政5年:1858年~)までの間、少なくとも200年間はまったく仕事が無かったということになります。

世界中を見ても200年間何の仕事も発生しないのに世襲していくポストって他にあるんでしょうか?一世代25年としても200年で8世代、仕事の無かった土田孫左衛門が普段何をしていたかは歴史の謎ですね。いざというときに備えて、日頃から研鑽(銅製の尿筒をピカピカに磨いたり、採尿の鍛錬を積んだり?)を積んでいたのでしょうか?

2009年11月15日日曜日

リベット萌え

JJが子供のころ、母方の伯父が近所で町工場を経営していました。工場は木造で40~50坪くらいだったでしょうか。金属加工を行っていたので、金属を切断する機械やプレスの機械が並んでいて、「ガシャコン、ガシャコン、ガシャコン、ガシャコン」と大きな音を立てて材料を加工していきます。それぞれの機械にはモーターが付いていなくて、一箇所に設置されたモーターが天井に設置されたシャフトをベルトで駆動しています。シャフトの別の場所から金属加工機械へ、やはりベルトで回転を伝えます。子供心にそういった仕掛けを見るのがすごく面白くて、機械油と、金属の切子の匂いが充満している工場の中で時間も忘れて機械の動きを眺めていたものでした。葛飾区の博物館に昭和30年代の町工場を再現した展示があるようですが、伯父さんの工場はまさにこんな感じの建物でした

最近の言葉で言うところの「工場萌え」って言うんでしょうか。JJは仕事で色んな工場に行ったりもしますが、今でも工場を見ると心ときめくものを感じます。大きな工場の棟の間で錯綜する配管なんかは特にいいですね。労働安全衛生管理の観点からは、工場はきちんと整理整頓されていないといけないんですが、やはり町工場の雑然とした感じはいいですね。

最近は社会が寛容になってきて、ちょっと違った感覚とかも容認されるようになりました。何か、人と違うものに関心があったり、「いいな~」って思うような感覚って誰でもあると思うんですが、以前は口にするのも憚られるようなことが、今は簡単にカミングアウトできるようになりましたね。

で、告白しますが、JJはリベットがボコボコとたくさん見える鉄製構築物が好きです。こういうのって、最近の言葉では「リベット萌え」ということになるんでしょうかね。


これは渋谷駅近くの東急東横線のガードですが、ありますねぇリベットがボコボコと。東横線は2012年に予定されている地下鉄副都心線への乗り入れを機に渋谷駅が地下化されますので、このガードもそのうちなくなってしまいますね。

でもリベット構築物は緑色に塗装されているやつが感じが出てていいですね。


ああ、これこれ、ペンキは剥げてますが緑色ですね。こっちは横浜駅近くの京浜急行線のガードです。

昔は鉄骨(及び鉄板など)を接合するのに、リベットを用いていました。リベットというのは鉄でできた鋲のようなもので、接合したい鉄材と鉄材の接合部に穴を開けておき、そこに熱したリベットを挿入して先をかしめることによって接合します。リベットは冷えるとキュっと縮まるので、強度を持って接合できるのです。以前は電車も汽車も船舶もみんなリベットで作っていました。理由としては、技術的問題で溶接やボルト接合での強度が十分出せなかったことが挙げられます。子供の頃に良く見た米国製のアニメ(トムとジェリーなど)でも、工事現場のシーンでリベットを熱して鉄骨を接合するシーンを目にしたものです。

ところが、大阪万博の開催された昭和45年ごろを境に、リベットによる接合は姿を消し、溶接や高力ボルトに取って代わってしまいました。技術の進歩もありますが、リベット止め作業が建設現場で発する騒音も嫌われたようです。その間の事情はこのリンクに書かれています。

ということで、リベットがボコボコと出ているような構築物は、昔のものということになりますね。

以前ドイツに出張に行った時のことですが、ハノーバーの見本市(CeBit)に行ったのですが、帰りのフライトがハノーバー発の便が取れなくて、ICE(ドイツの特急列車)に乗ってハンブルグまで移動しました。ハンブルグの駅は、何本ものプラットホームが巨大なドーム型の屋根で覆われていて、そのドームが見事な鉄骨造りだったのです。もちろん随所にリベットがボコボコこ出ており、「リベット萌え」のJJには圧巻でしたね。

この写真では鉄骨やリベットのディテールがわかりませんが、全体の壮観さは伝わると思います。

日本だと、神田あたりのJRのガードの橋脚がすごいですね。ちょっと写真がありませんが、今度撮影してきましょう。

ところで、現在のことですが、JJの家の近所で歩道橋の設置が行われています。横浜のみなとみらいの日産自動車本社前で、V字型の歩道橋です。写真奥のビルが日産自動車本社です。


2009年11月15日現在、歩道橋は開通はしてません。まだ工事中です。ところが、この歩道橋を裏から見ると....


ううむ。なにかボツボツとしたものが見えますね。これはどう見てもリベットのように見えるのですが、どうなんでしょうね。誰か知ってる人がいたらコメントください。

2009年11月8日日曜日

ショーセンデンシャ(省線電車)の思い出

JJが子供のころに住んでいた地区には、鉄道といえば、京成電鉄と東武鉄道が走っていました。親と電車に乗ってどこかに出かけるときには大体東武か京成に乗って行きます。一方で、都電もありましたので、「電車で行く」という時には、都電を意味することもありました。

国鉄(今で言うJRですね)は余り近くに無かったので、めったに乗ることはありませんでした。当時は国鉄の電車のことを国電といいましたが、子供のころはJJの親は「ショーセンデンシャ」と呼んでいたのを覚えています。子供のころなので、「ショーセンデンシャ」が漢字に結びつかなかったのですが、漢字で書くと何のことは無い、「省線電車」になります。国鉄は日本国有鉄道の略ですが、それ以前は鉄道省が経営していたので、省線といったもののようです。

JJは国鉄世代なので、JRになってからも時々「国電」といってしまうことがありましたが、今はさすがにそういったことはありません。民営化後の一時期、JR東日本が「E電」という呼称を普及させようとしていましたが、定着する前に、見事に忘れ去られてしまいましたね。

それで、近所には国鉄が走っていなかったので、親が話している「ショーセンデンシャ」というものが、どんなものか想像が付きませんでした。何か、とんでもなくすごいものを想像していました。

国鉄は昭和32年以降新型の通勤電車として101系の展開を始めました。101系以降の通勤電車は、路線ごとにカラフルな塗装がされています。一方、それ以前の電車を旧型国電といい、代表的な電車として戦中量産型電車である63系を改良した72系と呼ばれるものがあります。旧型国電は、カラフルではなく、茶色に塗装されていました。この色は旧国鉄では「ぶどう色2号」と呼ばれていたようです(ちなみにマンセル値は「2.5YR 2/2」)。「省線電車」という呼称にふさわしいのは、ぶどう色2号塗りの旧型国電ですね。



これはもちろん本物ではなくてJJの部屋にある模型鉄道です。また実際の車両を正確に縮小したものではなく、型もフリーランスですが、まあ、こんな感じですね。

JJが学生のころは、ぶどう色2号の車両は都区内ではあまり目にすることはありませんでしたが、奥多摩のほうに登山などに行く時に立川駅で青梅線に乗り換えていきましたが、当時は青梅線には旧型国電が使われていたので、乗りました。当時は立川駅もずいぶん牧歌的で、木製の柵で改札内外が仕切られていたのを覚えています。現在は新宿から青梅線直通電車も出ていますし、すごく立派なエキナカもできていて、隔世の感がありますね。

