2010年8月22日日曜日

江戸の面影-2・浅草

江戸の面影シリーズ第二回は浅草です。

JJの生まれ育ったのは東京都墨田区です。それも、浅草から見ると「川向こう」と呼ばれた向島地区ですね。 浅草はすぐ近くだったので、子供の頃は良く出かけました。母親の買い物はちょっとしたものは浅草の松屋デパートだったので、ここの屋上遊園では良く遊んだものです(母親の買い物中に)。今から思えばおおらかな時代でした。また、浅草寺周辺も色んな思い出があります。四季おりおり色々な行事がありますのでね。

 浅草は 江戸の名刹「金龍山浅草寺」の門前町として栄えて来ました。浅草寺の歴史は非常に古く、寺の縁起によれば、以下のようです。

「時は飛鳥時代、推古天皇36年(628)3月18日の早朝、檜前浜成・竹成(ひのくまのはまなり・たけなり)の兄弟が江戸浦(隅田川)に漁撈(ぎょろう)中、はからずも一躰の観音さまのご尊像を感得(かんとく)した。郷司(ごうじ)土師中知(はじのなかとも:名前には諸説あり)はこれを拝し、聖観世音菩薩さまであることを知り深く帰依(きえ)し、その後出家し、自宅を改めて寺となし、礼拝(らいはい)供養に生涯を捧げた。」

二人の漁師と郷司の三名は後世に神として祭られ今では浅草神社(三社様)の祭神になっています。二人の漁師が観音様の像を引き上げたのはいかにも超自然的な話ではありますが、その100年ほど前にこんな話もあるようです。

「浅草寺創建より100年程前に、埼玉県飯能市岩淵にある岩井堂観音に安置されていた観音像が大雨によって増水した成木川に堂ごと流され、行方不明になったという伝承が残されており、この観音像が成木川から入間川荒川を経由して隅田川に流れ着いたと伝承されている。下流にて尊像発見の報を聞いた人々が返還を求めたが、かなわなかったという伝承も残っている。」

浅草寺の本坊である伝法院には裏の古墳から掘り出してきた石棺が保管されていたりするようですので、いずれにせよ古代から人の住む場所だったのは間違いなさそうです。

創建後、10世紀には立派な伽藍が整ったそうで、鎌倉時代に鶴岡八幡宮を建設した際には浅草の宮大工を招いた故事が「吾妻鏡」に記載されているそうです。家康が入府する以前にはたいしたものが無かった江戸ですが、浅草はそれよりもずっと歴史が古いということになりますね。その後、徳川家康は浅草寺を祈願所と定め寺領500石をあたえ保護したとのことです。また徳川家光公の援助により慶安元年(1648年)に五重塔、同2年(1649年)に本堂が再建されました。

宝蔵門(仁王門)
 江戸時代を通して浅草寺は観音霊場として人々の信仰を集めました。 仲見世ができ、奥山には見世物が出、幕末には芝居小屋が集まってきます。江戸時代の庶民にとって、お参りは宗教行事であると同時に、重要な娯楽であり、大義名分を以って大手を振って出かけることのできる行楽だったのです。そういうことで、浅草は観光地として大変賑わい、それは戦前まで続きました。

一方で、七堂伽藍の方は関東大震災でも生き残り、慶安年間再建の本堂や五重塔など戦前の旧国宝に指定されていました。しかし、東京大空襲では、残念ながらその大部分が消失してしまいました。それでも、伝法院や浅草神社、二天門など400年近く昔の建物が部分的に残っています。現在までに雷門、本堂、宝蔵門、五重塔などは鉄筋コンクリートで再建されています。

 現在の本堂は昭和33年(1958年)に再建されたコンクリート作りのものです。慶安期の設計に従って再現されたそうです。今年になって改修工事がなされ、屋根瓦が軽量で丈夫なチタン製のものに葺き替えられました。ところで、以前は宝蔵門の前後に卍の大看板がありましたがいつの間にかなくなってますね。某国からの抗議でしょうか?
幕末頃の本堂前
本堂の隣に浅草神社があります。ここは先に述べたように、縁起につながる観音像を見つけてお祀りした三名を祀ったものです。
浅草神社の社殿は徳川家光公の寄進により慶安2年(1649年)に完成したもので、江戸の大火や関東大震災や戦災を潜り抜け、昭和36年に重要文化財に指定されています。
 浅草神社の鳥居の脇には二天門があります。これも非常に古いもので、元和4年(1618)浅草寺境内に造営された「東照宮」の「随身門(ずいじんもん)」として建立されました。その後1642年に東照宮は火災で焼失してしまいましたが、随身門は二天門と名前を変え、現在に伝わっています。今年4月に大修理が完了して、現在は朱塗りの綺麗な姿を見せています。扁額は三条実美公の筆によるものです。
 浅草寺の本坊である伝法院には安永6年(1777)建築の客殿・玄関や明治4年(1871)築の大書院、浅草寺貫首(かんす)大僧正のお居間などがあります。約3,700坪の庭園は、寛永年間(1624~44)小堀遠州(こぼりえんしゅう)により作庭されたと伝えられる「廻遊式庭園」でありますが、現在は両方とも非公開で、門のみを仲見世側から望むことができます。
その他にも境内には歴史のある小堂などが立ち並んでおり、江戸の面影を今に伝えています。

先に述べたように浅草は戦前まで大変にぎわっていたのですが、その後一時期寂れた時がありました。ちょうどJJが子供時代のことです。その後の観光ブームや歴史ブーム、さらには近年の外国人観光客の急増、そして、地元商店街の魅力ある観光地作りも寄与して、現在は相当の賑わいを復活させています。

浅草寺周辺には江戸の情緒を伝えるようなお店や飲食店が仲見世をはじめとしてたくさん立ち並んでおり、それがまた観光地としての浅草に魅力を添えています。

浅草松屋北面の壁

JJの子供の頃はデパートいえば、浅草松屋でした。数々の思い出を残す松屋も今年5月に大幅縮小を発表し、屋上プレイランドも閉鎖されてしまいました。松 屋の建物は東武伊勢崎線の浅草延伸にともない、浅草駅駅舎と一体型として建設されました。そのご大幅に改修されたので、往時の面影は無いのですが、この北側の壁面あたりはオリジナルの外観のはずです。

ところで松屋のロゴは昔は鶴丸だったのですが、現在はスマートなローマ字になっています。そこで、一箇所だけ鶴丸のロゴの残っている看板を見つけたので、写真を撮ってきました。これは銀座線浅草駅から新仲見世に伸びる地下街の一角で、デパートへの出入り口のある場所の天井から下がっています。ご覧の通りかなりのレトロを感じますね。

最後の写真は地下鉄銀座線から新仲見世に抜ける地下街の写真です。地下鉄の開通が昭和2年、松屋の完成が昭和6年なので、いづれにしても日本で一番古い地下街ではないかと思います。とはいっても、現在では(実は昔から)かなりうらぶれた感じではあります。



 まあ、数々の苦難を乗り越えてきた浅草ですが、東京スカイツリーという新たな観光資源も手中にし、これからも庶民や海外からの観光客が楽しめる観光地として末永く発展してくれることを、元地元民として切に望みます。

ところで、浅草から上野にかけての下谷地区に寺院がたくさんある件については、いつか記事を書きますので、少々お待ちください。

次回、江戸の面影シリーズは、いよいよ向島百花園です。

ご参考
浅草寺公式ホームページ
Wikipedia浅草寺の記事
浅草神社公式ホームページ

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