2009年10月31日土曜日

「皇室の名宝」展・第一期 永徳、若冲から大観、松園まで

先週の記事に書きましたが、件名展覧会に行ってきましたので、その感想を書きましょう。今年は、天皇陛下御即位20年記念ということで、東京国立博物館にて、「皇室の名宝」という展覧会が開催されています。

展覧会は二期に分かれており、下記の日程です。
1期:10月6日~11月3日
2期:11月12日~11月29日

1期の内容はタイトルどおりですが、2期のサブタイトルは「正倉院宝物と書・絵巻の名品」となっています。正倉院宝物は毎年秋に奈良国立博物館で正倉院展が開催されるのですが、東京では昭和56年以来かもしれませんね。昭和56年の正倉院展の時は大変な来場者で、入場券を買うのに並ぶ行列が博物館の裏手まで延びていました。(ちなみにJJは当時東京国立博物館友の会会員だったので、入場券を買わずに入場できてしまいました。)

わが国の皇室は明確に遡れる限りにおいても1400年程続いており、世界おいても類を見ない長い歴史を誇る王室です。この長い歴史において蒐集された美術品は膨大な数にのぼり、また明治以降諸侯や諸寺等から寄進された名品や、展覧会の優秀作品を皇室が買い上げたものも数多くあります。

終戦後、正倉院御物などをはじめとする皇室財産の多くが国有化される機会があり、また昭和天皇崩御後には、天皇家の私的な財産以外の多くの美術品が国有財産に移り、宮内庁管理となりました。宮内庁はこれらの美術品を保存、研究、公開するために三の丸尚蔵館という施設を皇居東御苑内に設立しました。(三の丸尚蔵館のWEBページはこちら

今回の「皇室の名宝」1期の展示はこの三の丸尚蔵館の収蔵品を中心に展示するものです。展示品には「国宝級」の作品が多数含まれていますが、宮内庁管理の文化財は文化財保護法の対象外のため、重要文化財にも国宝にも指定されていません。

今回の展示では数多くの優品が出品されていますが、やはり存在感というか一番印象の強かったのは、狩野永徳の唐獅子図屏風ですね。


これです、教科書で見たことがある人もいるでしょう。実物はとてもでかいです。幅が453.5cm、高さが223.6cmです。実物を前にすると「ど迫力」ですね。本当に狩野永徳の作品かという疑問もあるのですが、永徳の孫である狩野探幽が絵の右下に「狩野永徳法印筆」という紙中極を書いているし、また作風を見ても永徳作品とするに疑問の余地はないでしょう。狩野永徳(1543-1590)は信長そして秀吉に遣えた、戦国時代末期の天下人にふさわしい豪壮な絵画で有名な画家で、日本の絵画史上でももっとも有名な一人です。

金地の背景に堂々たる体躯の二匹の唐獅子が歩いている構図で、基本構成は平面的ではありますが、立体的に見える仕掛けがいくつか施されています。それがこの絵の迫力を増していると思います。二頭の唐獅子は、向かって左が雄で右が雌のようですね。獅子の表情、もりあがる筋肉の表現、足先、そして火炎が巻き上がるような逆巻く毛並みなど、どれ一つをとっても風格と気迫に満ち溢れていますね。獅子達が桃山期の天下人そのものを体現しているといってもいいでしょう。

この作品は長州藩主の毛利家に伝来したもので、明治21年に毛利元徳公から皇室に寄贈されました。なぜ毛利家に伝来したかというのは、言い伝えでは豊臣秀吉が毛利攻め(高松城水攻め)をしていた時に、この作品を陣屋屏風として使っていて、本能寺の変を聞いた秀吉が、京に取って返すいわゆる中国大返しを行う際、毛利家と和睦するために贈ったというものです。

しかし、実際には紙次ぎの不自然さなどから、本来は屏風ではなく、秀吉が天下人となった後、諸将との謁見の場としてしつらえた場所の壁を飾っていた壁画であると推定されています。もっと具体的に秀吉が築造した聚楽第の壁画だったのではないかという説もあるようです。だとすると、なぜ毛利家に伝来したかというのは謎になります。

唐獅子図屏風は六曲一双になっており、この作品に対して対を成す左隻の屏風があります。こちらは後世に狩野常信(狩野探幽の甥で、永楽の曾孫にあたります)が描いたもので、右を向いた獅子が一頭描かれています。左隻のほうは豪壮というよりは優美で、獅子の顔も柔和でかわいらしくかろやかで、ちょうど俵屋宗達の風神雷神のような感じです。右隻のほうが圧倒的に有名な作品で、両方同時に見る機会はそうそうないようですが、こうやって並べてみると、左右の組み合わせとしては悪くないですよ。無理やり自己主張せず挑戦もせず、先人の天才の作をうまく受けたなといった感じです。

藝術というものは時代精神を代弁するものということも言われますが、戦国時代終焉期の天下人の時代精神と、江戸幕府成立後国内に平和が戻ってきた江戸初期の時代精神と、一双を見比べることによって、まさにその対比を肌で感じられますね。