旧型国電は床が木製でワックスの匂いがします。また、補強の為にドアのある位置にあわせて車内中央に金属製のポールが立っています。この金属製のポールは、掴まり易くて意外に便利なのですが、現在の山手線6ドア車両に受け継がれて復活しています。窓は3段式の木枠だったと思います。

旧型国電はホームに停車中には、床下で圧搾空気を作るコンプレッサーが「タムタムタムタムタムタムタムタム」とリズミカルな音を刻みます。また、ホームを発車すると、釣掛け式特有の「グゥァウォ~」という騒音を振りまきながら、車体を左右に揺らして加速していきます。エネルギー効率とかは良くないんでしょうが、蒸気機関車と同じように、何か電車が一生懸命走っている様が五感でもって感じられるってすごいですよね。

JR品川駅と大井町駅の間の西側に東京総合車両センターがあり、山手線の車両が止まっているのを見ることができますが、この車両センターの西側は旧大井工場にあたり、旧型車両の保存も行われています。湘南新宿ラインに乗ると、大崎-西大井間でこの旧大井工場の脇を通過します。電車から眺めると、見えるんですね、旧型国電が...

気になって調べてみると、この車両は昭和一ケタ時代に製造された31系17m車の末裔(クモハ12052・12053 )のようです。最後は鶴見線の大川支線で働いていたのが、1996年を以って引退したようです。ここに拡大写真が掲載されていますが、なかなかいいですね。まず、控えめなぶどう色2号の塗色、凛とした機能美を感じる姿、現代の標準的通勤車両の20m比べて少し小さい17mの短躯が引き締まって見えますね。また、表面に見出せる無数のリベット。(嗚呼、鉄と電気の時代、映画メトロポリスよ。)台車はDT11ですか、これも古臭くていいですね。

こういうものは産業歴史遺産として是非長期間保存して欲しいですね。

2009年11月3日火曜日

トロリーバスの思い出



JJが子供のころは東京都内をトロリーバスという乗り物が走っていました。近所を走っていたのは103系統「池袋駅前-亀戸駅前」で、亀戸から明治通りを通ってJJの住んでいた下町地域を走り抜けて行きました。

近所には、もう一路線101系統「今井-上野公園前」という路線もあり、谷中に墓参りに行くときに良く乗りました。こちらは言問通りを走って行き、根津の交差点から不忍通りを左折し、今の千代田線湯島駅のあたりが終点で、折り返すためのループ線があったと思います。不忍通りは当時都電も走っていたので、今思えば架線はかなり錯綜していたんではないでしょうか?また、都電は途中から動物園方面の専用軌道に分かれて行くので、このあたりの架線の交差部分がどのように処理されていたのかは気になるところです。

調べると、都営トロリーバス全盛期には全部で4系統存在し、101系統、103系統のほかにも、102系統「池袋駅前-品川駅前」や104系統「池袋駅前-浅草雷門」がありました。104系統と103系統はかなり路線が重なっており、三ノ輪のあたりで明治通りを分かれて浅草方面に入って行ったようです。102系統は池袋から渋谷まで明治通りを通っていたようなので、101系統を別にすれば、トロリーバスは基本は明治通りを根城にしていた様ですね。

トロリーバスは非常にゆっくり走っていた記憶があります。子供心に、その遅さにいらいらしたものです。心の中では「ノロリーバス」と揶揄していました。でも、今考えると排気ガスやエンジンの騒音を出さずに街中を走る乗り物は環境には良さそうですね。

トロリーバスは電気で動くので、道路には架線が張り巡らされ、車体の上部に取り付けられた二本の集電ポールが架線から電気を取り込んでいました。普通の電車と違って、レールから電流を逃がすわけには行きませんので、ポールは二本(直流600V方式なので、プラスとマイナスですね)あります。ポールの先端にはプーリーのような部品が付いていて、それが架線と接触していました。Wikipediaの記事によると、このプーリーのことをトロリーといったようです。また、ポールを下ろすために先端にロープのようなものが付いており、その逆端が車体後部のリールのような部品につながっていたと思います。東京都交通局では、トロリーバスは電車のくくりで、「無軌条電車」と呼ばれていたようですね。

先ほど出てきた103系統ですが、亀戸から帰ってくると、京成電鉄の踏み切りの手前で(電話局の前あたりで、バス停があったかもしれません)いったん止まると、車掌さんが車外に出て集電ポールを下ろすと再び車内に乗り込み、今度は運転手さんがおもむろにエンジンをかけて踏み切りを越えるともう一度止まってポールを上げて...といったことをやっていました。トロリーバスの架線と京成電車の架線が電圧の違いもあって交差できないので、やむなく補助エンジンで踏み切りを超えていたのでした。もともとのろいトロリーバスがさらにのろくなる理由がここにありました。

このために103系統を走っていた車体(300型とか350型)には補助エンジンがあり、フロント側に小さいラジエータグリルもついていて、他の路線のものとちょっと顔が違います。

また、踏切を渡る時だけでなく、何かの拍子にポールが架線から外れることもあり、そのたびに車掌さんが車外に降りて直していました。

写真は以前「タイムスリップグリコ」のおまけについていた模型です。他の模型と組み合わせて撮影してみました。多少雰囲気は出てるかなと思います。

東京都内のトロリーバスは、残念ながら昭和43年に全部の路線が廃止されてしまいました。後から出てきた高性能のディーゼルバスに比較して効率が悪かったことが廃止の理由とされているようです。最初に敷設された101系統が昭和27年ですから、たかだか16年の短い命でした。

同じころ、都電も各地で廃止されていきましたが、都電のほうがもう少し後まで残った路線があったようです。それでも昭和47年には専用軌道部分の多かった荒川線を残してあとはすべて廃止になってしまいました。そのうち都電の思い出も書きましょう。


この写真は昭和27年開業当時のトロリーバスです。後に塗装は変更になりましたが、最初は薄いピンクと青のツートンカラーだったようです。撮影時期から考証して車体は50形、路線は101系統のはずです。50形は、もともと中国の天津市に輸出するために製造されたのですが、朝鮮戦争(中国義勇軍の参戦など)の影響で輸出ができなくなり、東京都が買い上げたという経緯があったようです。(写真出展:毎日新聞社「一億人の昭和史 6」より。なお、この写真は既に公表済である。)

日本では見かけなくなってしまったトロリーバスですが、中国など海外ではまだまだ現役です。二年ほど前に北京に行った時にも乗ってみました。車体に二本のツノが生えていて、ちょっと愛嬌のある乗り物ですよね。

2009年11月1日日曜日

「皇室の名宝」展と伊藤若冲

今回はやっと伊藤若冲(1716-1800)の話しですね。

「皇室の名宝」展の目玉展示のもう一つは伊藤若冲の「動植綵絵」30幅です

伊藤若冲は狩野派や円山派などの特定の派閥に属していたわけでもなく、表現も日本画の本流からずれていた部分があり、また当時の権力層と強固な関係を築いていた訳でも無く、比較的最近までは高い評価を得られていない画家でした。

若冲は京都の錦小路にあった枡源という青物問屋(奉公人が二千人ということなので、大変な大店ですね)の跡取りとして生まれ、40歳にして家督を弟に譲って隠居し、好きな画業に専念したということです。最初は狩野派に学んだということですが、当時流行していた本草学(西洋の博物学にも大きな影響を受けていました)に根ざした写実力と、中国の伝統絵画の技法と、前の世代にあたる尾形光琳(1658-1716)にも大きな影響を受けていたようです。江戸後期の画家、白井華陽の著した「画乗要略」という書物には若冲の作風を「模元明古蹟、兼用光琳之筆意」としています。

