2016年3月12日土曜日

加賀鳶を歌舞伎にした河竹黙阿弥という人 ~江戸から明治へ~


加賀鳶の話ついでに..

加賀鳶を歌舞伎の芝居として登場させた盲長屋梅加賀鳶は初演が明治19年。芝居を書いたのが河竹黙阿弥文化13年2月3日1816年3月1日) - 明治26年(1893年1月22日)という歌舞伎狂言作者です。詳しい来歴はリンク先のWikipedia記事を読んでください。もともとは二代目河竹新七と名乗っていたのですが、ある理由で黙阿弥と名乗るようになりました。

河竹黙阿弥
この人は幕末から明治にかけて活躍した狂言作者で、白波(盗賊)ものなどで現在でも演じられる多くの名作を残しています。個人的には幕末に書かれた四代目市川小團次との提携による『三人吉三廓初買』(三人吉三)(安政7年1860年)や十三代目市村羽左衛門(五代目尾上菊五郎)のための『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)(文久2年1862年)あたりが好きですね。特に黙阿弥調とも呼ばれる七五調を連ねた台詞回しにはしびれるものがあります。

特に三人吉三廓初買の 「大川端庚申塚の場」でお嬢吉三が夜鷹を川に突き落として百両を奪った後の科白「厄払い」は名科白であります。
月も朧(おぼろ)に 白魚の
(かがり)も霞(かす)む 春の空
冷てえ風も ほろ酔いに
心持ちよく うかうかと
浮かれ烏(からす)の ただ一羽
ねぐらへ帰る 川端で
竿(さお)の雫(しずく)か 濡れ手で粟(あわ)
思いがけなく 手に入る(いる)百両
(舞台上手より呼び声)御厄払いましょう、厄落とし!
ほんに今夜は 節分か
西の海より 川の中
落ちた夜鷹は 厄落とし
豆だくさんに 一文の
銭と違って 金包み
こいつぁ春から 縁起がいいわえ
『三人吉三廓初買』の序幕「大川端庚申塚の場」(三代目歌川豊国画)
 百両と言えば、今でいうと1,000万円くらいにはなるでしょうか(幕末なのでもう少し少ないかも。でも数百万円にはなるでしょう)。夜分に女性を川に突き落として大金を奪う(強盗傷害、場合によっては致死)など、本当にひどい話ではありますが、まあこれは芝居の中ということでご勘弁を。現代は便利なものでYoutubeで、この名調子を聞くことができます。ここにリンクを貼っておきます

二代目河竹新七は明治に入っても筆は衰えることはなく、数々の狂言を世に送り出していたのですが、若干世の中の風向きは変わってきたようです。それが演劇改良運動ということで、Wikipediaの記事では

「明治時代に入って文明開化の世となり、西洋の演劇に関する情報も知られるようになると、歌舞伎の荒唐無稽な筋立てや、興行の前近代的な慣習などを批判する声が上がった。1872年(明治5年)歌舞伎関係者が東京府庁に呼ばれ、貴人や外国人が見るにふさわしい道徳的な筋書きにすること、作り話(狂言綺語)をやめることなどを申し渡された。」

とあります。なんだか無粋な話ですね。さらに

文明国の上流階級が見るにふさわしい演劇を主張し、女形の廃止(女優を出演させる)、花道の廃止、劇場の改良、芝居茶屋との関係見直しなどを提言し..」

 とあります。「文明国の上流階級が見るにふさわしい」という表現に思わず失笑を禁じえません。まあ西欧列強国から馬鹿にされないために、明治の官員さんにとっては死活問題だったのでしょう。

鹿鳴館での舞踏会風景
 一方、二代目河竹新七は元々九代目市川團十郎のためにも狂言を書いていたのですが、九代目が新聞記者出身の福地桜痴などと本格的に演劇改良運動に取り組み始めると、これに嫌気がさして筆を折ってしまいます。そして名前も「黙阿弥」と称して、表舞台からは一歩退きました。が、他の狂言作家の助筆として書き続けていたようです。

このような経緯の中でも彼の評価は衰えず、その後、演劇改良運動が失敗に終わると、名を黙阿弥改メ古川黙阿弥と称し、また表舞台に戻ってきました。そうして書かれた盲長屋梅加賀鳶の初演は、復活後の明治19年3月(1886年)の事です。江戸から東京に変わり、すでに18年の歳月が流れています。

明治維新以降、旧来の文化が否定されるも、やはり価値のある伝統は復活するものなんですね。似たような話が美術界にもありますので、いずれ筆を執りたいと思います。筆と言ってもキーボードを打つのですが(笑)これも伝統的な表現ですね。

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