2016年8月27日土曜日

イタリアの地震とチビタ ( Civita di Bagnoregio )

つい先日のこと、8月24日午前3時36分にイタリア中部をマグニチュード6.2の地震が襲い、決して耐震強度の強いとは思えない建物が多数倒壊し、多くの犠牲者を出しました。8月27日朝の時点で犠牲者が281名。まだ瓦礫の下に不明者が埋まっていますが、余震が怖くて救出作業が進まない模様です。命からがら逃げた人も家を失い、まったく胸が痛みます。

イタリアは石造りの建物が多く、地震など無いのかと思いがちですが、意外と頻繁にあります。1997年にイタリアのアッシジで起きた地震で、聖フランチェスコ大聖堂(ジオットのフレスコ画で有名)が被害にあったのはまだ記憶に新しいですね。このリンク先に世界の地震分布の地図があります。ちょっと凡例が良くわかりませんが、南ヨーロッパ、すなわちフランス南部からイタリア、旧ユーゴそしてギリシャを通ってトルコに至るあたりは結構地震が多いことが分かります。

地球のプレートでいうと、イタリアはアフリカプレートに乗っていて、ヨーロッパプレートにぶつかるあたりが隆起してアルプス山脈になっているようです。したがって日本と同じでプレート境界にあたり、その結果、火山や温泉や地震があります。

その昔、1990年代の初めに米国に住んでいたことがあり、その間、夏休みに3週間程度時間があったので、イタリアを旅行したことがありました。大まかな旅程は、米国→(飛行機)→ウイーン(オーストリア)→(寝台列車)→ベネチア→(レンタカー)でイタリア中部巡り→ミラノ→(飛行機)→米国へ帰国のような感じで、ちょうど5月か6月の初夏の気持ちの良い気候で、なかなか楽しい旅行でした。

イタリア中部巡りは日程的にも余裕があり、またレンタカーでの移動ということもあって、普段はいけないような場所を訪れようと思い、旅程も凝ったものを事前に用意しました。その時に訪れたのが、表題にある Civita di Bagnoregioという町でした。

ここは非常に変わった場所で、いままで訪れた中でも強く印象に残っています。
Civita di Bagnoregio遠景
遠くから見ると写真のようになっています。この町は、リンク先にも説明のある通り、もともと大地の上に作られたエトルリア時代(ローマ時代の前)の町だったのですが、17世紀の大地震により集落の周囲が崩れてしまい、その後もどんどん崩落が進み、19世紀は現在のような島状に中心部だけが残されてしまいました。この町の手前に車を止めて、写真にあるように橋のような通路を歩いて渡って行った記憶があります。
町の中

町の中は典型的な古いイタリア風の集落で、人口も少ないせいか、とても静かでした。なぜか猫がたくさんいたのを覚えています。

地震が作り出した奇跡のような風景です。ツアーの旅程に入ることはないでしょうが、もしも時間に余裕のある旅をするのであればお勧めの場所です。

2016年8月21日日曜日

旗本退屈男は退屈だったのか?

「額に冴える三日月は、天下御免の向う傷、直参旗本早乙女主水之介、人呼んで旗本退屈男..」

という名科白とともに登場する旗本退屈男、諸羽流青眼崩しという無敵の剣技で、周囲を取り囲む悪者をバッタバッタと切り倒す華麗で痛快な殺陣。まさに時代劇の醍醐味ですね。


 旗本退屈男は佐々木味津三が昭和四年に発表した時代小説で、当時自らのプロダクションを持っていた剣劇スタアである市川右太衛門が気に入って映画化。昭和五年から昭和三十八年までの間に計30本もの映画が製作されました。その後、テレビでも市川右太衛門で1本、その息子の北大路欣也の主演で十数本のドラマとして製作されているようです(その他の俳優でも数本)。

ちなみに佐々木味津三は「右門捕物帳」というシリーズも書いており、こちらは嵐寛寿郎主演で36本も映画化されています。当時は時代小説の人気作家だったようです。

Youtubeに旗本退屈男第一作の映像がありましたのでリンクを上げておきます。 この当時はサイレントなので、弁士の解説付きです。その後映画も音声付のトーキーに移るのですが、多くの俳優がトーキー化の流れで脱落する中で、市川右太衛門は器用に生き残っていきます。

武家屋敷(江戸ではなく松江ですが)
さて、旗本退屈男の時代は元禄で早乙女主水之介は1,200石取りの直参旗本。無役のために暇を持て余し、江戸市中をぶらぶらしていて、事件の匂いを嗅ぎつけると遠く西国まで出かけていき剣の技で解決するという設定です。

江戸時代は幕府に直接仕えていた武士は旗本御家人と呼ばれ、旗本は直接将軍に面会することが許される御目見えかつ一般的に家禄200俵以上を言うようです。寛政年間(元禄よりも100年ほど後)の資料によると、その数が5,158家(200俵未満の旗本も含んでいますが)。その下の御家人を合わせると17,000家ほどに上るようです。

しかし、 早乙女主水之介のように1,200石以上もの石高を与えられた大身の旗本は626家ですので、旗本の中でもかなりな上澄みですね。1,200石と言っても収量が1,200石の知行地の徴税権を与えられということです。旗本知行地の場合の税率は四公六民と言って40%(不作の年もあるので実勢は35%という説もあり)ですので、実際の早乙女家に入るのは、1,200石×0.4=480石。当時の1石は貨幣で1両ですので、年収480両ということになります。当時の1両が今の貨幣価値でどのくらいに相当するのかは変換が難しいのですが(江戸時代でも時代によって変わってくる)、ここでは1両=12万円と計算すれば、早乙女家の年収は5,760万円ということになります。