JJが最初に若冲の作品を見たのは、昭和59年に京都国立博物館で開催された特別展「近世日本の絵画 -京都画派の活躍-」という展覧会で、これはかなり衝撃的でした。もちろん、動植綵絵も展示されていましたが、他のユニークな作品たちや、同時代に京で活躍した画家たち、すなわち円山応挙(1733-1795)や、その弟子の長沢芦雪(1754-1799)、そして曽我蕭白(1730-1781)といった画家たちの奇想溢れる作品を目にすることができました。

それで「動植綵絵」ですが、この作品は若冲の代表作で、釈迦三尊像とともに臨済宗の名刹、相国寺に寄進した仏画です。隠居直後の1757-1766にかけて製作された30幅の作品は動物や植物達が色鮮やかに、精密に描かれており、若冲畢生の大作です。これらの生き物たちは人間と同じように仏に導かれる衆生で尊いものであることを描きたかったと言われています。

若冲は寄進した仏画によって相国寺に永代供養を望んでいたようで、実際に彼の墓の一つは同寺にあります。その後、明治になって廃仏毀釈の風潮や、幕府や大名から庇護を受けられなくなったことから、各地の名刹はその経営に窮し、伽藍の修理費にも事欠いたと言われています。相国寺も経済的に逼迫し、高名な作品であった動植綵絵を皇室に献上し、代わりに一万円を下賜されています。同じ時期に法隆寺も同様の状態に陥り、300点あまりの寺宝を皇室に献上し同じく一万円を下賜されています(明治11年)。法隆寺の寺宝は一部(かの有名な聖徳太子及び二王子像など)を除いて東京国立博物館の法隆寺宝物館で観覧することができます。

動植綵絵に先立って製作された「旭日鳳凰図」には「花鳥草虫にはそれぞれ霊があるのだから、我々はその真をよく認識して描き始めなければならない..」と書き込まれており、これが動植綵絵の製作にかかわる精神を良くあらわしていると思いますね。


動植綵絵で一番有名なのは、この群鶏図だと思います。13羽の色鮮やかな鶏が描かれていますね。

一羽づつ模様の異なる雄鶏を生き生きと見事に書き分けています。詳細・緻密でかつ濃密ですね。遠目に見ると、抽象的な模様まるでアラベスクのようにも見えます。

若冲は鶏が好きだったようで、この絵を含めて30幅中に8枚の鶏の絵を描いています。実際に手元で鶏を飼育して詳細に写生をしたものでしょう。ただ、ちょっと詰め込みすぎかなといった感もあります。

若冲は晩年に大阪西福寺の障壁画を依頼されたときも群鶏図(重要文化財)を描いており、こちらのほうは、多少間隔が空いて、すっきりしています。



また、動植綵絵の画題には他にも鳥が良く出てきます。鴛鴦、雀、孔雀、鸚鵡、鵞鳥、鶴、錦鶏、鳳凰、雁、そしてその他の小禽(小鳥)たち。

動植綵絵の中でJJが好きなのは、右側の一枚「蓮池遊魚図」です。蓮池を泳ぐ魚群で、1匹を除くと鮎のように見えます。鮎が池にいるのか?といった疑問はありますし、何となく動きが無いのが気になりますが、なかなか静謐で涼やかな一幅ですね。

若冲は動植綵絵で海の生き物も色々と描いていて、群魚図二幅などは、まるで魚類図鑑を見ているような精密な表現です。

先に述べたとおり、若冲はかなりな金持ちでありましたので、製作には時間をかけたのは言うまでも無く、画材は惜しげもなく高級なものを使用していたようです。描かれている素材は高級な画絹で、表の彩色を際立たせる為に裏彩色を施したりもしています。

また群魚図の鰹には、1704年にドイツで発見されたプルシアンブルーと呼ばれる当時は珍しい輸入品の顔料が使用されていることが最近の調査で判明しています。

若冲にはユーモラスな面もあり、動植綵絵でもこの池辺郡虫図には、たくさんの虫のほかに蛙やおたまじゃくしがたくさん描かれています。蛙がみんな同じ方向を向いているのは、なんか面白いですね。


若冲のユーモラスな面を伝える作品としては、今回の「皇室の名宝」出品作ではありませんが、「野菜涅槃図」というものがあります。

普通は涅槃図というのは釈迦入滅の様子を描いた仏画で、中央で安らかに横たわる釈迦の周りを弟子たちが取り囲んで悲しみを表現しているものです。

この「野菜涅槃図」(「果蔬涅槃図」とも言うようですね)は水墨で描かれており、中央の大根が釈迦、周りを囲んでいる人参、牛蒡、瓜、茄子などが菩薩や羅漢を表しています。

この画からは若冲がもともと青物問屋の主人だった出自が伺われます。

最後に非常に不思議な絵をご紹介しましょう。「鳥獣草花図屏風」という六曲一双の屏風絵です。遠目に見るとちょっと変わった感じの絵なのですが、近寄ってみるとすごく変わっていることに気付きます。画題は古今東西の生き物たちで、中には想像上の動物も含まれていますが、画を構成しているのが一辺1.2cmの正方形なのです。この正方形が片隻43,000個あるそうです(誰が数えたんだろう?)。従って、この画はモザイクのように見えるのです。異色の画家と言われた若冲の作品の中でも最も異色な作品かもしれません。この絵は舶来品の繊維製品(ゴブラン織りなど)の図柄に影響を受けたのではないかという説もあるようです。今は米国にあるので、めったに見られませんが、前出の1984年の展示でJJは見たことがあり、忘れられない一品です。


若冲は人物や風景ではなく、身近な動植物を愛情を持って描いた画家と言えるのではないかと思います。画自体もすばらしいのですが、動植物への慈しみという観点からも、JJにとっては大好きな画家ですね。

2009年10月31日土曜日

「皇室の名宝」展・第一期 永徳、若冲から大観、松園まで

先週の記事に書きましたが、件名展覧会に行ってきましたので、その感想を書きましょう。今年は、天皇陛下御即位20年記念ということで、東京国立博物館にて、「皇室の名宝」という展覧会が開催されています。

展覧会は二期に分かれており、下記の日程です。
1期:10月6日~11月3日
2期:11月12日~11月29日

1期の内容はタイトルどおりですが、2期のサブタイトルは「正倉院宝物と書・絵巻の名品」となっています。正倉院宝物は毎年秋に奈良国立博物館で正倉院展が開催されるのですが、東京では昭和56年以来かもしれませんね。昭和56年の正倉院展の時は大変な来場者で、入場券を買うのに並ぶ行列が博物館の裏手まで延びていました。(ちなみにJJは当時東京国立博物館友の会会員だったので、入場券を買わずに入場できてしまいました。)

わが国の皇室は明確に遡れる限りにおいても1400年程続いており、世界おいても類を見ない長い歴史を誇る王室です。この長い歴史において蒐集された美術品は膨大な数にのぼり、また明治以降諸侯や諸寺等から寄進された名品や、展覧会の優秀作品を皇室が買い上げたものも数多くあります。

終戦後、正倉院御物などをはじめとする皇室財産の多くが国有化される機会があり、また昭和天皇崩御後には、天皇家の私的な財産以外の多くの美術品が国有財産に移り、宮内庁管理となりました。宮内庁はこれらの美術品を保存、研究、公開するために三の丸尚蔵館という施設を皇居東御苑内に設立しました。(三の丸尚蔵館のWEBページはこちら