ええと、本当は今日は伊藤若冲のことを書きたかったのですが、長くなりましたので、ここまでとします。

2009年10月25日日曜日

国立新美術館と歩兵第三聯隊

芸術の秋という訳ではありませんが、このところ美術ネタが続いていますね。JJもちょっと藝術づいておりまして、昨日は上野の東京国立博物館で開催中の「皇室の名宝展」を見に行って、その後、六本木の国立新美術館の公募展(第63回二紀展)に行きました。後者のほうはお付き合いです。「皇室の名宝展」は普段展示されない作品、特に最近評価の上がってきた伊藤若冲の動植綵絵を見に行ったのですが、この件は後日書くとして、今日は国立新美術館の建物の由来を書きたいと思います。


国立新美術館は2007年の1月21日に開館した新しい美術館で、開放的で明るい建物は展示スペース14,000㎡を誇り、日本で一番大きい面積となっています。ここは美術館といっても、収蔵品は持たず、公募展と企画展のみに特化しています。

ここができてから、公募展は従来の東京都美術館(上野)からだいぶ引っ越してきました。ので、最近は東京都美術館(通称トビカン)に行く機会はめっきり減りました。トビカンは昭和50年に立て替えられました。戦前に立てられた以前の建物に比べるとだいぶ広くはなったのですが、それでも公募展の主催者側からは「狭い」との声が上がり、国立新美術館の建設につながったようです。

国立新美術館は、ガラス張りのファサードの内側は明るい吹き抜けの空間になっており、板張りの床もとても心地よいですね。気軽にお茶を飲めるカフェやレストラン、地下には充実したミュージアムショップもあります。吹き抜けの奥が展示室になっており、1階から3階まであります。また展示室の外側には、屋外展示スペースもあり、彫刻など重量物を展示できるようになっています。先ごろ亡くなった黒川紀章 氏の設計との事ですね。

この美術館は場所もいいので、休日に行くと老若男女多くの美術ファンで賑っています。日本における公募点のあり方や、箱物行政に対する批判など、色々あるでしょうが、これだけ来場者が集まってくるのであれば、人々の美術に関する関心を高めるという点では十分機能しているのではないかと思いますね。

ところで、地価も利用効率も高く空き地がほとんど存在しない都内において、何か新しい建築物を建てる場合は、埋立地を除くと必ず何かの跡地ということになります。この国立新美術館の立っている場所も、元は東京大学の物性研究所と生産技術研究所があった場所です。その前をたどれば、大日本帝国陸軍の歩兵第三聯隊の兵舎でした。

歩兵第三聯隊といえば、戦前は麻布の歩三(昔はこの辺一帯は総称として麻布と呼ばれていました。大東京35区でも麻布区でしたもんね。)とも呼ばれていましたが、第一師団の揮下で、昭和11年の二・二六事件の際には、多くの将兵がここから反乱軍として出動しました。もっとも下士官・兵のほとんどは将校の命令に従っただけで、何が何だかわからなかったのではなかったかと思います。


国立新美術館の吹き抜けには、歩兵第三聯隊時代の兵舎の模型が置かれています。同聯隊は明治3年に編成された歴史を持ち、兵舎のほうは関東大震災で損壊した煉瓦建築を、震災復興事業の一環として再建し、昭和3年に落成した我が国初の近代的鉄筋コンクリート作りの兵舎だったということで、社)日本建築学会からは当時の文化庁長官及び東大総長に対して保存を望む要望も出されました。

実は、JJの父親(とっくに亡くなりましたが)は昭和17年の1月に陸軍に召集されましたが、本籍地が東京府だったので、この歩兵第三聯隊で新兵としての訓練を受けました。生前この兵舎に関する話を聞いた覚えはありませんでしたが、何か縁を感じます。

残念ながら歩兵第三聯隊の建物は取り壊されてしまいました。まあ、もとが兵舎ですので、今風の美術館に改装ということも無理があったのでしょうね。代わりに兵舎の一部は敷地内に保存されています。建物の切り口の部分は壁で塞いで、別館として公開されているようです。

江戸時代までさかのぼると、この土地は伊予宇和島藩・伊達家(十万石)の藩邸だったようです。(仙台藩の伊達氏の分家にあたります)

ちなみに近くの東京ミッドタウンのある場所は、以前は防衛庁(市ヶ谷に移転)でしたが、その前は、帝国陸軍の歩兵第一聯隊でした。戦後米軍に接収されていた時期もありましたが、この辺は軍事施設が多かったようですね。こちらの方は江戸時代までさかのぼると長門萩藩(長州藩)・毛利家(36万9千石)の中屋敷及び下屋敷だったようです。隣接する檜町公園の日本庭園は当時の名残ですね。

ちなみに冒頭で言及しました「皇室の至宝展」での目玉展示の一つであった、狩野永徳の唐獅子図屏風は、毛利家の伝来品(秀吉が毛利家に贈ったと言われる)で、最後の藩主であった毛利元徳公から皇室に献上されたものだそうです。

なぜか話はグルっとつながってきましたね。

2009年10月24日土曜日

美術作品に見る猫-その2

日本の歴史史上、いくつかの大きな転換期がありました。最初は古事記に記された、ヤマトタケルの東征、続いて律令体制の成立、鎌倉幕府成立直前の武家の時代到来、徳川幕府成立、そして、明治維新です。(その後大東亜戦争の敗戦もありましたが...)