年貢の取り立て
もちろんここから税金はかかりませんし、屋敷も幕府からの拝領屋敷(上物は自前だったりしますが)なので家賃もかかりません。それじゃぁ丸残りかというとそうではなく、家来や奉公人を雇う必要があります。先ほどのリンク先の情報では、1000石級の旗本ですと、軍役21名(侍に足軽や槍持ちなども含むようです)に女中さん5名位、拝領屋敷は900坪程ということですので、それなりに侍や足軽や中間なども抱えておかなければいけません。旗本と言えば「殿様」と呼ばれますが、1,200石だと規模的には中小企業のおやじさんみたいな感じでしょうかね。 
旗本屋敷の例(330坪)
話が脱線しましたが..約5,000人もいる旗本に幕府での役職がすべて割り振られるかというと、そうではなく、役が割り振られない旗本は家禄3,000石以下の場合は小普請組という組織に所属させられました。ここは就職待機組のようなもので、禄高に応じた普請金を負担(2%程度)し、月に三回支配屋敷へ出仕しました。支配屋敷に行っても大した仕事があるわけではなく、 役希望・隠居・相続・急養子などの相談をするのみで、すぐに終わってしまったようです。

無役の旗本が何人くらいいたのか、ちょっと数字が出てきませんが、小普請は家禄のある浪人とも呼ばれ、幼年小普請、老年、しくじり、病気小普請などの俗称もあるようですので、無役でいるのは何らかの「わけあり」な殿様だということになります。当時の番衆狂歌というものに、こんな歌が残っています。

  小普請は公儀おきてを知らずして 自まま気ままの不行跡あり

早乙女主水之介も何らかの問題を抱えていた人物だったのでしょう。

ということで、旗本退屈男・ 早乙女主水之介は無役で小普請組には出仕すものの、大変暇だったので、たいそう退屈していたものと思われます。しかし、旗本は将軍直属の家来でありますので、知行地に行くなどの職務以外で勝手に江戸を離れるわけにはいきません。 早乙女主水之介のように退屈だからと言って、上役に断わりもなくふらっと遠方に旅立つようなことは実際にはできなかったと思います。

番町の地図
蛇足ですが、先ほどの旗本屋敷の平面図ですが、北側が裏六番町、東側が善国寺谷通往還とありますので、上の六番町の地図でいうと「大熊」さんの家にあたりますね。ただ旗本の屋敷もしょっちゅう変更されていたので、平面図に住んでいたのが大熊家かどうかは定かではありません。

ちなみにこの大熊家の場所は現代の住所でいうと、東京都千代田区六番町で、現在は河合塾麹町校があるようです。

2016年8月14日日曜日

横浜の終戦後・進駐軍による占領時代

熊本の地震のショックなどもあり、しばらくブログ書きから遠ざかっていましたが、明日は終戦記念日ということもあり、横浜の占領時代の事でも書きましょう。JJは横浜に住んで30年近くになりますが、もともと横浜の出身でもなく、戦後生まれでもあります。それほどこの話題に詳しいわけではありませんので、最初にお断りしておきます。

大東亜戦争の末期、1945年になると日本の各大都市が連合軍(といっても米軍だが)の空襲に晒されました。これは民間人を巻き込んだ無差別爆撃で、明らかに国際法違反の攻撃です。我が横浜も昭和20年5月29日の昼間にB-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機による攻撃(主に焼夷弾による爆撃)で8,000名から10,000名に上る犠牲者を出しました。アメリカ軍は攻撃目標を東神奈川駅平沼橋横浜市役所日枝神社、大鳥国民学校の5ヶ所に定めて襲撃し、特に被害が甚大だったのは、現在の神奈川区反町保土ケ谷区星川町南区真金町地区一帯とされているようです。東神奈川駅が攻撃地点の一つに選ばれたのは、相模原の補給廠や長津田の弾薬庫(現在のこどもの国)などの内陸部の軍事拠点と横浜港や横須賀の海軍基地を結ぶ鉄道の要所だったからでしょうか。

しかし一方で、横浜大空襲による港湾施設への被害は比較的軽微で、これは終戦後を見据えて破壊を控えたものと言われています。その後7月26日のポツダム宣言とそれに対する日本政府の黙殺を経て8月6日に広島、8月9日に長崎への原子爆弾、同日にソビエト連邦の参戦があり、8月15日にとうとう無条件降伏することになります。で、終戦です。

8月30日に進駐軍総司令官となるダグラス・マッカーサーが厚木基地に降り立ちました。マッカーサーはその足で横浜のホテルニューグランドに向かったということです。このホテルはかつてマッカーサーが新婚旅行で訪れた場所でもあります。
厚木基地に降り立つマッカーサー
 引き続いて9月1日には進駐軍が各地に上陸してきます。米海軍の戦艦ミズーリ号上での降伏文書への調印式は翌9月2日のことです。
進駐軍上陸の記事
日本占領には40万人の将兵が投入されましたが、神奈川県にはフィリピンで日本軍と戦った第8軍が進駐し、同年11月までに進駐軍人の数は6万4625人に上りました。この人数は沖縄を除く全国の都道府県の中でも最も多く、東京都 の3万3890人と比較しても倍以上に相当し、厚木、横須賀などの重要な軍事基地と横浜港という重要な物流拠点を有する神奈川県を進駐軍の拠点として非常 に重要視していたことが分かります。
横浜港へ向かう上陸用舟艇
 米軍は横浜に上陸すると次々に港湾施設を接収していきました。大桟橋はサウスピア、新港埠頭はセンターピア、そして瑞穂埠頭はノースピアと呼ばれ、焼け跡になっていた市内中心部も接収され、兵舎などが建設されます。
山下公園に立ち並ぶ進駐軍住宅

