おそらく戦後昭和30年代の後半くらいに撮影されたものでしょうか。「おそば福助」という店と、その隣に麻雀屋が見えて、その背後に立派な樹木が見えます。前回も触れたように、この「おそば福助」は今でも営業しています。
これが現在の「おそば福助」で白黒写真で見えるお店の逆側から撮影したものです。福助の隣に大きな樹木(イチョウの木でした)が見えると思いますが、これが白黒写真に写っていた大木と同じものと思われます。
福助の玄関はイチョウの木の脇にありますが、その先にビルの階上にあがる階段があり、その階段下から撮影したものが上の写真です。階段の奥のフェンスが昔の池の岸にあたると思われます。またその奥に続く敷地境界線も池の岸に当たると思われます。池の跡地と思しき場所にはベルサール西新宿というビルが建っており、池の跡形もありません。
福助の前の通りは十二社の池の岸に沿って家一軒奥にあったものと思われます。その通りを少し南にいくと、ちょっと仕舞屋(「しもたや」と読みます)には見えない、風情のある木造建築があります。まだ人が住んでいる感じはあるものの、店として営業している気配はありません。調べたら、ここは「一松」という料亭で、この近辺では最後まで営業していたとのことです。
一松のすぐ南に十字路があり、そこから十二社通りを登り切った位置から一松方向を撮影したものが上の写真です。道路が坂になって下っているのが分かると思います。この道は昔の池の中を横切っており、手前側は盛り土をしたものと思われます。道の左側は新宿ニューシティホテルでしたが、最近改装されて2018年8月からThe Knotという名前で営業を再開しました。外国人宿泊客が多いようで、玄関前に多く見かけました。新しいwebページは日英対訳で、インバウンド客をかなり意識した作りになっていますね。
おそば福助や一松があった通りから西側は土地が高くなっており、西側に行くには坂を上る感じになります。上の写真は福助よりも少し北側、早くに埋め立てられてしまった下池あたりに相当します。坂を上った右側に旅館のようなものがあり、看板はしまわれていましたが、昔は「ニュー寿」という連れ込み旅館だったようです。今は細々と外国人向けの宿泊施設として営業している感じがありました。
地図上に今まで触れていなかった十二社温泉という表示があるのに気づかれた方もあると思います。上の写真のマンションの地下に温泉があったようですが、残念ながら2009年の3月に閉館してしまいました。閉館前のレポートを見てもあまり流行っていた感じはないのですが、閉館の理由は平成19年の温泉法改正で営業許可が下りなかったという話もあるようです。実際は、改正された温泉法に従うにはコストが見合わなかったのかも知れません。
十二社温泉の昔に関してはこのリンク先に詳しいのですが、昭和33年に大規模なヘルスセンター的なものが上記マンションの裏手に開店し、その後、上記マンションの建設とともに、昭和53年に十二社通沿いの場所に移転したようです。
リンク先の地図では、昭和30年代には池は前の地図よりも縮小されていて、ニューシティホテル横の道が池の南岸になっていたようです。 地図にはもちろん福助や一松も載っていますね。
話は少しそれますが、前回触れた、玉川上水から神田川に注ぐ分水路は今どうなっているでしょうか?分水路があった場所は新宿パークタワーや新宿中央公園になってしまい、今では跡形もありませんが、中央公園の北側に痕跡がありました。
熊野神社の北側に南北に緑の線が二本あるのが分かると思います。こういった緑道は水路の跡が多いですね。水路敷は行政的に扱いが異なるようで、意外な痕跡を残してくれることがあります。これがおそらく分水路の跡だと思います。
南側の緑道の端が上の写真になります。朽ち果てた「淀橋町会」の掲示板に趣を感じますね。1998年に消滅した「たくぎん(北海道拓殖銀行)」の看板がありますので、少なくとも20年以上は経っていますね。淀橋町会の掲示板も今ではこんなWEBページになっているようです。朽ちた看板の撤去くらいは取り組んで欲しいとは思いますが。
緑道の半ばから北向きに撮ったのが上の写真です。この下には暗渠でも埋まっているのでしょうか?
十二社池が完全に埋め立てられて(1968年)から半世紀。日々変わる東京の街並みの中で、痕跡はますます薄くなっていくものの、よく探せば見つけることができます。散歩がてらにこういったものを探すのは結構楽しいものでした。
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