明治維新後、廃藩置県、秩禄処分など大きな改革が相次ぎ、士族反乱も経験しましたが、一方で、江戸の町も大きな変化を迎えました。参勤交代で江戸に来ていた地方の武士達は領地に戻り、旗本・御家人は離散(拝領屋敷は幕府から借りていたので出て行かざるを得なかったでしょう)し、面積の50%(69%という説もあります)を占める武家地が荒廃した江戸の町は火の消えたようになったといいます。大名や武家は零落し、また廃仏毀釈によって従来力を持っていた寺院も没落していきました。一方で、文明開化ということで文化的な面でも日本古来のものは否定され、西洋の文化がもてはやされました。浮世絵師や日本画家たちもパトロンを経済的にも文化的にも失って、さぞかし苦難の道を歩んだのではないかと思います。

ちょうど同じころ、日本から欧州に輸出された陶器や漆器などの包装紙に浮世絵版画が使われ、それを見た仏蘭西の画商や画家たちが東洋からもたらされた斬新な表現に目を丸くして、ジャポニズムのムーブメントが巻き起こるのはまったく皮肉なことですね。

明治期の日本画は大変な状況で始まったのですが、明治維新の混乱も収まると、アーネスト・フェノロサ(大森貝塚を発見したモースの紹介で来日したお雇い外国人)や岡倉天心らによって、旧来の日本美術に対する再評価が行われ、(本流ではないが)狩野派の末裔でもある狩野芳崖(明治維新以後相当困窮していたようです)が見出されました。

フェノロサが中心になって設立されたのが東京美術学校(現在の東京藝術大学)で、フェノロサの助手だった岡倉天心は美術学校の二代目の校長に就任します。岡倉天心のもとで学んだのが、美術学校の生徒であった、横山大観下村観山そして菱田春草の三人でした。彼らは岡倉天心の影響を受け、西洋画の手法に影響を受けた新しい日本画を生み出していくのです。彼らはその後日本画改革を唱えたため、美術学校を追われ、日本美術院を設立するのですが、菱田は明治44年に37歳で夭折してしまいます。

ちょっと前置きが長くなりましたが、日本の猫絵画史上最高傑作のうちの1枚は、菱田春草が亡くなる前年に描いた、「黒き猫」です。

左の写真にありますように、黒い猫が、柏の木に乗って、こちらを見ている構図です。まず、構図とバランスがすごくいいですね。木の幹、木の枝、木の葉の形とバランス。それら中間色の背景の中で、画面全体を引き締め緊張感をもたらす、黒い猫。猫の質感もふわりとしていて、よおく表現されています。ううむ、絵自体がすばらしいですね。とても1週間でやっつけた作品には見えませんね。

従来の日本画はものの形に必ず輪郭線というものがありました。これはちょうど現代の漫画のようなものですね。それに対して、日本画の改革を唱えた岡倉天心派は、輪郭線を用いない朦朧体と呼ばれる技法を使いました。黒いネコはあくまで黒いかたまりで、輪郭線は特にありませんね。

もう一つ重要なことは、日本画史上で、おそらく猫がはじめて中心的な画題として扱われた絵であるという点で、JJはこの絵を非常に重要なものと位置づけています。

ちなみにこの絵は、永青文庫が所蔵するもので、重要文化財の指定を受けています。永青文庫は旧熊本藩主の細川家の所蔵品を保管研究する機関で、8点の国宝を始め、重要文化財も多数所蔵しています。現在は、元首相の細川護熙氏が理事長を勤められています。

そして、もう一枚の最高傑作を書いたのは竹内栖鳳です。この人は、京都画壇で活躍した人で、前出の日本美術院系とは多少派閥が異なります。基本は保守的なのですが、彼自身は36歳のときに欧州を7ヶ月かけて旅行して、彼の地のスケッチを残したり、西洋絵画の表現・技法を研究し、それを自分の作品にも取り入れました。



彼が大正13年に描いたのが、この「班猫」です。竹内栖鳳は60歳になっていました。

この絵は猫の一瞬の動きを非常に正確に表現しています。まず、このしぐさは、直前まで自分の背中の毛づくろいをしていたんですね。それが、何かの物音に気づいて、背中をなめるのをやめて、こちらに視線を向けています。耳が後ろを向いているのは、猫が警戒しているときに見せるしぐさです。