今回の「皇室の名宝」1期の展示はこの三の丸尚蔵館の収蔵品を中心に展示するものです。展示品には「国宝級」の作品が多数含まれていますが、宮内庁管理の文化財は文化財保護法の対象外のため、重要文化財にも国宝にも指定されていません。

今回の展示では数多くの優品が出品されていますが、やはり存在感というか一番印象の強かったのは、狩野永徳の唐獅子図屏風ですね。


これです、教科書で見たことがある人もいるでしょう。実物はとてもでかいです。幅が453.5cm、高さが223.6cmです。実物を前にすると「ど迫力」ですね。本当に狩野永徳の作品かという疑問もあるのですが、永徳の孫である狩野探幽が絵の右下に「狩野永徳法印筆」という紙中極を書いているし、また作風を見ても永徳作品とするに疑問の余地はないでしょう。狩野永徳(1543-1590)は信長そして秀吉に遣えた、戦国時代末期の天下人にふさわしい豪壮な絵画で有名な画家で、日本の絵画史上でももっとも有名な一人です。

金地の背景に堂々たる体躯の二匹の唐獅子が歩いている構図で、基本構成は平面的ではありますが、立体的に見える仕掛けがいくつか施されています。それがこの絵の迫力を増していると思います。二頭の唐獅子は、向かって左が雄で右が雌のようですね。獅子の表情、もりあがる筋肉の表現、足先、そして火炎が巻き上がるような逆巻く毛並みなど、どれ一つをとっても風格と気迫に満ち溢れていますね。獅子達が桃山期の天下人そのものを体現しているといってもいいでしょう。

この作品は長州藩主の毛利家に伝来したもので、明治21年に毛利元徳公から皇室に寄贈されました。なぜ毛利家に伝来したかというのは、言い伝えでは豊臣秀吉が毛利攻め(高松城水攻め)をしていた時に、この作品を陣屋屏風として使っていて、本能寺の変を聞いた秀吉が、京に取って返すいわゆる中国大返しを行う際、毛利家と和睦するために贈ったというものです。

しかし、実際には紙次ぎの不自然さなどから、本来は屏風ではなく、秀吉が天下人となった後、諸将との謁見の場としてしつらえた場所の壁を飾っていた壁画であると推定されています。もっと具体的に秀吉が築造した聚楽第の壁画だったのではないかという説もあるようです。だとすると、なぜ毛利家に伝来したかというのは謎になります。

唐獅子図屏風は六曲一双になっており、この作品に対して対を成す左隻の屏風があります。こちらは後世に狩野常信(狩野探幽の甥で、永楽の曾孫にあたります)が描いたもので、右を向いた獅子が一頭描かれています。左隻のほうは豪壮というよりは優美で、獅子の顔も柔和でかわいらしくかろやかで、ちょうど俵屋宗達の風神雷神のような感じです。右隻のほうが圧倒的に有名な作品で、両方同時に見る機会はそうそうないようですが、こうやって並べてみると、左右の組み合わせとしては悪くないですよ。無理やり自己主張せず挑戦もせず、先人の天才の作をうまく受けたなといった感じです。

藝術というものは時代精神を代弁するものということも言われますが、戦国時代終焉期の天下人の時代精神と、江戸幕府成立後国内に平和が戻ってきた江戸初期の時代精神と、一双を見比べることによって、まさにその対比を肌で感じられますね。

ええと、本当は今日は伊藤若冲のことを書きたかったのですが、長くなりましたので、ここまでとします。

2009年10月25日日曜日

国立新美術館と歩兵第三聯隊

芸術の秋という訳ではありませんが、このところ美術ネタが続いていますね。JJもちょっと藝術づいておりまして、昨日は上野の東京国立博物館で開催中の「皇室の名宝展」を見に行って、その後、六本木の国立新美術館の公募展(第63回二紀展)に行きました。後者のほうはお付き合いです。「皇室の名宝展」は普段展示されない作品、特に最近評価の上がってきた伊藤若冲の動植綵絵を見に行ったのですが、この件は後日書くとして、今日は国立新美術館の建物の由来を書きたいと思います。


国立新美術館は2007年の1月21日に開館した新しい美術館で、開放的で明るい建物は展示スペース14,000㎡を誇り、日本で一番大きい面積となっています。ここは美術館といっても、収蔵品は持たず、公募展と企画展のみに特化しています。

ここができてから、公募展は従来の東京都美術館(上野)からだいぶ引っ越してきました。ので、最近は東京都美術館(通称トビカン)に行く機会はめっきり減りました。トビカンは昭和50年に立て替えられました。戦前に立てられた以前の建物に比べるとだいぶ広くはなったのですが、それでも公募展の主催者側からは「狭い」との声が上がり、国立新美術館の建設につながったようです。

国立新美術館は、ガラス張りのファサードの内側は明るい吹き抜けの空間になっており、板張りの床もとても心地よいですね。気軽にお茶を飲めるカフェやレストラン、地下には充実したミュージアムショップもあります。吹き抜けの奥が展示室になっており、1階から3階まであります。また展示室の外側には、屋外展示スペースもあり、彫刻など重量物を展示できるようになっています。先ごろ亡くなった黒川紀章 氏の設計との事ですね。

この美術館は場所もいいので、休日に行くと老若男女多くの美術ファンで賑っています。日本における公募点のあり方や、箱物行政に対する批判など、色々あるでしょうが、これだけ来場者が集まってくるのであれば、人々の美術に関する関心を高めるという点では十分機能しているのではないかと思いますね。

ところで、地価も利用効率も高く空き地がほとんど存在しない都内において、何か新しい建築物を建てる場合は、埋立地を除くと必ず何かの跡地ということになります。この国立新美術館の立っている場所も、元は東京大学の物性研究所と生産技術研究所があった場所です。その前をたどれば、大日本帝国陸軍の歩兵第三聯隊の兵舎でした。

歩兵第三聯隊といえば、戦前は麻布の歩三(昔はこの辺一帯は総称として麻布と呼ばれていました。大東京35区でも麻布区でしたもんね。)とも呼ばれていましたが、第一師団の揮下で、昭和11年の二・二六事件の際には、多くの将兵がここから反乱軍として出動しました。もっとも下士官・兵のほとんどは将校の命令に従っただけで、何が何だかわからなかったのではなかったかと思います。


国立新美術館の吹き抜けには、歩兵第三聯隊時代の兵舎の模型が置かれています。同聯隊は明治3年に編成された歴史を持ち、兵舎のほうは関東大震災で損壊した煉瓦建築を、震災復興事業の一環として再建し、昭和3年に落成した我が国初の近代的鉄筋コンクリート作りの兵舎だったということで、社)日本建築学会からは当時の文化庁長官及び東大総長に対して保存を望む要望も出されました。

実は、JJの父親(とっくに亡くなりましたが)は昭和17年の1月に陸軍に召集されましたが、本籍地が東京府だったので、この歩兵第三聯隊で新兵としての訓練を受けました。生前この兵舎に関する話を聞いた覚えはありませんでしたが、何か縁を感じます。

残念ながら歩兵第三聯隊の建物は取り壊されてしまいました。まあ、もとが兵舎ですので、今風の美術館に改装ということも無理があったのでしょうね。代わりに兵舎の一部は敷地内に保存されています。建物の切り口の部分は壁で塞いで、別館として公開されているようです。

江戸時代までさかのぼると、この土地は伊予宇和島藩・伊達家(十万石)の藩邸だったようです。(仙台藩の伊達氏の分家にあたります)

