2013年7月7日日曜日

ご先祖様の話・加賀鳶

私の家は大した家系ではないのですが、母方は江戸っ子で、江戸時代から江戸に住んでおりました。で、ご先祖様は何をやっていたかというと、火消しです。

17世紀の末には世界でも数少ない100万都市に成長した江戸の町は、一部の土蔵を除いて、ほとんど木造建築ばかりでしたので、火事になったらひとたまりもありません。1657年の明暦の大火(いわゆる振袖火事)をはじめ、江戸の町の大半を焼き尽くすような大火には何度も見舞われました。

 そこで、消防組織ということですが、当時は消防といっても、手押しポンプ(竜吐水)による放水はあったものの、焼け石にすぎず、基本は類焼を防ぐために火災の周辺の建物を手荒く破壊するのがせいぜいでした。

当初は大名に消防組織を作らせた「大名火消し」次に明暦の大火後に旗本を使って組織させた「定火消し」 。そして町奉行大岡忠助が町民に組織させた(1718年)「町火消し」が組織されました。町火消は隅田川の西側でいろは四十七組(のち四十八組)、東側の深川にも十六組ができて、総勢1万人ともいわれる消防組織は幕末まで活躍しました。

 で、ご先祖様は何をやっていたかというと、加賀鳶です。これは金沢藩(加賀百万石)のお抱え消防隊のようなもので、大名火消し(各自火消し)の一つです。金沢藩上屋敷(今の東京大学)周辺の武家地が守備範囲だったようです。下の錦絵は加賀鳶を描いたもので、明治になって歌舞伎に取り上げられた舞台を描いたものだと思われます。なかなかかっこいいですね。

私の曽祖父(巳之助といったそうです)が幕末に加賀鳶だったのですが、明治維新で殿様が金沢に帰ってしまい、加賀鳶も解散となり、殿様から退職金的なものを下賜されて、湯島天神の門前で酒屋を始めたそうです。今ではその酒屋はありません。もともと商人ではなかったので、うまくいかなかったのではないかと思います。

で、時代は下り、明治19年になって、この加賀鳶を描いた歌舞伎が上演されます。「盲長屋梅加賀鳶」(めくらながやうめのかがとび)というお芝居で、紛れもなく喧嘩っ早い加賀鳶をモデルにしたものです。ストーリーなどはこちらのリンクが詳しいですね。この芝居には加賀鳶の若造で巳之助という人物が登場します。これがご先祖様の巳之助をモデルにしたものではないかと、昨日叔父がのたもうておりました。巳之助さんが亡くなったのが明治14年。河竹黙阿弥が芝居を書いたのがその数年後ですから、執筆にあたって元リアル加賀鳶になんらかの取材があったとしてもおかしくありませんね。

実は昨日法事がありまして、 巳之助さんも埋葬されている谷中の寺に詣でました。これも何かの供養かと思い、ここに書き記します。








2013年6月22日土曜日

US-2の活躍~辛坊治郎氏救出の巻

ニュースキャスターの辛坊治郎氏と全盲のヨットマン岩本光弘氏は、6月16日にヨットで福島県の小名浜港を出港、米国西海岸サンディエゴを目指していましたが、台風4号による大時化の中、ヨットに浸水し、救助要請がされました。救助要請は21日朝、事務所を通じてのことだそうです。

現場は宮城・金華山の東南東約1200キロの太平洋上。 2人は通報直後にヨットを放棄し、救命ボートに移乗。海上自衛隊の救難飛行艇が相次いで出動し、2機目が午後6時15分ごろ、現場海域で2人を救助、神奈川県の海自厚木基地へ向かいました。


当初は23日に巡視船が到着という予定でしたが、どうも海上自衛隊が出動、前回のブログに書いた最新鋭の救難飛行艇US-2が出動し、救助に当たったおかげで漂流の11時間で済み、スピーディーな救助が行われたようです。

 救助後の記者会見の映像(リンク先消されるかもしれませんがUS-2の勇姿も映っています)。いつも「生意気」なコメントを投げかける辛坊氏もさすがに殊勝な言葉で感謝を表していました。いままで、こういった場面に対し、「自己責任」「税金の無駄」のような上から目線のコメントを繰り返していた氏の価値観はこの事件を機に大きく変わることと思われます。

それにしても3~4メートルの荒波に着水し、救助活動を成し遂げたUS-2の威力は素晴らしいですね。 日本は海洋国家で領海と排他的経済水域を合わせた面積は4,479,358 km²で世界でも第6位です。US-2はもっと増備してもよいかもしれませんね。