また猫の質感の表現がすばらしいですし、翡翠色で澄んだ猫の眼差しに力がありますね。まるで猫の視線でこちらが射抜かれているようです。また全体の構図とバランスもすばらしく、非常に良く計算され、考え抜かれています。猫の対軸は画面中央でS字型を描き、それと交差するように、すらりと白く伸びた右前足と左上の落款が対角線を成していますね。

前出の「黒き猫」では猫は画面全体を構成する一つの要素に過ぎなかったのが、この絵では、あいまいな背景の中に猫だけしかないですね。まさに猫だけのための藝術作品ですね。作者は真剣に猫と対峙し、猫を描ききりたかったのでしょう。JJはこの作品を人類史上での猫絵画の最高傑作と考えています。

この作品を所蔵している山種美術館のWEBページにはこのような解説が載せてあります。

「モデルとなった猫は栖鳳が沼津に滞在していた時、偶然見つけた近所の八百屋のおかみさんの愛猫であった。その姿に中国南宋時代の徽宗皇帝の描いた猫を想起し、絵心がかき立てられたため、交渉して譲り受けて京都に連れ帰り、日夜、画室に自由に遊ばせながら丹念に観察して作品に仕上げたのであった。
タイトルの《班猫》は、栖鳳自身の箱書きに従っている。猫の体のまだら模様を意味する漢字は、今日普通には「班」ではなく「斑」を使うべきである。しかし「班」にも「まだら」の意味はあるため、箱書きに従い、当館では《班猫》としている。」

なんとも猫に対する愛情のあふれるエピソードですね。八百屋のおかみさんにはいい迷惑だったでしょうが、おかげでこのような傑作が生まれたので良しとしましょう。竹内栖鳳は昭和12年に第一回の文化勲章を受章し、上村松園をはじめとする多くの弟子を育てました。ちなみに、この作品も重要文化財に指定されています。

2009年10月18日日曜日

美術作品に見る猫

美術作品の題材として猫が登場することは、猫を神聖な存在として崇めた古代エジプトを除いて、近代まではあまりありませんでした。


それでも猫好きの芸術家はいるもので、ウィーン世紀末の分離派を代表する画家であるグスタフ・クリムトは大の猫好きだったようです。56年間の生涯を独身で通した(数多くのモデルの女性と関係を持った彼はホモセクシャルではなかったようですが..)彼は8匹の猫を飼っていたということです。この写真は晩年のクリムトですが、いとおしそうに猫を抱いている姿は、彼の猫に対する大いなる愛情を感じざるを得ません。クリムトは接吻など官能的で美しい作品をたくさん残していますが、残念ながら猫を画題にしたことは無かったようです。彼は1918年に当時流行していたスペイン風邪で亡くなりましたが、同じ年に彼の友人でもあるエゴン・シーレも28才にして同じ病で亡くなっています。インフル恐るべしですね。

それ以降も西洋では猫を画題にする例はあまり無いですね。アンリ・ルソーがライオンや黒豹を画面に登場させていますが、イエネコではないですね。あまり代表的な絵とはいえないと思いますし、JJも実物を見たことがありませんが、パブロ・ピカソが描いた、「ドラ・マールと猫」という絵画が、2006年5月4日にNYのサザビーズのオークションで9520万ドルで落札されたという記事がここに掲載されていますね。ピカソあたりだと、素描で猫くらい描いていてもよさそうですが、あまり思い浮かびませんね。


一方、わが国の絵画においては、古くは鳥獣戯画の一場面に猫が登場しています。鳥獣戯画では、ウサギを公家に、カエルを武家に見たてているそうですが、猫にはどんな寓意が込められているのでしょうか?烏帽子を被って、なにやらずるがしこそうな表情ですね。下級の役人か他人をだます商人といったところでしょうか?

その後しばらく猫の出てくる絵画は無くて、(犬は円山応挙とか伊藤若冲が描いていますし、虎なども画題としては出てきますが、イエネコは出てきません)いきなり飛んで近世まで来てしまいます。

江戸時代では、北斎漫画にも猫が登場しますが、猫の絵画といえば、なんといっても歌川国芳です。

歌川国芳は幕末の浮世絵師で、東海道五十三次絵で有名な歌川(安藤)広重とほぼ同年齢です。国芳は無類の猫好きだったようで、常に何匹かの猫を飼っていて、絵を描くときには懐に猫を抱いて(冬場のことだと思います。猫懐炉ですね。江戸時代は猫温石(ねこおんじゃく)といったようです)描いていたということです。またクリムトとは異なり、多くの猫を画題にした絵を残しています。猫を擬人化し寓意をこめたものや、猫を組み合わせて絵文字を作ったものなど多様な作風ですが、私が好きなのは、割と写実的なこの絵です。これは鼠よけのおまじないの絵で、上部の文言は「この絵は猫絵の名人一勇斎(国芳)の作なので、これを張っておけば家内に鼠は出てこない。」といったことが書いてあります。最後に福川堂記とありますので、版元の宣伝コピーだったかもしれませんね。