ちなみに近くの東京ミッドタウンのある場所は、以前は防衛庁(市ヶ谷に移転)でしたが、その前は、帝国陸軍の歩兵第一聯隊でした。戦後米軍に接収されていた時期もありましたが、この辺は軍事施設が多かったようですね。こちらの方は江戸時代までさかのぼると長門萩藩(長州藩)・毛利家(36万9千石)の中屋敷及び下屋敷だったようです。隣接する檜町公園の日本庭園は当時の名残ですね。

ちなみに冒頭で言及しました「皇室の至宝展」での目玉展示の一つであった、狩野永徳の唐獅子図屏風は、毛利家の伝来品(秀吉が毛利家に贈ったと言われる)で、最後の藩主であった毛利元徳公から皇室に献上されたものだそうです。

なぜか話はグルっとつながってきましたね。

2009年10月24日土曜日

美術作品に見る猫-その2

日本の歴史史上、いくつかの大きな転換期がありました。最初は古事記に記された、ヤマトタケルの東征、続いて律令体制の成立、鎌倉幕府成立直前の武家の時代到来、徳川幕府成立、そして、明治維新です。(その後大東亜戦争の敗戦もありましたが...)

明治維新後、廃藩置県、秩禄処分など大きな改革が相次ぎ、士族反乱も経験しましたが、一方で、江戸の町も大きな変化を迎えました。参勤交代で江戸に来ていた地方の武士達は領地に戻り、旗本・御家人は離散(拝領屋敷は幕府から借りていたので出て行かざるを得なかったでしょう)し、面積の50%(69%という説もあります)を占める武家地が荒廃した江戸の町は火の消えたようになったといいます。大名や武家は零落し、また廃仏毀釈によって従来力を持っていた寺院も没落していきました。一方で、文明開化ということで文化的な面でも日本古来のものは否定され、西洋の文化がもてはやされました。浮世絵師や日本画家たちもパトロンを経済的にも文化的にも失って、さぞかし苦難の道を歩んだのではないかと思います。

ちょうど同じころ、日本から欧州に輸出された陶器や漆器などの包装紙に浮世絵版画が使われ、それを見た仏蘭西の画商や画家たちが東洋からもたらされた斬新な表現に目を丸くして、ジャポニズムのムーブメントが巻き起こるのはまったく皮肉なことですね。

明治期の日本画は大変な状況で始まったのですが、明治維新の混乱も収まると、アーネスト・フェノロサ(大森貝塚を発見したモースの紹介で来日したお雇い外国人)や岡倉天心らによって、旧来の日本美術に対する再評価が行われ、(本流ではないが)狩野派の末裔でもある狩野芳崖(明治維新以後相当困窮していたようです)が見出されました。

フェノロサが中心になって設立されたのが東京美術学校(現在の東京藝術大学)で、フェノロサの助手だった岡倉天心は美術学校の二代目の校長に就任します。岡倉天心のもとで学んだのが、美術学校の生徒であった、横山大観下村観山そして菱田春草の三人でした。彼らは岡倉天心の影響を受け、西洋画の手法に影響を受けた新しい日本画を生み出していくのです。彼らはその後日本画改革を唱えたため、美術学校を追われ、日本美術院を設立するのですが、菱田は明治44年に37歳で夭折してしまいます。

ちょっと前置きが長くなりましたが、日本の猫絵画史上最高傑作のうちの1枚は、菱田春草が亡くなる前年に描いた、「黒き猫」です。

左の写真にありますように、黒い猫が、柏の木に乗って、こちらを見ている構図です。まず、構図とバランスがすごくいいですね。木の幹、木の枝、木の葉の形とバランス。それら中間色の背景の中で、画面全体を引き締め緊張感をもたらす、黒い猫。猫の質感もふわりとしていて、よおく表現されています。ううむ、絵自体がすばらしいですね。とても1週間でやっつけた作品には見えませんね。

従来の日本画はものの形に必ず輪郭線というものがありました。これはちょうど現代の漫画のようなものですね。それに対して、日本画の改革を唱えた岡倉天心派は、輪郭線を用いない朦朧体と呼ばれる技法を使いました。黒いネコはあくまで黒いかたまりで、輪郭線は特にありませんね。

もう一つ重要なことは、日本画史上で、おそらく猫がはじめて中心的な画題として扱われた絵であるという点で、JJはこの絵を非常に重要なものと位置づけています。

ちなみにこの絵は、永青文庫が所蔵するもので、重要文化財の指定を受けています。永青文庫は旧熊本藩主の細川家の所蔵品を保管研究する機関で、8点の国宝を始め、重要文化財も多数所蔵しています。現在は、元首相の細川護熙氏が理事長を勤められています。

そして、もう一枚の最高傑作を書いたのは竹内栖鳳です。この人は、京都画壇で活躍した人で、前出の日本美術院系とは多少派閥が異なります。基本は保守的なのですが、彼自身は36歳のときに欧州を7ヶ月かけて旅行して、彼の地のスケッチを残したり、西洋絵画の表現・技法を研究し、それを自分の作品にも取り入れました。



彼が大正13年に描いたのが、この「班猫」です。竹内栖鳳は60歳になっていました。

この絵は猫の一瞬の動きを非常に正確に表現しています。まず、このしぐさは、直前まで自分の背中の毛づくろいをしていたんですね。それが、何かの物音に気づいて、背中をなめるのをやめて、こちらに視線を向けています。耳が後ろを向いているのは、猫が警戒しているときに見せるしぐさです。

また猫の質感の表現がすばらしいですし、翡翠色で澄んだ猫の眼差しに力がありますね。まるで猫の視線でこちらが射抜かれているようです。また全体の構図とバランスもすばらしく、非常に良く計算され、考え抜かれています。猫の対軸は画面中央でS字型を描き、それと交差するように、すらりと白く伸びた右前足と左上の落款が対角線を成していますね。

前出の「黒き猫」では猫は画面全体を構成する一つの要素に過ぎなかったのが、この絵では、あいまいな背景の中に猫だけしかないですね。まさに猫だけのための藝術作品ですね。作者は真剣に猫と対峙し、猫を描ききりたかったのでしょう。JJはこの作品を人類史上での猫絵画の最高傑作と考えています。

この作品を所蔵している山種美術館のWEBページにはこのような解説が載せてあります。

「モデルとなった猫は栖鳳が沼津に滞在していた時、偶然見つけた近所の八百屋のおかみさんの愛猫であった。その姿に中国南宋時代の徽宗皇帝の描いた猫を想起し、絵心がかき立てられたため、交渉して譲り受けて京都に連れ帰り、日夜、画室に自由に遊ばせながら丹念に観察して作品に仕上げたのであった。
タイトルの《班猫》は、栖鳳自身の箱書きに従っている。猫の体のまだら模様を意味する漢字は、今日普通には「班」ではなく「斑」を使うべきである。しかし「班」にも「まだら」の意味はあるため、箱書きに従い、当館では《班猫》としている。」

なんとも猫に対する愛情のあふれるエピソードですね。八百屋のおかみさんにはいい迷惑だったでしょうが、おかげでこのような傑作が生まれたので良しとしましょう。竹内栖鳳は昭和12年に第一回の文化勲章を受章し、上村松園をはじめとする多くの弟子を育てました。ちなみに、この作品も重要文化財に指定されています。

