2010年8月24日火曜日

虫ききの会@向島百花園

ブログの次の記事は向島百花園と決めていたのですが、記事を書く前に一件行事が来てしまいましたので、ご紹介いたします。

催し:   虫ききの会
期間:   8月26日(木)~8月29日(日)
開園時間:9:00-21:00(最終入場は20:30)


期間中は園内に鈴虫、松虫、くつわむしなどが放され、風流な庭園を巡りながら虫の声を楽しむことができます。

詳細は下記URLをご参照ください。

http://www.tokyo-park.or.jp/park/format/info032.html#1

向島百花園の住所:


〒131-0032

東京都墨田区東向島3丁目18−3
03-3611-8705

東武伊勢崎線東向島駅、または京成曳舟駅が最寄りです。


大きな地図で見る

2010年8月22日日曜日

江戸の面影-2・浅草

江戸の面影シリーズ第二回は浅草です。

JJの生まれ育ったのは東京都墨田区です。それも、浅草から見ると「川向こう」と呼ばれた向島地区ですね。 浅草はすぐ近くだったので、子供の頃は良く出かけました。母親の買い物はちょっとしたものは浅草の松屋デパートだったので、ここの屋上遊園では良く遊んだものです(母親の買い物中に)。今から思えばおおらかな時代でした。また、浅草寺周辺も色んな思い出があります。四季おりおり色々な行事がありますのでね。

 浅草は 江戸の名刹「金龍山浅草寺」の門前町として栄えて来ました。浅草寺の歴史は非常に古く、寺の縁起によれば、以下のようです。

「時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈(ぎょろう)中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得(かんとく)した。郷司(ごうじ)土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依(きえ)し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝(らいはい)供養に生涯を捧げた。」

二人の漁師と郷司の三名は後世に神として祭られ今では浅草神社(三社様)の祭神になっています。二人の漁師が観音様の像を引き上げたのはいかにも超自然的な話ではありますが、その100年ほど前にこんな話もあるようです。

「浅草寺創建より100年程前に、埼玉県飯能市岩淵にある岩井堂観音に安置されていた観音像が大雨によって増水した成木川に堂ごと流され、行方不明になったという伝承が残されており、この観音像が成木川から入間川荒川を経由して隅田川に流れ着いたと伝承されている。下流にて尊像発見の報を聞いた人々が返還を求めたが、かなわなかったという伝承も残っている。」

浅草寺の本坊である伝法院には裏の古墳から掘り出してきた石棺が保管されていたりするようですので、いずれにせよ古代から人の住む場所だったのは間違いなさそうです。

創建後、10世紀には立派な伽藍が整ったそうで、鎌倉時代に鶴岡八幡宮を建設した際には浅草の宮大工を招いた故事が「吾妻鏡」に記載されているそうです。家康が入府する以前にはたいしたものが無かった江戸ですが、浅草はそれよりもずっと歴史が古いということになりますね。その後、徳川家康は浅草寺を祈願所と定め寺領500石をあたえ保護したとのことです。また徳川家光公の援助により慶安元年(1648年)に五重塔、同2年(1649年)に本堂が再建されました。

宝蔵門(仁王門)
 江戸時代を通して浅草寺は観音霊場として人々の信仰を集めました。 仲見世ができ、奥山には見世物が出、幕末には芝居小屋が集まってきます。江戸時代の庶民にとって、お参りは宗教行事であると同時に、重要な娯楽であり、大義名分を以って大手を振って出かけることのできる行楽だったのです。そういうことで、浅草は観光地として大変賑わい、それは戦前まで続きました。

一方で、七堂伽藍の方は関東大震災でも生き残り、慶安年間再建の本堂や五重塔など戦前の旧国宝に指定されていました。しかし、東京大空襲では、残念ながらその大部分が消失してしまいました。それでも、伝法院や浅草神社、二天門など400年近く昔の建物が部分的に残っています。現在までに雷門、本堂、宝蔵門、五重塔などは鉄筋コンクリートで再建されています。

