2010年1月30日土曜日

本日の横浜港

今日は大黒埠頭に自動車専用船が4隻停泊中。需要の回復を象徴するようで、見ていて嬉しくなりますね。

2010年1月24日日曜日

週末のお散歩


横浜バラクライングリッシュガーデンまで徒歩で往復しました。結構歩いて運動にはなりました。庭はまだ養生中で、春には花も咲き揃うでしょうね。

2010年1月20日水曜日

秋葉原の思い出

<この文章は初出ではなく何年か前に某誌で発表したものです>

火事と喧嘩は江戸の華」とはよく言ったもので、江戸の町は実に火事が多かったようである。享保年間(18世紀初頭)には、参勤交代で入替わる武家人口も加えると人口は百万人を超え、当時世界第一の大都会だった江戸の町は、密集した木造建築の山だったのだから、ひとたび火事が出ればたまらない。あっという間に燃え広がってしまうのである。有名な明暦の大火(俗に言う振袖火事)をはじめとして、江戸の大半を焼き尽くす大火は10回をくだらない。当時の消火活動というのは、火事の前には無力で、基本的には燃え広がる先に回って建物を破壊し、延焼を防ぐ程度のものであった。また、予防的な意味で要所要所には広小路や火除地といわれる延焼防止のための空き地を設けるようになった。

この状況は明治になってもすぐには変わらず、維新後の東京も相変わらず火事に悩まされた。明治二年には神田相生町から出火し、佐久間町など1,100戸が消失する大火があった。当時の神田佐久間町周辺は人家が密集しており火事が多く、「あくま町」などとあだ名されていたようである。そこで、当時東京府の大木知事は焼け跡の住民を立ち退かせ、跡地に火除地を造成し、そこに火伏せの神様である秋葉大権現を祀った。ここが江戸っ子の間で「アキバッパラ」と呼ばれ遊び場として親しまれていた。その後、明治23年日本鉄道(現在のJR東日本東北本線)が上野から当地に延伸し、「秋葉原」という駅名を命名されたのである。これが秋葉原の始めである。私の先祖は江戸時代から湯島天神の近くに住んでいたので、何代か前にこの経緯を目撃しているかもしれないと思うと不思議な感じはする。

さて話は戻って、秋葉大権現建立の後、文明開化の熱気が覚めやらぬ明治16年には東京電灯会社が設立され、その4年後には茅場町に最初の火力発電所が設立されるなど、富国強兵の流れの中で、電気が果たす役割は次第に大きくなっていった。また、大正14年にラヂオ放送が開始されると、電気の持つ可能性は照明や動力の他に情報という分野へと、さらに増大していった。このような状況の中で、電気材料を扱う電気材料卸商が都内各地に出現するようになった。戦前の秋葉原にも広瀬無線・山際電気・高岡電気・中川無線などがあったが、電気材料卸が特にこの地域に集積しているとは言えず、電気街と呼ぶには程遠かった。(戦前はどちらかというと自転車商が集積する街だったと言う話を聞いたことがあるが今回確認できなかった。)そのうち、戦局の悪化とともに次第に商品の入手が困難となり、やがて昭和20年の東京大空襲を迎え焼け野原となる。秋葉原が電気街として発展するのは大東亜戦争の後のことである。

終戦後、わずか数年のうちに秋葉原は電気の街に変貌して行った。戦前からの電気材料卸商が再開した店もあり、また、新規に起業した店もあった。一説によれば、広瀬無線が地方に取引先を多く抱え、多くの人々が材料の仕入れに集まってきたことや、路面電車を中心とした、交通の便が良かったこと(これは後述する)、秋葉原は安いといううわさが広まったこと、また、近所にあった今の東京電機大学の学生がラヂオを組み立てて露店で販売していたりといった事情があったようである。その後のテレビブームから家電ブームへと高度成長時代の中で秋葉原が発展して行った状況は私が書くまでも無いであろう。