2009年10月18日日曜日

美術作品に見る猫

美術作品の題材として猫が登場することは、猫を神聖な存在として崇めた古代エジプトを除いて、近代まではあまりありませんでした。


それでも猫好きの芸術家はいるもので、ウィーン世紀末の分離派を代表する画家であるグスタフ・クリムトは大の猫好きだったようです。56年間の生涯を独身で通した(数多くのモデルの女性と関係を持った彼はホモセクシャルではなかったようですが..)彼は8匹の猫を飼っていたということです。この写真は晩年のクリムトですが、いとおしそうに猫を抱いている姿は、彼の猫に対する大いなる愛情を感じざるを得ません。クリムトは接吻など官能的で美しい作品をたくさん残していますが、残念ながら猫を画題にしたことは無かったようです。彼は1918年に当時流行していたスペイン風邪で亡くなりましたが、同じ年に彼の友人でもあるエゴン・シーレも28才にして同じ病で亡くなっています。インフル恐るべしですね。

それ以降も西洋では猫を画題にする例はあまり無いですね。アンリ・ルソーがライオンや黒豹を画面に登場させていますが、イエネコではないですね。あまり代表的な絵とはいえないと思いますし、JJも実物を見たことがありませんが、パブロ・ピカソが描いた、「ドラ・マールと猫」という絵画が、2006年5月4日にNYのサザビーズのオークションで9520万ドルで落札されたという記事がここに掲載されていますね。ピカソあたりだと、素描で猫くらい描いていてもよさそうですが、あまり思い浮かびませんね。


一方、わが国の絵画においては、古くは鳥獣戯画の一場面に猫が登場しています。鳥獣戯画では、ウサギを公家に、カエルを武家に見たてているそうですが、猫にはどんな寓意が込められているのでしょうか?烏帽子を被って、なにやらずるがしこそうな表情ですね。下級の役人か他人をだます商人といったところでしょうか?

その後しばらく猫の出てくる絵画は無くて、(犬は円山応挙とか伊藤若冲が描いていますし、虎なども画題としては出てきますが、イエネコは出てきません)いきなり飛んで近世まで来てしまいます。

江戸時代では、北斎漫画にも猫が登場しますが、猫の絵画といえば、なんといっても歌川国芳です。

歌川国芳は幕末の浮世絵師で、東海道五十三次絵で有名な歌川(安藤)広重とほぼ同年齢です。国芳は無類の猫好きだったようで、常に何匹かの猫を飼っていて、絵を描くときには懐に猫を抱いて(冬場のことだと思います。猫懐炉ですね。江戸時代は猫温石(ねこおんじゃく)といったようです)描いていたということです。またクリムトとは異なり、多くの猫を画題にした絵を残しています。猫を擬人化し寓意をこめたものや、猫を組み合わせて絵文字を作ったものなど多様な作風ですが、私が好きなのは、割と写実的なこの絵です。これは鼠よけのおまじないの絵で、上部の文言は「この絵は猫絵の名人一勇斎(国芳)の作なので、これを張っておけば家内に鼠は出てこない。」といったことが書いてあります。最後に福川堂記とありますので、版元の宣伝コピーだったかもしれませんね。

そして、ご一新を迎えて明治時代に突入します。いよいよ近代です。この後日本の猫絵画史上の最高傑作が2点登場します。

ちょっと長くなりましたので、続きは次回にいたします。

猫空はお茶の里

またまた猫ネタです。今月は猫月間ということにしましょう。

猫がつく地名はないかなぁ~?と考えていて、あんまり思いつかなかったので、ネットで検索してみました。調べたら結構あるんですね、このリンクに国内の猫がつく地名一覧が掲載されていますので、見てくださいね。JJの生活圏であります東京都や神奈川県にはありませんが、近くだと、千葉県浦安市の「猫実(ねこざね)」がありましたね。そうそう、忘れてましたがありましたね。昔は読み方が判らなくて、「ねこみ」かなぁと考えてました。

国内猫地名一覧で、面白いのは地域的な偏りがあることです。東北地方と愛知県には猫がつく地名が多いような気がします。ちなみに、JJの飼っている猫のブリーダーさんは愛知県だったのですが、何か関係がありますかね。また住所を良く見ると、愛知県といっても旧尾張ではなく、旧三河に偏っていますね。何か由来があるかもしれませんので後で調べてみましょうね。

でも、猫地名リストを見てると、想像力をかきたてられる地名がいっぱいありますね。「北猫狭間」なんていうのは、猫の軍団が甲冑を身にまとって合戦している情景を想像しちゃいます。また富山県の「猫又駅」なんて、深夜に降り立ったら妖怪に遭遇しちゃいそうですね。


<ちょっと出所不明ですがイメージ画像です>

タイトルにある「猫空」といのは、台湾にある地名です。台北の南郊の山間部にあり、ウーロン茶等のお茶の産地として有名です。JJは一度行ってみたいと思っていますが、なかなか行く機会がありません。台湾には良く出張するのですが、いつも観光の時間は取れていません。名前がかわいいという理由で、特にたいした観光資源が無いにもかかわらず、日本人観光客(特に女性客)に人気があるようです。

場所はこの辺です




「猫空」には茶芸館と呼ばれる店がたくさんあります。茶畑を見ながら喫茶したり食事したりできるようです。「猫空」には実際に猫がたくさんいるわけではないのですが、名前にちなんで日本式の猫カフェもあるようです(現地人情報です)。

「猫空」にはバスで行きます。山間部に入ると、日本で言うところの「自由乗降区間」になっていて、運転手に言うと好きなところで停車してくれるとガイドブックに書いてあります。

実は、2007年7月4日に麓の動物園から猫空までロープウエイ(猫空纜車)が台湾初の旅客輸送用ロープウエイとして開通しました。MRT木柵線(新交通システムみたいなものです。最近延長されて名前が変わったかもしれません。)の終点の動物園站(站は駅のことです)で接続しています。設備や車両はフランス製のものを導入したようですが、故障が多かったようです。その後開通から1年位経過した2008年9月末の台風で支柱の路盤が雨に流され、以来安全が確保できないという理由で運転が休止されています。最近台湾の人に確認しましたが、2009年10月現在まだ動いていないようですね。彼曰く「最近集中豪雨が来て、もっと状況は悪くなった」とのことです。この間の状況については、このリンクに詳しく掲載されています。

という状況なので、今でも猫空を訪問するには徒歩、バス、タクシーという状況になっています。

ちなみに「猫空」は中国語で「マオコン」と発音します。マオというのが「猫」のことです。ちなみに、猫の鳴き声もマオですね。泣き声を漢字で書くと実は専用の漢字があって「喵」と書きます。もともと、猫の漢字はむじなへん「豸」と泣き声をあらわす「苗」を組み合わせた会意文字です(別の説もあるようです。)。日本でも、猫のことを「にゃあにゃあ」とか「にゃんこ」(語尾の「こ」はちょっと違うと思いますが)と言うのと同じ感じがしますね。

猫空ロープウエイが復活したら是非乗ってみたいものですね。

2009年10月17日土曜日

指の多い猫 -ヘミングウエイと無の祈り-

猫ネタが続きますが、ごめんなさい。

ネコの指の数は、通常は前足に5本後足に4本ですが、指の多い猫も良く見られるそうです。ちなみにJJの飼っている猫は標準的な前5後4の指数です。



指の多い事を多指症と呼びますが、多指症の猫で有名なのは「ヘミングウエイの猫」です。

アーネスト・ヘミングウエイはノーベル文学賞受賞者で、「陽はまた昇る」、「誰がために鐘は鳴る」や「老人と海」などの名作で有名です。ヘミングウエイは大の猫好きだったようです。ある時、知り合いの船長から2匹の猫を譲り受け、これらの猫が多指症で、指が6本あったそうです。この多指症の猫を彼は幸福を呼ぶ猫だと信じてかわいがったそうです。