 現在の本堂は昭和33年(1958年)に再建されたコンクリート作りのものです。慶安期の設計に従って再現されたそうです。今年になって改修工事がなされ、屋根瓦が軽量で丈夫なチタン製のものに葺き替えられました。ところで、以前は宝蔵門の前後に卍の大看板がありましたがいつの間にかなくなってますね。某国からの抗議でしょうか?
幕末頃の本堂前
本堂の隣に浅草神社があります。ここは先に述べたように、縁起につながる観音像を見つけてお祀りした三名を祀ったものです。
浅草神社の社殿は徳川家光公の寄進により慶安2年(1649年)に完成したもので、江戸の大火や関東大震災や戦災を潜り抜け、昭和36年に重要文化財に指定されています。
 浅草神社の鳥居の脇には二天門があります。これも非常に古いもので、元和4年(1618)浅草寺境内に造営された「東照宮」の「随身門(ずいじんもん)」として建立されました。その後1642年に東照宮は火災で焼失してしまいましたが、随身門は二天門と名前を変え、現在に伝わっています。今年4月に大修理が完了して、現在は朱塗りの綺麗な姿を見せています。扁額は三条実美公の筆によるものです。
 浅草寺の本坊である伝法院には安永6年(1777)建築の客殿・玄関や明治4年(1871)築の大書院、浅草寺貫首(かんす)大僧正のお居間などがあります。約3,700坪の庭園は、寛永年間(1624~44)小堀遠州(こぼりえんしゅう)により作庭されたと伝えられる「廻遊式庭園」でありますが、現在は両方とも非公開で、門のみを仲見世側から望むことができます。
その他にも境内には歴史のある小堂などが立ち並んでおり、江戸の面影を今に伝えています。

先に述べたように浅草は戦前まで大変にぎわっていたのですが、その後一時期寂れた時がありました。ちょうどJJが子供時代のことです。その後の観光ブームや歴史ブーム、さらには近年の外国人観光客の急増、そして、地元商店街の魅力ある観光地作りも寄与して、現在は相当の賑わいを復活させています。

浅草寺周辺には江戸の情緒を伝えるようなお店や飲食店が仲見世をはじめとしてたくさん立ち並んでおり、それがまた観光地としての浅草に魅力を添えています。

浅草松屋北面の壁

JJの子供の頃はデパートいえば、浅草松屋でした。数々の思い出を残す松屋も今年5月に大幅縮小を発表し、屋上プレイランドも閉鎖されてしまいました。松 屋の建物は東武伊勢崎線の浅草延伸にともない、浅草駅駅舎と一体型として建設されました。そのご大幅に改修されたので、往時の面影は無いのですが、この北側の壁面あたりはオリジナルの外観のはずです。

ところで松屋のロゴは昔は鶴丸だったのですが、現在はスマートなローマ字になっています。そこで、一箇所だけ鶴丸のロゴの残っている看板を見つけたので、写真を撮ってきました。これは銀座線浅草駅から新仲見世に伸びる地下街の一角で、デパートへの出入り口のある場所の天井から下がっています。ご覧の通りかなりのレトロを感じますね。

最後の写真は地下鉄銀座線から新仲見世に抜ける地下街の写真です。地下鉄の開通が昭和2年、松屋の完成が昭和6年なので、いづれにしても日本で一番古い地下街ではないかと思います。とはいっても、現在では(実は昔から)かなりうらぶれた感じではあります。



 まあ、数々の苦難を乗り越えてきた浅草ですが、東京スカイツリーという新たな観光資源も手中にし、これからも庶民や海外からの観光客が楽しめる観光地として末永く発展してくれることを、元地元民として切に望みます。

ところで、浅草から上野にかけての下谷地区に寺院がたくさんある件については、いつか記事を書きますので、少々お待ちください。

次回、江戸の面影シリーズは、いよいよ向島百花園です。

ご参考
浅草寺公式ホームページ
Wikipedia浅草寺の記事
浅草神社公式ホームページ

2010年8月12日木曜日

江戸の面影・芝増上寺

しばらくブログをサボっていましたが、江戸の面影というテーマで、取材も取り混ぜてすこし記事を書きましょう。前回芝の増上寺を取り上げましたが、 今回はもう少し細かく書いてみましょう。
 増上寺は正式には三縁山広度院増上寺といいまして、浄土宗のお寺です。室町時代(明徳四年(1393年))に千代田区紀尾井町のあたりに建立されたそうです。その後、徳川家康が江戸入府後、徳川家の菩提寺として幕府の庇護を受け、現在の地に移転しました。15代徳川将軍の内6人の墓所が増上寺に建立されています。(家康公と家光公は日光、慶喜公は谷中墓地、他の将軍たちはもう一つの菩提寺である寛永時に墓所があります)位置的には寛永寺(天台宗)が江戸城の鬼門を守るのに対し、増上寺は 裏鬼門を守る位置になります。家康公は当時の住職存応(ぞんのう)上人に深く帰依し、増上寺で葬儀を行うように言い残して元和二年に亡くなったそうです。