横浜市内に立ち並ぶカマボコ型兵舎
血気盛んな若い兵隊さんたちが大勢上陸してくれば、当然性犯罪なども起こったのですが、当時の進駐軍による報道規制(プレスコード)により、報道記事も「強姦事件の犯人は大きな男..」のような表現にとどまらざるを得なかったようです。

接収の解除は日本国側からの要請と進駐軍側の重要性を勘案して順次進められてきたようですが、本格的な接収解除は昭和26年のサンフランシスコ講和条約締結を待たなければなりません。それ以降も接収の続いた施設は多く、瑞穂埠頭(ノースピア)に至っては2016年現在まだ返還されていません(自衛隊も共用で利用しているようではありますが)。この大規模な接収が横浜の戦後復興を遅らせたという見方もあります。

ただ、別の側面から見れば、戦後復興が遅れたために、市の中心部の建物は比較的新しく、多くの米国軍人が居住していたことから、エキゾチックな文化も感じられ、現代の国際観光都市としての横浜の魅力形成に一役買っていると言えるかもしれません。

最後にちょっと興味深い占領時代の地図を掲載します。各道路に1st streetとか"A" Avenueとかの英語名がついているのが興味深いです。今でいう伊勢崎モールが5th Streetすなわち5番街になっていますね。横浜球場も接収されてLou Gehrig Stadiumに改名されています。市街地の中で黄色い部分は進駐軍が接収していた土地のようで、先ほど写真にあるカマボコ型兵舎などが建ち並んでいたようですね。この地図は昭和26年~30年ごろにかけて発行されたもののようで、サンフランシスコ講和条約が締結され、一応の独立国になった頃でも、まだ横浜の中心部は進駐軍に占領されたような状態だったことが分かります。
占領時代の横浜中心部の地図
地図の周囲は当時の進駐軍相手の店やホテルの広告が取り囲んでいるのも興味深いですね。

ということで、今日は終戦記念日にちなんで、横浜の占領時代について書いてみました。

2016年4月30日土曜日

荷車を曳く犬たち

私の住むマンションでは、細則を守ればペットを飼うことが可能です。犬猫ならば体長50cm(胸骨から坐骨端まで)以下で体重10Kgまでのものを二匹まで飼育可能です。届け出が必要で、うちの猫(ミーちゃん)も当然届け出をしています。猫は出歩かないしそれほど鳴き声も上げないので、どの家で飼っているのかわかりませんが、犬の方は吠えたりするし、 散歩に連れ出したりもするので、共有部分などで見かけることが良くあります。

私も子供の頃に犬を飼ったことがあるし、懐いた時のかわいさはよくわかっていますが、成人してからはすっかり猫しか飼わなくなってしまい、犬を散歩している人たちを、どちらかというと冷ややかな目で見ています。と、いうのも、建物周囲におしっこをかけるし(糞の方は飼い主が持ち帰りますが、おしっこの方はペットボトルで水をかけて薄める人も見かけるものの、やはり匂いやしみが残ります。)、飼い主同士の犬自慢会話が耳に入ってくると、なんだかばかばかしい感じがします。犬の方もかなり手入れがされた、華奢でお利口な小型犬で、昔自分で飼っていたころとは別世界のような感じです。

ところで、ネットで昔の写真を探していたら、こんなものを見つけました。
図1:大八車を曳く犬
江波信國という横浜に住んでいた写真家が撮影したもののだそうで、明治時代の風俗が分かる写真を多く残しています。ここのサイトに「明治時代の日本の仕事風景」として興味深い写真が60枚乗っているうちの1枚です。犬が二頭で大八車を曳いていますね。写真はモノクロに彩色したものでしょう。大八車には伐採してきたような丸太が何本も積まれており、それを何と犬が曳いています。

図2:空の大八車
大八車は上の写真のような構造をしており、通常は左上の井型の中に人間が入って引くものです。図1では人間が曳くために入る井型の部分までみっしりと丸太が覆っており、これは真剣に犬に曳かせる設定としか見えません。決して木こりの運搬作業にお供するお散歩犬ではなさそうです。

明治以前には一般的に牛馬が使役用として使われていたので、図3のような姿はまあ分かりますが、犬が荷車を曳いているのはなんだか珍しいですね。ここのサイトには使役される牛馬の写真(図1、3を含む)がいくつか上げられています
図3:大八車を曳く牛
 日本でいつごろから使役犬を使うようになったのか、ちょっと調べてみたら、ここのサイトにいろいろと記事が載っていました。まず、もともとヨーロッパではベルギーをはじめとして使役犬を使う文化があり、それが明治以降日本に伝わったというルート。
図4:ベルギーのミルク運搬犬
ベルギーのミルク運搬犬と言えば、かの有名なフランダースの犬がありますが、この話はあまりに悲しいので、私は好きではありません。

 もう一つは、幕末以降盛んになった蝦夷地開拓により、樺太アイヌなどの北方民族が使っていた犬ぞりの文化も日本に入ってきたようです。
図5:大泊(樺太)の荷役犬
 ここのサイトに犬ぞりについていろいろと記事が載っています。また、精悍な犬ぞり用の犬も各種写真がありますね。私は下の写真の犬種が気に入りました。
図6:そり犬サモエド
 サモエドって言うのですか、もこもこですね。ちょっともふもふしてみたいです。

