2016年3月6日日曜日

朱引きと墨引き ~江戸の境界~

昨日の投稿で「本郷も かねやすまでは 江戸のうち」という川柳をご紹介しましたが、これは中山道の本郷三丁目にあった「かねやす」小間物店あたりまでは都会的な瓦屋根で、そこから下ると板葺や茅葺屋根に変わることを喩えたものであり、実際に江戸の行政区分の境界の事を言っていたわけではありません。それでは、実際の行政区分として、江戸の領域はどこまでを言うものだったのでしょう。
図1 雪の日本橋
 江戸の範囲は当初二里四方、後に四里四方などと言われていましたが、実際にははっきり決まっていなかったようです。江戸近郊は全て幕府の天領(直轄地)だったことや、土地によって管轄が異なる(町人地は町奉行、寺社は寺社奉行、武家地は目付や大目付など)事や、そのほかにも細かい規定(江戸曲輪内から四里以上離れる場合は旗本は届を出す必要があるとか、江戸払いの者は四宿以内と本所深川には入れないなど)がありました。

これでは不便だということで、文政元年(1818年)の8月に目付だった牧助右衛門が「御府内外境筋之儀」についての伺いを幕府に出しました。これは「どこからどこまでが江戸なのという問い合わせを受けても目付の方に書き物がなく、調べても統一的なものがないので、はっきりさせてくれ。」というものだったそうです。

これを受けて幕府評定所の方で入念な評議が行われ、同年12月に老中阿部正精から「書面伺之趣、別紙絵図朱引ノ内ヲ御府内ト相心得候様」と、幕府の正式見解が示されました。現代語でいうと、「別紙の地図上の朱引き(赤線)内が御府内(江戸内)である。」ということです。で、別紙の地図が図2(東京都公文書館所蔵の旧江戸朱引内図)です。

図2 旧江戸朱引内図
 なんだかちょっと分かりずらいのですが、東が上になっていますので、右に90°回転させると現代の地図に近い方向になります。朱引きの他に黒線が描き込まれていますが、こちらは墨引きと呼ばれて、町奉行の管轄範囲を示しています。一部目黒のあたりで、墨引きが朱引きからはみ出している部分(目黒不動のあたり)がありますが、他はおおむね朱引きの範囲内に収まっています。

朱引の範囲を大まかに言えば
  • 東…中川限り
  • 西…神田上水限り
  • 南…南品川町を含む目黒川辺
  • 北…荒川・石神井川下流限り
 ということになります。江戸四宿(千住、板橋、内藤新宿、品川)は朱引の範囲内なので、一応御府内です。図2だと分かりにくいので、現代の地図に重ねて引いてみると図3のようになります。
図3 現代版朱引き墨引き地図
 こうやって見るとだいぶイメージが湧きますね。老中から出てきたのはずいぶんと大雑把な線でしたが、実際は細かい凸凹が多く見られます。伊能図の完成が文政4年(1821年)なので、まだ正確な地図がなかったこともあるでしょうが、国防上の理由からわざと不正確な縮尺の地図を使っていたのかもしれませんね。

こちらのリンク先にもう少しわかりやすい朱引図が掲載されていますので、併せてご確認ください。図4がリンク先の地図になります。リンク先に目黒不動がなぜ墨引き内だったのか説明があり、大変参考になります。(注:リンクが切れると図4は表示されなくなるかもしれません。)

図4 現代版朱引き図(主要な地名入り)
私の出身地である墨田区北部(スカイツリーの近く)は墨引きの範囲外ではありますが、朱引き内には入っていたので、少し安心しました。でも江戸当時は郊外の田園地帯だったと思います。墨田区北部に人口が急増したのは大正12年の関東大震災以降と、昔聞いたことがあります。

ということで今日は江戸の境界についてまとめてみました。

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