昔は航海中に鼠害から食料や積荷を守るために、猫を載せることが良くあったようです。日本へのイエネコの伝来は、遣唐使が積荷の書物等を守るために連れてきたと言われていました。ただし、壱岐市にある紀元前1世紀の弥生時代の遺跡(カラカミ遺跡)からイエネコの骨が発掘されていますので、遣唐使が連れてきたのが日本における最初の猫ではなかったのかもしれません。

で、船舶に乗せている内に近親交配が進み、多指症のネコが固定化されたのでしょうか。ヘミングウエイの猫は彼の自殺後も旧宅に住みつき、現在でもキー・ウエストにあるヘミングウエイの旧居(現在は博物館になっている)に直系の子孫50匹が暮らしており、子孫たちはすべて多指症だということです。

ヘミングウエイの猫については、ここに詳しいことが掲載されていますのでご参照ください。指の多い猫の写真も掲載されています。

ところで、もうずいぶんと昔の話ですが、大学時代に教養課程で英語の授業がありました。「語学」ということで、実用的な授業を期待したのですが、実際には「英文学」のような授業で、多少がっかりしたものでした。今考えると、その後も実用英語を学ぶ機会はたくさんありましたので、教養課程としては、それはそれでよかったのだと思っています。それで、S教授という米国文学の大家(おおやさんではありません)の先生の授業で、ヘミングウエイの短編集を読みました。

BIG TWO-HEARTED RIVERという作品は、作者の分身のようなNickという人物が、渓流で釣りをする話で、いまいち退屈でした。この小説はPart IとPart IIがあるのですが、それぞれの本編の直前にイタリック体で印刷された血なまぐさい情景(闘牛士の死とか、刑務所での絞首刑の状況)が挿入されていて、その後に平和で退屈な本編が続く構成が対比的で面白いと思いましたね。まあ、対比に関しては色んな解釈があるとは思いますが、ここでは省きます。

その一方、短編集で特に印象に残ったのが、A CLEAN, WELL-LIGHTED PLACEでしたね。これは、たった5ページくらいの小品です。リンク先に全文掲載されているので、よかったら、読んでみてください。

場所は長らくキューバだと思っていましたが、今考えるとたぶんスペインですね。で、深夜のカフェでブランデーを飲む耳の悪い老人とそれを眺めて時々給仕をする、二人のウエイターの会話が、その主な内容です。老人は経済的には恵まれており、若い姪と暮らしているのですが、前週に自殺を企てていて、若い方のウエイターは老人に対し批判的、年配の方は同情的です。自殺の理由を二人が話すのですが、「nothing」だろうということになります。理由が無いというよりは、「無」あるいは「虚無」が原因ということです。

この小説も色々な解釈があると思いますが、全編に漂う虚無感、闇と光の対比、若と老との対比、そして虚無や老いへの恐れ、といった要素が見て取れます。とくに極めつけは、「無の祈り」という部分です。老人も若いウエイターも去り、年配のウエイターがカフェを閉めて出て行った後、彼の頭の中で反芻されます。

これはキリスト教で使われる「主の祈り」(天にまします、我らの父よ..)のもじりで、こんな感じです。「nada」はスペイン語で無のことです。

"It was all nothing, and a man was nothing, too...Some lived in it and never felt it but he knew it was nada y pues nada y pues nada. Our nada who art in nada nada be thy name thy kingdom nada they will be nada in nada as it is in nada. Give us this nada our daily nada and nada us our nada as we nada our nadas and nada us not into nada but deliver us from nada; pues nada. Hail nothing full of nothing, nothing is with thee..."

この小説が発表されたのが1926年で、彼はまだ26,7才くらいだったと思いますが、若くしてこういった感性を持っていたことは驚嘆に値します。もともと気鬱症だったのでしょうか、あるいは、戦線への参加が彼を虚無的にしたのか。まあ、彼が持っていた、こういった感覚が、初老期での自殺につながっていったのかな、という風にも思っていたりします。

(ちなみにJJが授業を受けたS教授はまだ健在で、現在は日本藝術院会員だそうです。評論家・翻訳家の方が芸術院会員というのは何となく違和感を感じるのですが、あまり深く考えないことにしましょう。)

2009年10月11日日曜日

イヌ派 vs. ネコ派 (旧文部省はネコ派だったのか?)

JJは生き物の世話をするのが好きで、猫の他にも色んな生き物を飼っています。また、今までも色んな生き物を飼ってきました。猫の他にJJの家にどんな生き物が生息しているのか、追ってこのブログでご紹介しましょう。

まあ、色んな生き物があって、色んなペットがいますけど、やはり、ペット中でも双璧はイヌとネコになりますね。どちらも古くから人類のペット(あるいは家畜)として飼育されてきて、両方とも人類になつき、かわいいですね。




JJはネコ派ではありますが、イヌも飼ったことがあって、嫌いじゃないですよ。イヌは人間に良くなつくのでかわいいですよね。家人が帰宅すると、もう喜んで、シッポを振りまくりで、後足立ちになって、前足を人の腰位置に飛びついて、もうかわいいですね。Man's best friend と言われる所以は確かにあると思います。

子供のころ飼っていたイヌ(たぶん日本スピッツの雑種だと思います)は耳がすごく良くて、家の自家用車が最寄の信号まで(50mくらい先になります)来ると、車の姿は見えなくても、もうエンジンの音で聞き分けて、そわそわしながらシッポを振ってくるくる回っていたものです。

それにひきかえ、現在の我が家の猫なんて、家に帰ってきても廊下にちょっと顔を出して、「帰ってきたか、ふんっ。」っていう感じです。でも、イヌのちょっと痛いほどのなつきように比べると、猫のそんなクールなツンデレ感がネコ派にはたまらないですね。

どうも、イヌ派には外向的Out Door派の方が多く、ネコ派には内向的In Door派の方が多いようにも感じます。接点はあまりないのですが、お互いを尊重したいですね。

BTW (By the way のことですよん。)生物学には分類学というジャンルがあります。これは18世紀の博物学の時代に、(今上天皇陛下も高くご評価されている)リンネ先生が大成した学問で、生き物をその類似性に応じて近縁関係に沿って分類するものです。しかし、いささか古臭い感じはありますね。大学の湿って暗い廊下の木製の戸棚に並んでいるホルマリン漬け標本のガラス瓶と黴臭いにおいを連想しちゃいます。ところが、近年になって、分子生物学の進展により、DNA解析によって遺伝子レベルで種の近縁関係が解明されるにしたがって、従来の見識が覆されるようなこともあり、分類学が再び脚光を浴びているようですよ。

ところで、ネコは分類学的には以下のようになります。

動物界・脊索動物門・脊椎動物亜門・顎口上綱 ・哺乳綱・獣亜綱・北方真獣類 ・ローラシア獣上目 ・ネコ目(食肉目) ・ネコ亜目 Feliformia・ネコ科 Felidae・ネコ属 Felis・ヤマネコ種 F. silvestris・イエネコ亜種 F. s. catusまたは F. s. domesticus

ふうっ、長いですね。JJの専門分野でもありませんので、途中何か抜けてるかもしれませんが。抜けてたらごめんなさい。

それで、上のほうの枕詞はどうでもいいんですが、ネコ目以下に注目してください。

最新の分子生物学を活用した分類法ではネコ目(なんか「ねこめ」みたいですね)の下には、ネコ亜目とイヌ亜目があり、イヌやイタチ、クマ、アシカ、アザラシなどはイヌ亜目のほうに属しております。