で、その後、日本でも各地で犬が荷役用や軍用などに使われるようになって行ったようです。まあ、どこまで真剣に荷役に使ったのかは分かりません。図7の例などは半分は話題作り(=宣伝)のためのような感じも受けますが、図8などはかなりガチな印象を受けます。図8は貨物駅のように見えますね。貨物駅で貨車から荷下ろしをして、反対側につけた犬車に載せ替えて目的地まで運んだのでしょうかね?
図7:ビア樽を運ぶシェパード
図8:中部日本の輓曳(ばんえい)犬(昭和9年)
使役犬のもう一つの流れは軍用犬ですね。どの程度役に立ったのかわかりませんが、戦場にも犬たちが出征していきました。
図9:兵士と軍用犬
図10:防毒面を装着した軍用犬(毒マスクをかけて脚側停座)
図10はドイツの写真のようです。第一次世界大戦では毒ガス戦が行われましたので、軍用犬にもこういった装備が適用されたのでしょう。ご苦労なことです。毒ガスに限らず戦場で命を落とした軍用犬たちも少なくなかったものと思われます。

そういえば、昨年海外出張したときの機内で、アフガニスタンの戦場でハンドラーを亡くしてPTSDになってしまった軍用犬と心の病を抱えた少年(ハンドラーの弟)との交流を描く映画「MAX」を少し見ていました(実は眠くて途中で眠ってしまったのですが)。犬と言えどもPTSDになるんだなぁ。犬の演技も素晴らしかった。
働く犬たちの事をいろいろと書きましたが、今日も当マンションの「お犬様」たちは従者を従えて優雅にお散歩をなさっていることと思われます。

2016年4月16日土曜日

天災は忘れたころにやってくる

2016年(平成28年)4月14日21時26分(JST)頃に、熊本県熊本地方を震源とする、マグニチュード6.5(暫定値)・最大震度7地震が発生。気象庁はこの地震を「平成28年(2016年)熊本地震」と命名し、4月15日に発表しました。突然の大地震、しかも最大震度7ということで、震撼しているうちに、立て続けに大きな余震そして、4月16日午前1時25分には本震とみなされるマグニチュード7.3の地震が発生しています。JJの住んでいる横浜でも本震については揺れを感じました。

 ニュース映像で被害の状況を目にするにつけ、胸が痛みます。また今現在すでに30名以上の尊い人命が喪われた事に深く哀悼の意を表します。

2011年3月11日の東日本大震災から5年が経過し、地震の記憶も薄れかけていましたが、今回の熊本地震を見て、やはり地震はいつ起こるかわからないものだなと、改めて感じました。

日本にいかに地震が多いかというとこのサイトにまとめられていますが、世界中で発生するマグニチュード6以上の地震の20%はなんと日本に集中しているそうです。日本はユーラシア大陸の端なので、色々なプレート(ユーラシア、北米、太平洋、フィリピン海)がぶつかり合って、地震が発生しやすいようです。またプレート境界以外にも活断層(これもプレートのぶつかりあいが原因で発生するのでしょうが)が至る所にあり、活断層でも地震が発生します。今回の熊本地震はプレートではなく活断層が原因とされています。

日本は美しい島国で気候も良いのですが、自然災害は非常に多いですね。地震に限らず風水害も毎年この国を襲います。しかし、自然災害も戦災も乗り越えてきた日本人には、我慢強く乗り越えるだけの強さが備わっています。この国に暮らす以上は宿命ですので、災害には日ごろから備えておかなければいけませんね。

そんなことを思い起こさせてくれた地震でした。

タイトルの「天災は忘れた頃にやってくる」という文言は、明治から昭和初期にかけて活躍した物理学者の寺田寅彦の言葉と言われています。単純にして深い言葉ですね。しかも五七五の形式を取っていますので、警句としても語呂が良く覚えやすいです(俳句や川柳とは呼べないかもしれませんが)。寺田は随筆を良くし、夏目漱石とも親交があったので、俳句の素養もあったのでしょう。「天文と俳句」という一文も著しています。ちなみに青空文庫に上がっていますので、リンク先で読むことができます。

下表は2016年熊本地震で発生した規模の比較的大きい地震のリストです。これ以上増えないことを祈ります。


発生日時 震央 震源の
深さ
地震の
規模
最大震度
前震 4月14日(木)21時26分頃 熊本地方(北緯32.7度、東経130.8度) 10km M6.5 7 益城町
4月14日(木)22時7分頃 熊本地方(北緯32.8度、東経130.8度) 10km M5.7 6弱 益城町
4月14日(木)22時38分頃 熊本地方(北緯32.7度、東経130.7度) 10km M5.0 5弱 宇城市
4月15日(金)0時3分頃 熊本地方(北緯32.7度、東経130.8度) 10km M6.4 6強 宇城市
4月15日(金)1時53分頃 熊本地方(北緯32.7度、東経130.8度) 10km M4.8 5弱 山都町
本震 4月16日(土)1時25分頃 熊本地方(北緯32.8度、東経130.8度) 10km M7.3 6強 南阿蘇村 菊池市 大津町 宇城市
合志市 熊本市中央区・東区・西区