そして、ご一新を迎えて明治時代に突入します。いよいよ近代です。この後日本の猫絵画史上の最高傑作が2点登場します。

ちょっと長くなりましたので、続きは次回にいたします。

猫空はお茶の里

またまた猫ネタです。今月は猫月間ということにしましょう。

猫がつく地名はないかなぁ~?と考えていて、あんまり思いつかなかったので、ネットで検索してみました。調べたら結構あるんですね、このリンクに国内の猫がつく地名一覧が掲載されていますので、見てくださいね。JJの生活圏であります東京都や神奈川県にはありませんが、近くだと、千葉県浦安市の「猫実(ねこざね)」がありましたね。そうそう、忘れてましたがありましたね。昔は読み方が判らなくて、「ねこみ」かなぁと考えてました。

国内猫地名一覧で、面白いのは地域的な偏りがあることです。東北地方と愛知県には猫がつく地名が多いような気がします。ちなみに、JJの飼っている猫のブリーダーさんは愛知県だったのですが、何か関係がありますかね。また住所を良く見ると、愛知県といっても旧尾張ではなく、旧三河に偏っていますね。何か由来があるかもしれませんので後で調べてみましょうね。

でも、猫地名リストを見てると、想像力をかきたてられる地名がいっぱいありますね。「北猫狭間」なんていうのは、猫の軍団が甲冑を身にまとって合戦している情景を想像しちゃいます。また富山県の「猫又駅」なんて、深夜に降り立ったら妖怪に遭遇しちゃいそうですね。


<ちょっと出所不明ですがイメージ画像です>

タイトルにある「猫空」といのは、台湾にある地名です。台北の南郊の山間部にあり、ウーロン茶等のお茶の産地として有名です。JJは一度行ってみたいと思っていますが、なかなか行く機会がありません。台湾には良く出張するのですが、いつも観光の時間は取れていません。名前がかわいいという理由で、特にたいした観光資源が無いにもかかわらず、日本人観光客(特に女性客)に人気があるようです。

場所はこの辺です




「猫空」には茶芸館と呼ばれる店がたくさんあります。茶畑を見ながら喫茶したり食事したりできるようです。「猫空」には実際に猫がたくさんいるわけではないのですが、名前にちなんで日本式の猫カフェもあるようです(現地人情報です)。

「猫空」にはバスで行きます。山間部に入ると、日本で言うところの「自由乗降区間」になっていて、運転手に言うと好きなところで停車してくれるとガイドブックに書いてあります。

実は、2007年7月4日に麓の動物園から猫空までロープウエイ(猫空纜車)が台湾初の旅客輸送用ロープウエイとして開通しました。MRT木柵線(新交通システムみたいなものです。最近延長されて名前が変わったかもしれません。)の終点の動物園站(站は駅のことです)で接続しています。設備や車両はフランス製のものを導入したようですが、故障が多かったようです。その後開通から1年位経過した2008年9月末の台風で支柱の路盤が雨に流され、以来安全が確保できないという理由で運転が休止されています。最近台湾の人に確認しましたが、2009年10月現在まだ動いていないようですね。彼曰く「最近集中豪雨が来て、もっと状況は悪くなった」とのことです。この間の状況については、このリンクに詳しく掲載されています。

という状況なので、今でも猫空を訪問するには徒歩、バス、タクシーという状況になっています。

ちなみに「猫空」は中国語で「マオコン」と発音します。マオというのが「猫」のことです。ちなみに、猫の鳴き声もマオですね。泣き声を漢字で書くと実は専用の漢字があって「喵」と書きます。もともと、猫の漢字はむじなへん「豸」と泣き声をあらわす「苗」を組み合わせた会意文字です(別の説もあるようです。)。日本でも、猫のことを「にゃあにゃあ」とか「にゃんこ」(語尾の「こ」はちょっと違うと思いますが)と言うのと同じ感じがしますね。

猫空ロープウエイが復活したら是非乗ってみたいものですね。

2009年10月17日土曜日

指の多い猫 -ヘミングウエイと無の祈り-

猫ネタが続きますが、ごめんなさい。

ネコの指の数は、通常は前足に5本後足に4本ですが、指の多い猫も良く見られるそうです。ちなみにJJの飼っている猫は標準的な前5後4の指数です。



指の多い事を多指症と呼びますが、多指症の猫で有名なのは「ヘミングウエイの猫」です。

アーネスト・ヘミングウエイはノーベル文学賞受賞者で、「陽はまた昇る」、「誰がために鐘は鳴る」や「老人と海」などの名作で有名です。ヘミングウエイは大の猫好きだったようです。ある時、知り合いの船長から2匹の猫を譲り受け、これらの猫が多指症で、指が6本あったそうです。この多指症の猫を彼は幸福を呼ぶ猫だと信じてかわいがったそうです。