イヌ類とネコ類を統括する「目」は「食肉目」ともいいますが、同時にネコ目とも言います。食肉目は学名でCarnivoraといいますので、直訳するとどう考えても食肉目が正しくて、なんでネコ目なのかちょっと不思議です。

この件に関しては教えてgooの記事がありますので参考にしてください。この回答を転載しますと、「食肉目(Carnivora)をネコ目と言い換えるようになったのは、1988年文部省の「学術用語集動物学編」において、目以下の名称をすべてそれぞれの動物群を代表する動物名に変える、という改定がなされたためです。」確かにリンクの学術用語集動物学編で検索すると、「ネコ目(食肉目)」と書かれています。

それじゃあ、イヌ科とネコ科とどちらが種類が多いかというと、イヌ科:14属34種に対してネコ科:6属36種ということだそうです。

すると食肉目を代表する動物名として「ネコ」が選ばれる必然性はあまりなくて、選んだ方の好みだったのか、用語選定委員の投票か何かで決まったのか、経緯はわかりませんが、とにかく、「食肉目=ネコ目」を決めた方はネコ派だったのではなかったかと推測します。いやぁ、ネコ派の先人たちの功績に感謝したいですね。

ちなみに、最近ではイヌ派の巻き返しもあり、「食肉目(ネコ目)」とネコを括弧のなかに押しやろうとする動きもあるようです。なんとかネコ派には今一度がんばって欲しいですね。

2009年10月3日土曜日

猫は凶暴か? -(副題)猫の漢字と二種類のけものへん-

ネコは漢字で「猫」と書きますが、台湾に行くと繁体字中国語で「貓」と書きます。イヌは漢字で「犬」ですが、中国では「狗」、台湾の繁体字中国語でも「狗」と書きます。

イヌに関していえば、昔は中国でも大型のイヌを「犬」、小型のものを「狗」と区別して表現していたようですが、現代の中国語ではどちらも「狗」になっています。日本ではこの漢字はイヌには使わず、「天狗」とか「走狗」くらいにしか使いませんよね。(羊頭狗肉という言葉はありますが)

ここで不思議に思うのが、「猫」の繁体字の場合「けものへん」が「豸」になっているのに、イヌの方は「狗」の「けものへん」が繁体字でも「犭」のままである点です。

先日、漢字に詳しい中国人(実は意外と少ないのですが)をつかまえて、漢字の話をした時に、けものへんについても尋ねてみたのですが、この人いわく、「けものへんにはもともと二種類あって、イヌのけものへんと、ネコのけものへんは違うんですよ。」とのことでした。

で調査してみますと、普通のけものへん「犭」は確かにイヌから来ているようですね。リンクのほうに詳しい解説が掲載されています。この解説によると、「犭」はイヌを横から見た様子を表しているそうです。

一方で、ネコのほうのけものへん「豸」は正しくは「むじなへん」と呼ばれるそうです。このへんはネコやトラが口をモグモグさせながら背を伸ばして獲物の様子をのぞいている様子を表した表形文字です。ここを見ると絵が出ています。こっちの方は単に動物を横に見た形ではなく、「口を開けて獲物に襲いかかろうとしている」動物を横から見た様子を表しているということになります。漢字には本字、正字、俗字、略字、異体字、簡体字、日本の新字体などいろんな書き方があり、「猫」や「狸」などに見られるように現代では本来の「豸」が「犭」に移行している例も多いのですが、「豹」だけは今でも「むじなへん」のままですね。

「豸」の意味としては、単なる獣ではなく、鋭い爪をもっていたり攻撃性が高い獰猛な様子を表すようです。ちなみに「豸」の「むじなへん」をつかう漢字としては、下記のようなものがあります。

  「豹」:ヒョウ
  「貂」:テン
  「貉」:ムジナ
  「貓」:ネコ
  「貍」:タヌキ

と、言ったところです。ちなみに貍は現代のタヌキではなく、人家近くに生息する中型の哺乳類全般を指していたとの事です。ムジナ(ムジナというのはアナグマ、タヌキ、ハクビシンなどを混同して指している言葉のようです)が獰猛なのかどうかは判りませんが、古代中国の漢字を考えた人たちの区分では、ネコはイヌを始めとする一般の動物ではなく、猛獣のくくりに入るということになります。

と、いうことで、猫はやはり凶暴なのかな?といった感じはします。

今日はすこし理屈っぽくなっちゃいましたね。次回はもう少し読みやすい記事にしましょう。

2009年10月2日金曜日

凶暴な猫

JJは猫が好きです。子供のころから今まで、海外に住んでた時期を除いてほとんどの期間を猫と暮らしていました。昔は大体野良猫を拾って飼うか、家に餌をもらいにきている内に、いついてしまうような、なし崩し的な飼い方が多かったのですが、今飼っているのは、れっきとした血統書つきのアメリカンショートヘアで、JJがはじめてお金を出して買ってきた猫です。


<我が家の猫(凶暴な猫ではありません)>

ペットショップで買ってきた猫というのは非常に良いもので、とにかく生後二ヶ月くらいから飼い始めるので、人間に良くなつきます(時々自分が人間だと同じだと思っているんじゃないかと思わせるそぶりがあります。)。また、野良猫時代に人間にいじめられたりといった負の記憶が無いためか、屈託がなく、明るいですね。この写真は若かりし頃のものですが、もう7歳で現在は中年猫になってしまいました。最近の写真はこの記事の最後にありますので、比較してみてください。

で、ここからが、凶暴な猫の話です。

昔、一緒に働いていたFさんという人がいました。この人は、仕事熱心で責任感の強い人で、JJは大好きでしたが、残念ながら、何年か前に鬼籍に入られました。いい人は長生きできないものですね。JJよりもずっと年上だったのですが、亡くなった時はまだ65歳くらいだったと思います。

Fさんはどちらの手か忘れましたが、人差し指の先が少し色が違って(ちょっと薄い)いました。ある時、思い切ってFさんにそのことについて尋ねてみたのですが...彼の人差し指には、実は驚くべき事実が隠されていたのです。

注意!注意!注意!
=ここから先は心臓の弱い方は読まないでください=

Fさんは、相模原市のほうの戸建てに住んでいました。自宅の横にはカーポートです。きれいに洗車してワックスをかけると、近所の野良猫が泥だらけの足でボンネットの上を飛び回ります。Fさんは堪忍袋の緒が切れて、野良猫を懲らしめてやろうてんで、捕まえたまでは良かったが、野良猫のほうも必死で、いきなり逆襲に出て、Fさんの人差し指の先を噛み千切って逃げてったそうです。

痛みをこらえて病院にいくと、医師は人差し指の先を胸に縫い付けて、「このまま1ヶ月我慢してください。」との事でした。なかなか不便ですよね。人体の位相幾何学が変わること1ヶ月我慢して、病院にいくと、アイスクリームを掬い取る道具のようなので、胸の肉ごと抉り取って.....といった事があったそうです。

注意!注意!注意!
=ここまで心臓の弱い方は読まないでください=

JJもよく猫と戯れていて、引っかかれたり噛みつかれたりすることがあります。真剣に痛くて、出血することもあるんですが、猫が本気で噛むと人間の指が噛み切れるくらいの力があるんですね。ということは、じゃれてる時の噛み方は、だいぶ手加減した甘噛みだったって事なんですね。

と、いうことで、今日は凶暴な猫の話でした。


<今朝の我が家の猫(凶暴な猫ではありません)>