余震 4月16日(土)1時44分頃 熊本地方(北緯32.8度、東経130.8度) 10km M5.3 5弱 玉名市 大津町 熊本市西区・北区
4月16日(土)1時46分頃 熊本地方(北緯32.9度、東経130.9度) 20km M6.0 6弱 菊陽町 合志市 熊本市東区
4月16日(土)3時3分頃 阿蘇地方(北緯33.0度、東経131.1度) 20km M5.8 5強 阿蘇市 南阿蘇村
4月16日(土)3時55分頃 阿蘇地方(北緯33.0度、東経131.2度) 10km M5.8 6強 産山村
4月16日(土)7時23分頃 熊本地方(北緯32.8度、東経130.8度) 10km M4.8 5弱 熊本市東区
4月16日(土)9時48分頃 熊本地方(北緯32.9度、東経130.8度) 10km M5.4 6弱 菊池市
4月16日(土)16時2分頃 熊本地方(北緯32.8度、東経130.8度) ごく浅い M5.3 5弱 嘉島町 宇城市 熊本市西区

2016年3月20日日曜日

台徳院霊廟の精巧な模型を見てきました

3月20日(日)今年はうるう年なので、今日が春分の日です。いつもお彼岸には麻布にある菩提寺に墓参りに行くのですが、今日は天気も良かったので、墓参りの後、花粉の事は気になりましたが、芝の増上寺まで歩いて行くことにしました。もちろん前回のブログで触れた、台徳院霊廟の精巧な模型を見に行くためです。

写真1:三縁山増上寺・三解脱門
写真1は元和8年(1622年)に建てられた増上寺の山門(三解脱門)、久しぶりに来ましたが、相変わらず立派ですね。手前に移っている築地塀がまた良いですね。三解脱門は日比谷通りに威容を誇っていますが、おそらく都内でも一番古い部類の建物だと思います。徳川将軍家の菩提寺の一つとして(もう一つは寛永寺)幕府の手厚い庇護を受けた増上寺の大伽藍は、徳川将軍たちの霊廟群とともに、残念なことに昭和20年年5月の山手空襲で灰燼に帰してしまいました。今では日比谷通り沿いに三解脱門をはじめいくつかの門を残すのみです。


写真2:昭和22年の増上寺
今更第二次世界大戦中の空襲に恨みつらみは言いたくないですが、まったくひどいものです。空襲も矢鱈滅法焼き払ったのでは無く、きちんとした計画に基づき目標を狙って攻撃したいましたので、増上寺もターゲットだったということなのでしょう。何とも野蛮だと思います。

 写真2が昭和22年の増上寺上空から撮影された航空写真です。ちょっと見にくいかもしれませんが、中央やや右上が三解脱門、その右側に上下に走っているのが日比谷通りです。台徳院霊廟があったのは三解脱門の南側で、現在はプリンスパークタワーの東口あたりになっています。

 
写真3:台徳院霊廟惣門(裏側)
台徳院 の惣門は今も残っており、先日のブログ記事にも写真を載せましたが、どうも東向きの門を午後に撮影すると逆光でうまく撮れないので、今日撮影した裏側の写真を載せておきます。

写真4:増上寺宝物展示室入口
さて、はやる心を押さえつつ、増上寺宝物展示室へ行ってみました。展示室は本堂の地下にありますので、本堂の右側の階段を下りていきます。入場料は700円。徳川家墓所入場券と共通チケットだと1,000円です。墓所は以前見たので、今回はパスです。写真は撮影可能か受付で聞いたのですが、残念ながら撮影は禁止とのことで、写真はありません。このリンクに多少模型の写真がありますので、ご参照ください。

模型は非常に精巧なもので、単なる模型製作者が作ったものではなく、制作当時(明治43年)の各分野の最高の職人を集めて、東京美術学校(現東京藝術大学)教授の監修の元、精密に再現されたものでした。模型は外観だけではなく、内装まで正確に再現されており、その美しさも息をのむものです。特に本殿内部は金箔押しの壁上に極楽浄土を表す蓮華が描かれており、非常に美しいものです。肘木などの複雑な木組みも実物そのままに再現されており、さらに、日光東照宮でもおなじみの木彫や彩色が施されています。日光東照宮の建設(寛永13年1636年)の前に台徳院霊廟が建設(寛永9年1632年)され、台徳院霊廟が日光東照宮の造作に影響を及ぼしたといわれています。

さて、この模型が日本に長期貸与されてから実際に展示される(2015年4月2日)までの間、専門の修復者による清掃と修復作業が行われており、展示室では模型製作当時の美しさで鑑賞するだけでなく、修復作業をまとめたビデオを見ることもできます。私のつたない文章では、その素晴らしさを伝えられないので、ぜひ実物の展示をご覧いただければと思います。

写真5:焼失前の台徳院霊廟・惣門から奥の勅額門を望む
模型の写真は撮影できなかったのですが、代わりに戦前に撮影された絵葉書セットを貰いました。写真5は台徳院霊廟惣門から奥の勅額門を撮影したものです。模型の前面にある門は惣門でも勅額門でもなく、さらに奥の中門ということで、霊廟がいかに壮大だったのか、そのスケールが分かります。 下図は創建間もないころに描かれたものと思われます。奥の方の塀に囲まれている部分が模型の範囲です。
江戸図屏風(17世紀)に描かれた台徳院霊廟

実は台徳院霊廟は空襲で完全に焼けてしまったわけではなく、惣門の他にも勅額門、丁子門、御成門が残っていましたが、これらの建物は、戦後重要文化財に指定され、惣門以外は埼玉県狭山市に移設されました。移設先は当初はユネスコ村と呼ばれ、現在は狭山不動尊と呼ばれているようです。写真6,7,8に狭山不動尊に移設された建物の写真を上げますが、リンクが切れると表示されなくなるかもしれません。
写真6:狭山不動尊に残る勅額門
写真7:同丁子門