昔は航海中に鼠害から食料や積荷を守るために、猫を載せることが良くあったようです。日本へのイエネコの伝来は、遣唐使が積荷の書物等を守るために連れてきたと言われていました。ただし、壱岐市にある紀元前1世紀の弥生時代の遺跡(カラカミ遺跡)からイエネコの骨が発掘されていますので、遣唐使が連れてきたのが日本における最初の猫ではなかったのかもしれません。

で、船舶に乗せている内に近親交配が進み、多指症のネコが固定化されたのでしょうか。ヘミングウエイの猫は彼の自殺後も旧宅に住みつき、現在でもキー・ウエストにあるヘミングウエイの旧居(現在は博物館になっている)に直系の子孫50匹が暮らしており、子孫たちはすべて多指症だということです。

ヘミングウエイの猫については、ここに詳しいことが掲載されていますのでご参照ください。指の多い猫の写真も掲載されています。

ところで、もうずいぶんと昔の話ですが、大学時代に教養課程で英語の授業がありました。「語学」ということで、実用的な授業を期待したのですが、実際には「英文学」のような授業で、多少がっかりしたものでした。今考えると、その後も実用英語を学ぶ機会はたくさんありましたので、教養課程としては、それはそれでよかったのだと思っています。それで、S教授という米国文学の大家(おおやさんではありません)の先生の授業で、ヘミングウエイの短編集を読みました。

BIG TWO-HEARTED RIVERという作品は、作者の分身のようなNickという人物が、渓流で釣りをする話で、いまいち退屈でした。この小説はPart IとPart IIがあるのですが、それぞれの本編の直前にイタリック体で印刷された血なまぐさい情景(闘牛士の死とか、刑務所での絞首刑の状況)が挿入されていて、その後に平和で退屈な本編が続く構成が対比的で面白いと思いましたね。まあ、対比に関しては色んな解釈があるとは思いますが、ここでは省きます。

その一方、短編集で特に印象に残ったのが、A CLEAN, WELL-LIGHTED PLACEでしたね。これは、たった5ページくらいの小品です。リンク先に全文掲載されているので、よかったら、読んでみてください。

場所は長らくキューバだと思っていましたが、今考えるとたぶんスペインですね。で、深夜のカフェでブランデーを飲む耳の悪い老人とそれを眺めて時々給仕をする、二人のウエイターの会話が、その主な内容です。老人は経済的には恵まれており、若い姪と暮らしているのですが、前週に自殺を企てていて、若い方のウエイターは老人に対し批判的、年配の方は同情的です。自殺の理由を二人が話すのですが、「nothing」だろうということになります。理由が無いというよりは、「無」あるいは「虚無」が原因ということです。

この小説も色々な解釈があると思いますが、全編に漂う虚無感、闇と光の対比、若と老との対比、そして虚無や老いへの恐れ、といった要素が見て取れます。とくに極めつけは、「無の祈り」という部分です。老人も若いウエイターも去り、年配のウエイターがカフェを閉めて出て行った後、彼の頭の中で反芻されます。

これはキリスト教で使われる「主の祈り」(天にまします、我らの父よ..)のもじりで、こんな感じです。「nada」はスペイン語で無のことです。

"It was all nothing, and a man was nothing, too...Some lived in it and never felt it but he knew it was nada y pues nada y pues nada. Our nada who art in nada nada be thy name thy kingdom nada they will be nada in nada as it is in nada. Give us this nada our daily nada and nada us our nada as we nada our nadas and nada us not into nada but deliver us from nada; pues nada. Hail nothing full of nothing, nothing is with thee..."

この小説が発表されたのが1926年で、彼はまだ26,7才くらいだったと思いますが、若くしてこういった感性を持っていたことは驚嘆に値します。もともと気鬱症だったのでしょうか、あるいは、戦線への参加が彼を虚無的にしたのか。まあ、彼が持っていた、こういった感覚が、初老期での自殺につながっていったのかな、という風にも思っていたりします。

(ちなみにJJが授業を受けたS教授はまだ健在で、現在は日本藝術院会員だそうです。評論家・翻訳家の方が芸術院会員というのは何となく違和感を感じるのですが、あまり深く考えないことにしましょう。)

2009年10月11日日曜日

イヌ派 vs. ネコ派 (旧文部省はネコ派だったのか?)

JJは生き物の世話をするのが好きで、猫の他にも色んな生き物を飼っています。また、今までも色んな生き物を飼ってきました。猫の他にJJの家にどんな生き物が生息しているのか、追ってこのブログでご紹介しましょう。

まあ、色んな生き物があって、色んなペットがいますけど、やはり、ペット中でも双璧はイヌとネコになりますね。どちらも古くから人類のペット(あるいは家畜)として飼育されてきて、両方とも人類になつき、かわいいですね。




JJはネコ派ではありますが、イヌも飼ったことがあって、嫌いじゃないですよ。イヌは人間に良くなつくのでかわいいですよね。家人が帰宅すると、もう喜んで、シッポを振りまくりで、後足立ちになって、前足を人の腰位置に飛びついて、もうかわいいですね。Man's best friend と言われる所以は確かにあると思います。

