2018年9月16日日曜日

池袋の「池」はどこにある

失われた「池」を追うのも、佳境に入ってきました。都内には周りに池がないのに「池」のついた地名がまだまだありますね。例えば、溜池とか池袋とか池之端とか..おっと、池之端は近くに現役の不忍池がありました。

今回は池袋の「池」を探してみましょう。


池袋の中心である池袋駅は、一日の利用者264万人(世界で第二位)の巨大駅で、JRを始め東武、西武、東京メトロが乗り入れる一大ターミナルになっており、駅を中心とした繁華街が広がっています。今でこその賑わいですが、もともとは江戸郊外の農村でした。明治18年(1885年)に赤羽から品川に向かう線路(日本鉄道)が敷設された際にも停車場は作られず、この線から田端に向かう支線が建設されたときに、やっと駅ができたというくらいの田舎でありました。時は明治36年(1903年)で世の中は20世紀に入っての事でした。

明治期の池袋停車場
その後の発展に関してはリンク先を読んでいただくことにして、池袋の歴史に関して、Wikipediaには下記のように記載されています。

~古くは武蔵国豊嶋郡池袋村といい、戦国時代古文書である『小田原衆所領役帳』(永禄2年・1559年)には「太田新六郎 知行 三貫五百文 池袋」とあることから、中世にはすでに近隣の地名長崎雑司ヶ谷巣鴨高田など)とともに確立していたと考えられる~

 戦国時代には池袋の名前が出てくるんですね。結構古い地名です。

で、肝心の地名の由来に関しては下記のように書かれています。

~現在の池袋駅西口のホテルメトロポリタン一帯(西池袋1丁目)に存在していた袋型の袋池(丸池)と呼ばれており、それが地名の直接の由来となったとされている。ただし当地は旧雑司ヶ谷村であり、池袋のもともとの中心部だったといえる池袋本町(かつての本村)からは離れているため、この説には異論がある。なお、丸池は時代を追って縮小され、70年代中頃までは現在のホテルメトロポリタン北側に存在した「元池袋公園」内に空池(からいけ)の状態で残っていたが、現在は完全に埋め立てられ、地名由来とされる池を偲んで、元の場所より東側の隣接地に元池袋史跡公園が開設された~

上の地図は、江戸時代の地図と現代の地図を重ね合わせたものです。確かに丸池という小さな池が、メトロポリタンホテルの近くに見えますね。

また丸池のあった近くには元池袋史跡公園が設けられ、上の写真のように「池袋地名ゆかりの池」という石碑が建立されています。

さすがに天下の一大ターミナルである池袋です。現地調査もせずにちょっと検索しただけで、色々分かります。

しかし、ここで違和感を禁じえません。それは丸池の大きさです。戦国時代はもっと大きかったのかもしれませんが、この程度の池がその後400年以上も地名に名を残すようにも思えないのです。また、丸池の場所も池袋村ではなく、雑司が谷村にあるのも場違いな感じがします。

そこで、上記のWikipedia記事にある「この説には異論がある」という部分が気になってきますね。異論というのはこういう事です..

地名における「袋」には「と川が合流しているところ」という意味があり、谷(谷戸)などが袋状にえぐれた地形や(都内では沼袋、横浜市中区の池袋など)、河川が袋のように曲流するところ(横浜市の鶴見川沿いなどの、いくつかの「袋」がつく小字など)に多い。これを基に、NHK総合テレビ「ブラタモリ 池袋・巣鴨」(2011年1月27日放送)では、村内を流れていた川が合流している、旧池袋村北東部付近(池袋本町4丁目~板橋区板橋1丁目)を地名の発祥に関係した場所と推測している~

なるほど、流石はブラタモリですね。 

上の地図は異論で言及している付近の現代の地図です。

そして上の地図は同じ場所の江戸時代の地図です。ここは朱引きの内側なので、切絵図があって調査がはかどります。まあ、見事に川が何本も合流しています。また地名も池袋本町とありますから、こちらの方が本家な感じがします。