写真8同御成門
増上寺の北半分は戦後東京プリンスホテルに、南端部はプリンスパークタワーになっていることや、移設先などを考えると、西武グループの影響を強く感じますね。移設には堤義明氏がかかわったようですが、東京プリンスホテルがらみの話は父親の堤康次郎の仕事でしょうね。
写真9:本日の増上寺境内
 増上寺は桜の名所としても名をはせておりますが、残念ながら染井吉野はまだ開花しておらず、枝垂桜が少し咲き始めたところでした。来週末ごろには桜も見ごろになるのではないかと思われます。この後、増上寺から浜松町駅の方に歩いて行く途中で、何人もの外国人観光客とすれ違いました。芝離宮から増上寺にかけてが観光おすすめコースなのかも知れません。



2016年3月13日日曜日

空襲で焼失した増上寺の台徳院霊廟だが精巧な模型があったんだ

2010年8月10日に「江戸の面影・芝増上寺」というブログ記事を書きました。リンクはここです。この記事を書いたのはもう5年半も前の事ですが、記事の中で、戦前にあった徳川家の霊廟の事も触れました。戦前はこの地に6名の徳川将軍の壮大な霊廟があり、旧国宝に指定されていました。現在残されていたら間違いなく世界遺産に指定されていたはずですが、残念なことに大戦中に昭和20年5月の空襲で焼失してしまいました。ただ、ごく一部、たとえば台徳院(二代将軍秀忠)霊廟の惣門は残されており、日比谷通りに面した場所に現在も威容を誇っています。
台徳院霊廟の惣門

 霊廟は非常に立派なもので、日光の東照宮を上回るものだったといわれていますが、現在その姿を残すものは戦前に撮影されたモノクロ写真のみとなっていた...はずでした。
有章院(徳川家継)霊廟
元の記事を書いていた当時は、勤務先が増上寺の近くだったので、昼休みなどには良く境内を散歩したものでした。そういうわけで何か催しがあれば、すぐに気が付いたのですが、その後勤務先が変わったこともあり、増上寺とは疎遠のまま数年が過ぎてしまいました。で、なにげなくGoogleで増上寺に関して検索していたところ、驚くような記事を発見しました。


 国宝「台徳院殿霊廟」空襲で消失→「まさか…」英国で国宝級の精巧模型発見→増上寺で日本初公開という産経ニュースの記事(2015年4月10日付け)です。

 詳細はリンク先を読んでほしいのですが、記事自体が削除されてしまう可能性もあるので、概要をここに記載します。

1920年(明治43年)に日英博覧会が英国ロンドンで開催され、それに出展するために東京市が東京美術学校(現在の東京藝術大学)に依頼して台徳院霊廟の模型を製作させたものだそうです。博覧会終了後。模型は英国王室に献上されたのですが、その後第二次世界大戦の戦火を逃れるためにロンドンの北西約200Kmの片田舎の倉庫に収納され、忘れ去られていたそうです。それをオーストラリア人の建築史学者ウィリアム・コールドレイク教授が1996年に発見したとあります。
この模型は10分の1スケールで作られている為、かなり大型で幅4メートル奥行5メートル高さ2メートルということです。制作には東京美術学校教授であった高村光雲もかかわっていたとのことで、かなり精巧に作られているようです。上の方に写真を載せた惣門もしっかりと再現されているのが分かります。(模型の方はスケルトンになっている感じはしますが)

発見された模型
 コールドレイク教授はキリスト教宣教師の両親の元1952年に日本で生まれ現在は東京大学の特任教授をされているそうです。

この模型は日本に長期貸与されることが決まり、昨年(2015年4月2日)に開館した増上寺宝物展示室に展示されているそうです。これはさっそく見に行かなくては。 見てきたらまたブログを書きます。

2016年3月12日土曜日

加賀鳶を歌舞伎にした河竹黙阿弥という人 ~江戸から明治へ~


加賀鳶の話ついでに..

加賀鳶を歌舞伎の芝居として登場させた盲長屋梅加賀鳶は初演が明治19年。芝居を書いたのが河竹黙阿弥文化13年2月3日1816年3月1日) - 明治26年(1893年1月22日)という歌舞伎狂言作者です。詳しい来歴はリンク先のWikipedia記事を読んでください。もともとは二代目河竹新七と名乗っていたのですが、ある理由で黙阿弥と名乗るようになりました。

河竹黙阿弥
この人は幕末から明治にかけて活躍した狂言作者で、白波(盗賊)ものなどで現在でも演じられる多くの名作を残しています。個人的には幕末に書かれた四代目市川小團次との提携による『三人吉三廓初買』(三人吉三)(安政7年1860年)や十三代目市村羽左衛門(五代目尾上菊五郎)のための『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)(文久2年1862年)あたりが好きですね。特に黙阿弥調とも呼ばれる七五調を連ねた台詞回しにはしびれるものがあります。

特に三人吉三廓初買の 「大川端庚申塚の場」でお嬢吉三が夜鷹を川に突き落として百両を奪った後の科白「厄払い」は名科白であります。
月も朧(おぼろ)に 白魚の
(かがり)も霞(かす)む 春の空
冷てえ風も ほろ酔いに
心持ちよく うかうかと
浮かれ烏(からす)の ただ一羽
ねぐらへ帰る 川端で
竿(さお)の雫(しずく)か 濡れ手で粟(あわ)
思いがけなく 手に入る(いる)百両
(舞台上手より呼び声)御厄払いましょう、厄落とし!
ほんに今夜は 節分か
西の海より 川の中
落ちた夜鷹は 厄落とし
豆だくさんに 一文の
銭と違って 金包み
こいつぁ春から 縁起がいいわえ
『三人吉三廓初買』の序幕「大川端庚申塚の場」(三代目歌川豊国画)
 百両と言えば、今でいうと1,000万円くらいにはなるでしょうか(幕末なのでもう少し少ないかも。でも数百万円にはなるでしょう)。夜分に女性を川に突き落として大金を奪う(強盗傷害、場合によっては致死)など、本当にひどい話ではありますが、まあこれは芝居の中ということでご勘弁を。現代は便利なものでYoutubeで、この名調子を聞くことができます。ここにリンクを貼っておきます