子供のころ飼っていたイヌ(たぶん日本スピッツの雑種だと思います)は耳がすごく良くて、家の自家用車が最寄の信号まで(50mくらい先になります)来ると、車の姿は見えなくても、もうエンジンの音で聞き分けて、そわそわしながらシッポを振ってくるくる回っていたものです。

それにひきかえ、現在の我が家の猫なんて、家に帰ってきても廊下にちょっと顔を出して、「帰ってきたか、ふんっ。」っていう感じです。でも、イヌのちょっと痛いほどのなつきように比べると、猫のそんなクールなツンデレ感がネコ派にはたまらないですね。

どうも、イヌ派には外向的Out Door派の方が多く、ネコ派には内向的In Door派の方が多いようにも感じます。接点はあまりないのですが、お互いを尊重したいですね。

BTW (By the way のことですよん。)生物学には分類学というジャンルがあります。これは18世紀の博物学の時代に、(今上天皇陛下も高くご評価されている)リンネ先生が大成した学問で、生き物をその類似性に応じて近縁関係に沿って分類するものです。しかし、いささか古臭い感じはありますね。大学の湿って暗い廊下の木製の戸棚に並んでいるホルマリン漬け標本のガラス瓶と黴臭いにおいを連想しちゃいます。ところが、近年になって、分子生物学の進展により、DNA解析によって遺伝子レベルで種の近縁関係が解明されるにしたがって、従来の見識が覆されるようなこともあり、分類学が再び脚光を浴びているようですよ。

ところで、ネコは分類学的には以下のようになります。

動物界・脊索動物門・脊椎動物亜門・顎口上綱 ・哺乳綱・獣亜綱・北方真獣類 ・ローラシア獣上目 ・ネコ目(食肉目) ・ネコ亜目 Feliformia・ネコ科 Felidae・ネコ属 Felis・ヤマネコ種 F. silvestris・イエネコ亜種 F. s. catusまたは F. s. domesticus

ふうっ、長いですね。JJの専門分野でもありませんので、途中何か抜けてるかもしれませんが。抜けてたらごめんなさい。

それで、上のほうの枕詞はどうでもいいんですが、ネコ目以下に注目してください。

最新の分子生物学を活用した分類法ではネコ目(なんか「ねこめ」みたいですね)の下には、ネコ亜目とイヌ亜目があり、イヌやイタチ、クマ、アシカ、アザラシなどはイヌ亜目のほうに属しております。

イヌ類とネコ類を統括する「目」は「食肉目」ともいいますが、同時にネコ目とも言います。食肉目は学名でCarnivoraといいますので、直訳するとどう考えても食肉目が正しくて、なんでネコ目なのかちょっと不思議です。

この件に関しては教えてgooの記事がありますので参考にしてください。この回答を転載しますと、「食肉目(Carnivora)をネコ目と言い換えるようになったのは、1988年文部省の「学術用語集動物学編」において、目以下の名称をすべてそれぞれの動物群を代表する動物名に変える、という改定がなされたためです。」確かにリンクの学術用語集動物学編で検索すると、「ネコ目(食肉目)」と書かれています。

それじゃあ、イヌ科とネコ科とどちらが種類が多いかというと、イヌ科:14属34種に対してネコ科:6属36種ということだそうです。

すると食肉目を代表する動物名として「ネコ」が選ばれる必然性はあまりなくて、選んだ方の好みだったのか、用語選定委員の投票か何かで決まったのか、経緯はわかりませんが、とにかく、「食肉目=ネコ目」を決めた方はネコ派だったのではなかったかと推測します。いやぁ、ネコ派の先人たちの功績に感謝したいですね。

ちなみに、最近ではイヌ派の巻き返しもあり、「食肉目(ネコ目)」とネコを括弧のなかに押しやろうとする動きもあるようです。なんとかネコ派には今一度がんばって欲しいですね。

2009年10月3日土曜日

猫は凶暴か? -(副題)猫の漢字と二種類のけものへん-

ネコは漢字で「猫」と書きますが、台湾に行くと繁体字中国語で「貓」と書きます。イヌは漢字で「犬」ですが、中国では「狗」、台湾の繁体字中国語でも「狗」と書きます。

イヌに関していえば、昔は中国でも大型のイヌを「犬」、小型のものを「狗」と区別して表現していたようですが、現代の中国語ではどちらも「狗」になっています。日本ではこの漢字はイヌには使わず、「天狗」とか「走狗」くらいにしか使いませんよね。(羊頭狗肉という言葉はありますが)

ここで不思議に思うのが、「猫」の繁体字の場合「けものへん」が「豸」になっているのに、イヌの方は「狗」の「けものへん」が繁体字でも「犭」のままである点です。

先日、漢字に詳しい中国人(実は意外と少ないのですが)をつかまえて、漢字の話をした時に、けものへんについても尋ねてみたのですが、この人いわく、「けものへんにはもともと二種類あって、イヌのけものへんと、ネコのけものへんは違うんですよ。」とのことでした。