そこで失われた池探しのリーサルウェポンである、ハザードマップの登場です。


もうこれは間違いないでしょう。池袋駅の左下にある小さなハザードは丸池の跡、一方で左上の大きなハザードは「異論」で指摘している方の川の合流地点です。このくらいのサイズがあれば数百年もの間地名に残るのも納得感がでてきます。個人的には「異論」の方が正しいのではないかと思います。


2018年9月15日土曜日

京王井の頭線・池ノ上駅の「池」を探す

しばらく新宿は十二社の池を追ってみましたが、街中の「池」は割と簡単に痕跡も残さず消えてしまうので、地名に残っている「池」を探すのも面白くなってきました。で、今回は京王井の頭線は池ノ上駅の話です。

池ノ上は渋谷から井の頭線で3駅目の、各駅停車しか止まらない、あまり存在感もない小さな駅です。 周辺は住宅地と学校がいくつかで、あまり目立った施設もありません。一つ手前の駒場東大前駅や一つ先の下北沢駅に比べると知名度は圧倒的に低いと思います。


それで、以前から気になっていたのですが、「池ノ上」と言うからには、下の方に池があるはずです。で、現在の地図を見てみると..
 どうも周囲に池らしきものは見当たりません。

それでは、時代を140年くらい遡って、明治初期の地図を見てみましょう。
 帝都電鉄(現在の井の頭線)の線路が敷かれたのが昭和8年の事ですから、まだ当地に鉄道はありません。地図の下の方に川が二本流れていて合流している箇所が見られますが、池らしきものは見当たりません。この辺は、等高線を見てもだいぶ下がった場所のようです。別の地図を見ると北側の川は北沢用水(あるいは北沢川)、南側の川が烏山用水(あるいは烏山川)とあり、合流して目黒川になります。目黒川は中目黒を通って五反田に抜け、最後は天王洲のあたりで東京湾に注ぎます。河口付近は川の地下に首都高速中央環状線が通っています。

北沢用水(北沢川)に関してはこちらのブログ(東京の水2000)に興味深い記述がありましたので、併せてご参照ください。

さて、池はどこかという話でしたね。もう少し探ってみましょう。明治初期の地図を見ていただくとわかるように、二つの用水の合流地点に下側に、池尻村という地名が見えます。目黒川が大山街道(国道246号線)をくぐるところにかかっていたのが大橋で、現在の池尻大橋の駅名につながっています。

Wikipediaの「池尻」の記事にはこう書いてありました。

~北沢川烏山川が合流し目黒川となる付近で沼沢地帯を為していた。池尻の「尻」とは「出口」という意味で池や沼や湖が川に落ちる部分のことを示している。「いけしり」や「いけのしり」という呼称もある~

という事で、北沢用水と烏山用水の合流地点付近が、昔は湿地帯になっていたらしく、ここが「池」だったようです。それで「池」の上の方に池ノ上駅ができ、池の水が流れ出す地点に池尻村ができたものと思われます。江戸時代の地図があれば、池が見つかったかもしれませんが、この辺は朱引きの外(いわゆる江戸市外)なので、当時の切絵図もありません。
上の地図は60年くらい前、高度成長期前夜のものです。北沢上水も烏山上水も見られますが、その後1970年以降に順次暗渠化されてしまったようです。暗渠化の跡は緑道として整備され、暗渠の方は下水道として利用されていますが、地上の緑道部は近年では下水処理水を流してせせらぎを再現しているようです。

上の図は同じ場所の5mメッシュで段彩陰影を施したものです。やはり二つの上水の合流地点は地面が低いことが分かります。現在は治水対策がしっかりとられているのでしょうが、こういう場所は潜在的な水害のリスクがあるかもしれませんね。

 と思って、世田谷区の洪水ハザードマップを見てみたら、やはり二つの用水と合流地点それから目黒川に沿っては、洪水のリスクありという事になっていました。昔の水路とか、湿地とかが都市化で隠れてしまうのですが、いくら暗渠になっても、湿地の過去は消せないという事ですね。おそらく、昔あったはずの「池」とはハザードマップで青くなっているあたりなのだと思います。

失われた「池」はハザードマップの中にあり。と言ったところでしょうか。