二代目河竹新七は明治に入っても筆は衰えることはなく、数々の狂言を世に送り出していたのですが、若干世の中の風向きは変わってきたようです。それが演劇改良運動ということで、Wikipediaの記事では

「明治時代に入って文明開化の世となり、西洋の演劇に関する情報も知られるようになると、歌舞伎の荒唐無稽な筋立てや、興行の前近代的な慣習などを批判する声が上がった。1872年(明治5年)歌舞伎関係者が東京府庁に呼ばれ、貴人や外国人が見るにふさわしい道徳的な筋書きにすること、作り話(狂言綺語)をやめることなどを申し渡された。」

とあります。なんだか無粋な話ですね。さらに

文明国の上流階級が見るにふさわしい演劇を主張し、女形の廃止(女優を出演させる)、花道の廃止、劇場の改良、芝居茶屋との関係見直しなどを提言し..」

 とあります。「文明国の上流階級が見るにふさわしい」という表現に思わず失笑を禁じえません。まあ西欧列強国から馬鹿にされないために、明治の官員さんにとっては死活問題だったのでしょう。

鹿鳴館での舞踏会風景
 一方、二代目河竹新七は元々九代目市川團十郎のためにも狂言を書いていたのですが、九代目が新聞記者出身の福地桜痴などと本格的に演劇改良運動に取り組み始めると、これに嫌気がさして筆を折ってしまいます。そして名前も「黙阿弥」と称して、表舞台からは一歩退きました。が、他の狂言作家の助筆として書き続けていたようです。

このような経緯の中でも彼の評価は衰えず、その後、演劇改良運動が失敗に終わると、名を黙阿弥改メ古川黙阿弥と称し、また表舞台に戻ってきました。そうして書かれた盲長屋梅加賀鳶の初演は、復活後の明治19年3月(1886年)の事です。江戸から東京に変わり、すでに18年の歳月が流れています。

明治維新以降、旧来の文化が否定されるも、やはり価値のある伝統は復活するものなんですね。似たような話が美術界にもありますので、いずれ筆を執りたいと思います。筆と言ってもキーボードを打つのですが(笑)これも伝統的な表現ですね。

2016年3月6日日曜日

朱引きと墨引き ~江戸の境界~

昨日の投稿で「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」という川柳をご紹介しましたが、これは中山道の本郷三丁目にあった「かねやす」小間物店あたりまでは都会的な瓦屋根で、そこから下ると板葺や茅葺屋根に変わることを喩えたものであり、実際に江戸の行政区分の境界の事を言っていたわけではありません。それでは、実際の行政区分として、江戸の領域はどこまでを言うものだったのでしょう。
図1 雪の日本橋
 江戸の範囲は当初二里四方、後に四里四方などと言われていましたが、実際にははっきり決まっていなかったようです。江戸近郊は全て幕府の天領(直轄地)だったことや、土地によって管轄が異なる(町人地は町奉行、寺社は寺社奉行、武家地は目付や大目付など)事や、そのほかにも細かい規定(江戸曲輪内から四里以上離れる場合は旗本は届を出す必要があるとか、江戸払いの者は四宿以内と本所深川には入れないなど)がありました。

これでは不便だということで、文政元年(1818年)の8月に目付だった牧助右衛門が「御府内外境筋之儀」についての伺いを幕府に出しました。これは「どこからどこまでが江戸なのという問い合わせを受けても目付の方に書き物がなく、調べても統一的なものがないので、はっきりさせてくれ。」というものだったそうです。

これを受けて幕府評定所の方で入念な評議が行われ、同年12月に老中阿部正精から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の正式見解が示されました。現代語でいうと、「別紙の地図上の朱引き(赤線)内が御府内(江戸内)である。」ということです。で、別紙の地図が図2(東京都公文書館所蔵の旧江戸朱引内図)です。

図2 旧江戸朱引内図
 なんだかちょっと分かりずらいのですが、東が上になっていますので、右に90°回転させると現代の地図に近い方向になります。朱引きの他に黒線が描き込まれていますが、こちらは墨引きと呼ばれて、町奉行の管轄範囲を示しています。一部目黒のあたりで、墨引きが朱引きからはみ出している部分(目黒不動のあたり)がありますが、他はおおむね朱引きの範囲内に収まっています。

朱引の範囲を大まかに言えば
  • 東…中川限り
  • 西…神田上水限り
  • 南…南品川町を含む目黒川辺
  • 北…荒川・石神井川下流限り
 ということになります。江戸四宿(千住、板橋、内藤新宿、品川)は朱引の範囲内なので、一応御府内です。図2だと分かりにくいので、現代の地図に重ねて引いてみると図3のようになります。
図3 現代版朱引き墨引き地図
 こうやって見るとだいぶイメージが湧きますね。老中から出てきたのはずいぶんと大雑把な線でしたが、実際は細かい凸凹が多く見られます。伊能図の完成が文政4年(1821年)なので、まだ正確な地図がなかったこともあるでしょうが、国防上の理由からわざと不正確な縮尺の地図を使っていたのかもしれませんね。