で調査してみますと、普通のけものへん「犭」は確かにイヌから来ているようですね。リンクのほうに詳しい解説が掲載されています。この解説によると、「犭」はイヌを横から見た様子を表しているそうです。

一方で、ネコのほうのけものへん「豸」は正しくは「むじなへん」と呼ばれるそうです。このへんはネコやトラが口をモグモグさせながら背を伸ばして獲物の様子をのぞいている様子を表した表形文字です。ここを見ると絵が出ています。こっちの方は単に動物を横に見た形ではなく、「口を開けて獲物に襲いかかろうとしている」動物を横から見た様子を表しているということになります。漢字には本字、正字、俗字、略字、異体字、簡体字、日本の新字体などいろんな書き方があり、「猫」や「狸」などに見られるように現代では本来の「豸」が「犭」に移行している例も多いのですが、「豹」だけは今でも「むじなへん」のままですね。

「豸」の意味としては、単なる獣ではなく、鋭い爪をもっていたり攻撃性が高い獰猛な様子を表すようです。ちなみに「豸」の「むじなへん」をつかう漢字としては、下記のようなものがあります。

  「豹」:ヒョウ
  「貂」:テン
  「貉」:ムジナ
  「貓」:ネコ
  「貍」:タヌキ

と、言ったところです。ちなみに貍は現代のタヌキではなく、人家近くに生息する中型の哺乳類全般を指していたとの事です。ムジナ(ムジナというのはアナグマ、タヌキ、ハクビシンなどを混同して指している言葉のようです)が獰猛なのかどうかは判りませんが、古代中国の漢字を考えた人たちの区分では、ネコはイヌを始めとする一般の動物ではなく、猛獣のくくりに入るということになります。

と、いうことで、猫はやはり凶暴なのかな?といった感じはします。

今日はすこし理屈っぽくなっちゃいましたね。次回はもう少し読みやすい記事にしましょう。

2009年10月2日金曜日

凶暴な猫

JJは猫が好きです。子供のころから今まで、海外に住んでた時期を除いてほとんどの期間を猫と暮らしていました。昔は大体野良猫を拾って飼うか、家に餌をもらいにきている内に、いついてしまうような、なし崩し的な飼い方が多かったのですが、今飼っているのは、れっきとした血統書つきのアメリカンショートヘアで、JJがはじめてお金を出して買ってきた猫です。


<我が家の猫(凶暴な猫ではありません)>

ペットショップで買ってきた猫というのは非常に良いもので、とにかく生後二ヶ月くらいから飼い始めるので、人間に良くなつきます(時々自分が人間だと同じだと思っているんじゃないかと思わせるそぶりがあります。)。また、野良猫時代に人間にいじめられたりといった負の記憶が無いためか、屈託がなく、明るいですね。この写真は若かりし頃のものですが、もう7歳で現在は中年猫になってしまいました。最近の写真はこの記事の最後にありますので、比較してみてください。

で、ここからが、凶暴な猫の話です。

昔、一緒に働いていたFさんという人がいました。この人は、仕事熱心で責任感の強い人で、JJは大好きでしたが、残念ながら、何年か前に鬼籍に入られました。いい人は長生きできないものですね。JJよりもずっと年上だったのですが、亡くなった時はまだ65歳くらいだったと思います。

Fさんはどちらの手か忘れましたが、人差し指の先が少し色が違って(ちょっと薄い)いました。ある時、思い切ってFさんにそのことについて尋ねてみたのですが...彼の人差し指には、実は驚くべき事実が隠されていたのです。

注意!注意!注意!
=ここから先は心臓の弱い方は読まないでください=

Fさんは、相模原市のほうの戸建てに住んでいました。自宅の横にはカーポートです。きれいに洗車してワックスをかけると、近所の野良猫が泥だらけの足でボンネットの上を飛び回ります。Fさんは堪忍袋の緒が切れて、野良猫を懲らしめてやろうてんで、捕まえたまでは良かったが、野良猫のほうも必死で、いきなり逆襲に出て、Fさんの人差し指の先を噛み千切って逃げてったそうです。

痛みをこらえて病院にいくと、医師は人差し指の先を胸に縫い付けて、「このまま1ヶ月我慢してください。」との事でした。なかなか不便ですよね。人体の位相幾何学が変わること1ヶ月我慢して、病院にいくと、アイスクリームを掬い取る道具のようなので、胸の肉ごと抉り取って.....といった事があったそうです。

注意!注意!注意!
=ここまで心臓の弱い方は読まないでください=

JJもよく猫と戯れていて、引っかかれたり噛みつかれたりすることがあります。真剣に痛くて、出血することもあるんですが、猫が本気で噛むと人間の指が噛み切れるくらいの力があるんですね。ということは、じゃれてる時の噛み方は、だいぶ手加減した甘噛みだったって事なんですね。

と、いうことで、今日は凶暴な猫の話でした。


<今朝の我が家の猫(凶暴な猫ではありません)>