<本日(6月21日)の経過>


 7時35分  宮城県沖合1200キロ海上(北緯32度58分、東経152度49分)のエオラス号辛坊氏から
   「右舷から浸水している」と事務局に電話連絡。同時にポンプで排水作業を試みる。
 7時41分  事務局から海上保安庁に救助要請。
 8時01分  辛坊氏から電話「ポンプでの排水が追い付かない。船体放棄しかない。2人は大丈夫。」
   2人がエオラス号から脱出し、ライフラフト(救命ボート)に避難。
 8時40分  第二管区海上保安本部から海上自衛隊厚木基地に災害派遣要請。
 9時50分  辛坊氏と事務局が電話で連絡「北緯32度58分、東経152度49分。
   波の高さは2~3m。2人はけががなく元気。」
11時44分  海上保安庁航空機(LAJ500)が現場海域に到着し、ライフラフトを発見し交信。2人の無事を確認。
12時30分  海上自衛隊航空機(US2)が救助のため厚木基地を出発。
14時すぎ  US2が現場に到着。海上着水を試みる。
15時  US2は海上模様から着水が困難なため厚木基地へ引き返す。
   気象状況は南西の風約15m/秒、波の高さ約4m
   海上自衛隊の別のUS2が厚木基地から現場に向け出発。
17時53分  US2が現場に到着し海上着水。
18時14分  2人を救出し、US2機内に収容
22時31分  辛坊治郎氏、岩本光弘氏を乗せた海上自衛隊の航空機(US2)が厚木基地に到着しました。


2013年3月24日日曜日

飛行艇

今朝ネットを見ていたら、海上自衛隊の飛行艇がインドに売却されるというニュースを見つけました。

海自飛行艇 印へ輸出 中国牽制、政府手続き着手 - MSN産経ニュース sankei.jp.msn.com/politics/news/

日本は武器輸出三原則によって、武器は原則輸出できないのですが、特定の装備を外すことで、可能とするようです。まあ、武器輸出三原則を順守することで防衛費も割高になっていたのですが、海外に販路を求めることで、メーカーも開発費の回収が進みますので、多少助かることでしょう。また、三菱航空機のMRJやホンダジェットなど、近頃話題に上る完成機の輸出の嚆矢となるかもしれません。

私は飛行機関係も詳しくはないのですが、結構好きで、このニュースの特に「飛行艇」という部分に惹かれてしまいますね。

Wikipediaの飛行艇の項目にはその定義として「飛行艇(ひこうてい、英語:flying boat)とは、水面発着出来る機体のうち、胴体部分が水面に接するように設計された飛行機である。日本工業規格(JIS)では「水上にあるとき、主に艇体によってその重量を支持する水上機」と定義される。この点で「フロートによってその重量を支持する」フロート水上機と区別される(JISW0106 航空用語(航空機一般))。」と記されています。

いまではすっかりニッチな機種になってしまった飛行艇ですが、戦前は、大型旅客機といえば飛行艇だった時代がありました。どうも当時のエンジンの信頼性が低く、緊急時にはどこでも着水できる飛行艇が重宝された背景があるようです。ランディングギアの技術が未熟で、大型機をスムーズに離着陸させられなかった事情もあるようです。

戦前はチャイナ・クリッパーとも呼ばれたマーチン M130がパンアメリカン航空によって太平洋便として運行され、サンフランシスコからマニラまで、またその先香港やシンガポールまで足を延ばしていたようです。

戦前から、戦中にかけての日本の航空産業は世界でも(トップとは言えないが)上位レベルのものがあり、 中でも、飛行艇に関しては、名機と呼ばれるものがありました。それは川西航空機が設計・製造していた97式飛行艇、及び、その改良型である、二式飛行艇(二式大艇とも呼ばれる)です。どうも帝国海軍は川西航空機を飛行艇の専門メーカーとして意識的に育成したようですね。

川西で開発を引っ張っていた技術者が菊原静男で、彼はのちに紫電や紫電改の設計にも携わっていたようです。

二式飛行艇

97式飛行艇や二式飛行艇は民間転用されて旅客機としても使われました。今では忘れ去られていますが、戦前から終戦直後にかけて、横浜の根岸に水上飛行場が存在し、そこから当時日本領であったサイパンさらにパラオまで定期便が就航していました。


さて、戦後になって、日本の航空産業を極度に警戒したGHQは航空機の開発製造はおろか、日本の空には模型飛行機すら飛ばすことができない時代が続きました。多くの航空機技術者は民間技術に転出し、重工業、自動車工業、鉄道などの分野で高度経済成長を支えていきました。

二式大艇を作った川西航空機も戦後は新明和工業と名称を変えて生き残り図りました。その後、日本でも航空機の開発ができるようになり、戦後初の飛行艇を新明和工業で開発することになりました。こうして生まれたのが、海上自衛隊の対潜哨戒機PS-1であり、初飛行は1967年のことでした。当然のことながら、前述の菊原静男も設計に携わっています。

PS-1の後継として開発されたのが水陸両用多用途機US-1(のちUS-1A)で、その改良版が今回インドへの売却準備中のUS-2なのです。

ながながと書きましたが、US-2が戦前の名機二式大艇 の直接の末裔ではないにしろ、何か深い縁でつながっているのですね。