こちらのリンク先にもう少しわかりやすい朱引図が掲載されていますので、併せてご確認ください。図4がリンク先の地図になります。リンク先に目黒不動がなぜ墨引き内だったのか説明があり、大変参考になります。(注:リンクが切れると図4は表示されなくなるかもしれません。)

図4 現代版朱引き図(主要な地名入り)
私の出身地である墨田区北部(スカイツリーの近く)は墨引きの範囲外ではありますが、朱引き内には入っていたので、少し安心しました。でも江戸当時は郊外の田園地帯だったと思います。墨田区北部に人口が急増したのは大正12年の関東大震災以降と、昔聞いたことがあります。

ということで今日は江戸の境界についてまとめてみました。

2016年3月5日土曜日

本郷もかねやすまでは江戸の内

前回は本郷の盲長屋の話を書きましたが、その盲長屋のすぐ近く、本郷三丁目の交差点の所に「かねやす」という店があります。今日はその「かねやす」のお話です。

図1現代の本郷三丁目
図1は現代の本郷三丁目付近の地図です。前回も掲載しました。地図の下の方を東西に走っているのが今の春日通り(江戸当時は本富士通りと呼ばれていたようです。)で東に行くと坂を下って湯島を通り御徒町に出ます。地図の左の方を上下に走っているのが本郷通りまたは国道17号線(江戸当時の中山道) でその交差点が、今でいう本郷三丁目の交差点です。それで、交差点の南西の角に「かねやす」と書かれているのが分かると思います。

 ここに「かねやす」という雑貨店があったのですが、最近はいつ行ってもシャッターが閉まっており、店は閉店してしまったのかもしれません。「かねやす」は400年以上もの歴史があり、タイトルにある川柳にも詠まれています。

いわれはWikipediaにありますのでリンクを張っておきます

まあ、簡単に要約すると、その昔京都に兼康祐悦(かねやすゆうえつ)という名前の歯医者がおり、徳川家康の江戸入府に伴い、江戸についてきたそうです。元禄年間になって「乳香散」という名前の歯磨き粉を販売したが、それが人気を博し、ここ本郷三丁目の地に「兼安」という小間物店を開いたそうです。さらに「乳香散」が売れまくったので、のれん分けをして別の「兼安」が芝に開店したそうです。後に本郷の店と芝の店が本家争いをした時に、時の町奉行である大岡忠助が、「芝は「兼安」本郷は「かねやす」を名乗るように」との大岡裁きで本郷の店はひらがなの「かねやす」になったそうです。

加賀鳶として加賀金沢藩の藩邸に出入りしていた、我がご先祖の巳之助はこの「かねやす」で歯磨き粉でも買っていたかもしれないと思うと不思議な感じです。買い物はしていなかったかも知れないですが、加賀鳶詰所から目と鼻の先にある有名な小間物屋だったので、知らなかったことはないでしょう。

図2かねやすのプレート
で、その後..(Wikipediaの記事を引用)..「享保15年、大火事が起こり、復興する際、大岡忠相は本郷の「かねやす」があったあたりから南側の建物には塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根茅葺きを禁じ、で葺くことを許した。このため、「かねやす」が江戸の北限として認識されるようになり、「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」の川柳が生まれた。」とのことであります。

昨日、用事があって本郷三丁目まで出かけたのですが、 「かねやす」は現在は7階建てのかねやすビルになっています。1階には「かねやす」の店はあるものの、シャッターが閉まっていました。でもビルの端の所にはしっかりとこの川柳といわれの書かれたプレートが取り付けられていました。

大岡越前守忠助の命により、「かねやす」よりも南側では茅葺屋根が禁じられたということですが、板葺は許されたのでしょうかね?すべて瓦葺の建物ばかりだと江戸の町もかなり壮観だったのでしょう。実際残された幕末の写真を見ると、特に大名屋敷街は壮観だったようです。

図3幕末の大名屋敷街(愛宕山から浜御殿方面
 図3は幕末にフェリーチェ・ベアトという写真家が撮影したもので、愛宕山から東方向の写真です。遠くに見える森は浜御殿(今は浜離宮恩賜庭園と呼ばれていますが..)手前に立派な大名屋敷が並んでいますね。当時の地図を見ると、手前の塀の向こうは左側が御老中越後長岡藩牧野備前守様の下屋敷。右の方にあるのが(写真からははみ出しているかもしれませんが)大和小泉藩片桐石見守様の上屋敷のようです。その奥が伊予松山藩の松平隠岐守様の上屋敷。そんな感じで浜御殿までお屋敷が延々と続きます。幕末に江戸を訪れた海外の人々も、江戸のスケールに相当驚いたことだと思います。

図4愛宕山からのパノラマ写真
実は図3の写真はパノラマ写真になっていて全体像が図4です。ちょっと細かくて見ずらいので中央部分だけを取り出したのですが。図4には果てしなく広がるかに見える壮大な大名屋敷群が見て取れると思います。左の奥の方に築地本願寺の本堂も映っています。

ということで今日は江戸の町に思いを馳せてみました。

PS.投稿後本件に関連する画像を追加で見つけたので上げておきます。


図5本郷カネヤス店頭の賑わい
図5は「かねやす」が集客のために作った双六を兼ねたチラシの一部です。宣伝用なので、当時本当にこんなに賑わっていたのか真相は不明ですが..洋傘を差したご婦人の姿や上の方に西洋式の建物が描かれたりしているので、明治期のものと推定されます。「大うり多し(大売出し)」と書いてあるのが何だか微笑ましいです。

図6乳香散の引き札(ちらし)
図6は「かねやす」の人気商品である乳香散のチラシですね。「口中一切之薬」と書いてあるのが分かります。