江戸時代の増上寺は幕府の庇護もあり、たいそう発展したようです。現在に残る三解脱門(元和8年(1622年)建造・上の写真)をはじめとする大伽藍の隣接地には歴代将軍の霊廟を従え、門前には数多くの別院や僧坊がありました。 以下増上寺ホームページからの転載です。

「全国の浄土宗の宗務を統べる総録所が置かれたのをはじめ、関東十八壇林(だんりん)の筆頭、主座をつとめるなど、京都にある浄土宗祖山・知恩院に並ぶ位置 を占めました。 壇林とは僧侶養成のための修行および学問所で、当時の増上寺には、常時三千人もの修行僧がいたといわれています。 寺所有の領地(寺領)は一万余石。二十五万坪の境内には、坊中寺院四十八、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」とうたわれています。 」
写真は台徳院(二代将軍秀忠公)霊廟の惣門だったものです。台徳院霊廟の他の遺構で焼け残ったものは、埼玉県所沢市の狭山山不動寺(西武ドーム前)に移築されているそうです。


ところが明治維新以後、増上寺は苦難の時期を迎えます。上野戦争(戊辰の役)で甚大な被害を受けた寛永時に比べればまだましだったものの、江戸幕府の庇護がなくなり、廃仏毀釈の波に洗われ、また徳川家の菩提寺であったことから、明治政府からもずいぶんな嫌がらせ(一万人の官軍が一時駐屯したとか、上納金を要求されたりとか、広大な境内を政府用地に召し上げられそうになったりとか..)を受けたようです。 また、明治6年と42年の火事で堂宇を失ったことも大きな痛手でした。その後、芝公園の指定により、境内も半減したようです。

ただ、この時点までは6大将軍の壮麗な霊廟は残されており、戦前は旧国宝に指定されていました。これらの霊廟は日光東照宮に匹敵するものだったということですが、残念ながら米軍の空襲でほとんど破壊されてしまいました。その跡地には東京プリンスホテルなどが建設されています。

明治時代に撮影された有章院(徳川家継)霊廟の写真(出展:平凡社「鹿鳴館秘蔵写真帖」より。)がありましたのでアップします。モノクロではありますが、その壮麗さは伝わってくると思います。空襲前には、この規模のものが6箇所+α(夫人の分などもあるので)存在していました。徳川家霊廟群は前述の通り日光東照宮にも匹敵する文化遺産で、今に残されていれば間違いなく世界遺産に指定されていたものと言われています。

さて、ということで、ここから江戸の面影をたどる記事になります。まずは江戸時代の増上寺を見てみましょう。

当時の様子は切り絵図でみるとこんな感じです。松原のあたりが現在の日比谷通りですね。大門から三解脱門に至る間に別院や学寮がたくさんあるのが良くわかります。

次が現代(一寸古いですが)の増上寺周辺の地図になります。残念ながら、境内が極端に減っています。地図にはありませんが本堂の裏手に東京タワーがあり、建設時には増上寺の墓地を提供したそうです。ただ、注意深く見ると、大門と三解脱門の間にお寺の記号がたくさん残っていますね。これらは昔の別院の流れを組むものと思われます。

たぶん幕末の写真だと思いますが、三解脱門のほうから大門を写した写真があります。

 突き当たりの門が大門ですね。通りの両側は増上寺の別院だと思います。同じ場所を最近JJが撮影したのが、下の写真です。
 さすがに150年も経つと周辺の景色は大分変化しますね。写真奥にかろうじて見える大門は昭和12年にコンクリートで再建されたものです。こうやって見ると江戸の面影はなさそうですが、実はビルの合間には**院という寺院が隠れています。
 残っている寺院もほとんど鉄筋コンクリートになってしまいましたが、一軒だけ三解脱門に一番近い寺院が往時の姿を留めています。 二つ前の幕末ごろの写真と比べてみてください。まさに幕末の写真に写っている塀と門であることがお分かりでしょう。こういった築地塀は増上寺の側にも残っています。

ところで、浜松町という町は大門から増上寺側は寺社領で、海側(貿易センタービルあたりから海側)は大名屋敷でしたが、現在の第一京浜(国道15号線)すなわち旧東海道沿いは町民地でした。徳川家康はここに漁師などを連れてきて 住まわしたようです。なんでも二代目の名主が浜松の人だったので、浜松町という町名になったとか。

江戸の町にはお稲荷さんがあちこちにありました。地口に「江戸に多きもの、伊勢や稲荷に犬のくそ」というのがあるくらいです。有力な商人が自邸の庭に設けることもあったようです。以前見たNHKの番組で、そのことが取り上げられていたのを思い出い出しました。お稲荷さんのような祠は勝手に祀ることはできず、総本社の伏見稲荷から分祀を受ける必要があります。江戸時代には分祀が非常に簡単に受けられる制度が発達し、一種の通信販売のような形態で江戸中に広まったようです。
ここは、会社の近くにあるお稲荷さんですが、比較的大規模なものですね。屋敷の中にあったものは建物の立替でも破壊することはできず、ビルの合間にひっそりと残っていたり、あるいはビルの屋上に祀られていたりと、結構生き残っているようです。
この写真は墨田区のほうですが、屋敷がなくなってもお社だけは塀に囲まれて残っていたりします。これも江戸の面影ですね。お稲荷さんについては、またそのうち記事を書くことにして今日はこれまで。

増上寺のホームページはこちら
増上寺のWikipedia記事はこちら

2010年8月8日日曜日

江戸の面影

江戸が東京と名を変えてから今年で142年。子供のころの大東京祭で明治100年のパレードを見てからでも既に40年以上経ってしまいました。この間、明治政府による都市開発や、関東大震災による被災、そして東京大空襲と何度も被害をこうむった東京には、江戸の面影がほとんど残っていません。江戸期の建物も非常に少なく、都心部で残っている所は、浅草寺周辺、上野公園周辺(旧寛永寺)、江戸城周辺、芝増上寺周辺、池上本門寺周辺といったところでしょうか。

 写真は都心に残る最古級の建築物である、芝増上寺の三解脱門です。元和8年(西暦1622年)建造です。

JJの母方は江戸っ子でありまして、江戸時代には湯島天神の門前で酒屋を営んでいたそうです。門前といっても、どっち側かよくわかりませんが、たぶん黒門町の側だと思います。湯島天神は町人地と武家地の境に位置しており、江戸時代には諸藩(金沢藩とか)の江戸詰めの下級侍やら下級御家人やら(身分の高い武士は自分で買い物なんて行きませんので)、もちろん長屋住まいの熊さん八っつぁんに至るまで、貧乏徳利を提げて酒を買いに来たのではないかと思うと、想像が膨らみます。

東京には江戸期の建物こそほとんど残っていませんが、江戸の面影は、行事や人々の生活の中に 色濃く残されています。江戸時代から、明治、大正、昭和、平成と時代は流れて行きましたが、文化や人々の生活やものの考え方は江戸を連綿と引き継いでいるのです。

江戸の風俗などは、江戸期の優れた画家によって絵画として伝えられてはいますが、やはり、情報量は写真にはかないません。幕末にはわが国にも写真術が伝えられ、長崎の上野彦馬や横浜の下岡蓮杖の写真館は幕末には既に開業していました。

こういった人たちは、最初は外国人や国内の開明派要人などを撮影していましたが、外国人のエキゾチックなお土産として、日本の風景や、風俗などを撮影するようになり、近年になってそういった幕末・明治を写した写真が数々「発掘」されています。

そのなかでももっとも有名なのが、モース・コレクションで、大森貝塚を発見したお雇い外国人のモースが帰任時に米国に持ち帰った膨大な写真が存在します。そのほかにも色々なコレクションがあり、中には明らかな演出写真もあるのですが、どれも当時の人々の息遣いまで聞こえて来そうな、貴重な歴史資料です。

最近、ここのサイトに江戸・明治の写真がアップされているのに気がつき、 いとおしく眺めました。もしも興味があればぜひともご覧ください。

2010年8月1日日曜日

ブログさぼりちう

このところTwitterにかまけてブログの更新をサボり続け中です。読者の方申し訳ありません。ちょっと、仕事のほうもドタバタ(いつもそうですが)していたこともありました。7月は一度も更新しないうちに8月になってしまいました。近々更新しますので少々お待ちくださいませ。