私がこの街に最初に足を踏み入れたのは、小学生の頃だった。それは、父親の仕事に使う電気材料を仕入れに行った時だったか、交通博物館(これは昔の万世橋駅の遺構につながっている興味深い建物である)に連れて行ってもらった帰りに寄ったのか定かではない。当時はまだ路面電車が全盛の頃で、家の近くの停留所から30番の須田町行きに乗って、万世橋で降りると、そこは今の石丸電気一号店(当時は日の丸電気だったような記憶がある)の前であった。万世橋のひとつ先の停留所が須田町で、ここは都電のメッカである。都電最盛期には都内に40路線あり、そのうちの10路線が須田町を通っていたのである。この辺りでは、中央通りを走る路線と、靖国通りを走る路線、また、万世橋の交差点では秋葉原駅東口方面から松住町方面に向かう路線が交錯し、結構な見ものであった。

中央通りの地下には、日本最古の地下鉄である銀座線が走っている。残念ながら銀座線の駅は末広町の次は神田で、秋葉原を素通りしてしまう。しかし、建設当初は、万世橋駅なるものが存在していた事実はあまり知られていない。地下鉄の工事は浅草から掘り始め、昭和二年に浅草上野間が部分開業している。その後銀座を目指して掘り進んでいくのだが、万世橋から神田へ抜けるには、神田川の下をくぐるトンネルを掘る必要があった。もともと銀座線は道路に溝を掘って建設後埋め戻すオープンカット工法で、比較的浅い場所に建設されていたので、川の下をくぐるのは当時の建設技術では結構厳しいものがあった。そこで、体制を整えるため、万世橋に仮の駅を作り、ここで浅草から来た電車を折返し運転させ、時間を稼ぎながら神田川の下をくぐる工事を進めていったのである。万世橋駅は、ホームがひとつしかなく、また、神田以降の開業に伴い、廃止されてしまった。私が学生の頃は、電車の車窓から微かにホームの遺構が見えたし、石丸電気前の歩道の通気孔をのぞくと地下の闇に続く不気味な階段が見られたものである。

私が最もよく秋葉原に通ったのは、中学・高校の頃である。電気少年であったし、当時はアマチュア無線も熱心にやっていたので、そのような部材を購入しに行ったり、用も無いのにジャンク屋などをうろついたりしていたものである。当時の秋葉原は、電気街に隣接して青果市場があり、そちらに一歩近づくとたいそうごった返していた。白菜の切れ端に足を滑らして転びそうになったり、台車を牽引する電気自動車に轢かれそうになって、市場のおじさんに怒鳴られたりした思い出がある。

この頃は、部品屋に入ると石炭酸の匂いがしたものだった。これは部品屋だけでなく、電気機器に通電して内部の匂いを嗅ぐと一様に同じ匂いがした。この時分の電気部品にはベークライトが多用されており、その原料である石炭酸(フェノール)が残留していたからであろう。

1980年頃になると、そろそろマイコンの時代が始まる。私の記憶では、ラジオ会館の4階にBitINNを始めとするマイコンショップが何軒かでき始めたのがハシリだったように記憶している。マイコンとはいっても実用性には程遠いもので、何桁かのLED表示器と16進テンキーがついていて、自分でマシン語を打ち込むような代物である。その次にはキーボードやBASIC言語を備えた製品が登場したが、FDDが普及するにはまだ数年を要した。FDD付のAPPLE-IIが店頭に並んでいるのを横目で見ながら、自宅では自作のプログラムをオーディオ・カセットに記録していた事など、今では笑い話である。それがどんどん進化し、マイコンがパソコンになり、実用を越えるほどの機能を備えるようになった。今やパソコンは「文化的生活」の必需品となり、世帯普及率が86%(2008年度)に上るという事実はまさに驚異的である。これはひとえに、高機能低価格化と高速インターネットの普及が貢献していると考えられるが、普及初期における秋葉原の果たした触媒的役割によって、技術と文化を支える技術者を生み出してきた事実も無視できないだろう。

実を言うと、最近秋葉原には行っていない。個人的に時間が無いこともあるのだが、秋葉原に行かなくとも大抵のものは近所で揃ってしまい、また特殊な商品でも情報でもネットで入手できてしまうからである。秋葉原系の人々のことを一時期「ヲタク」と言っていたが、最近の秋葉原は、ますます「ヲタク」情報発信(アニメとかフィギュアとか)基地の様相を深めているようである。この状況は、日本経済が工業生産から知財、コンテンツ系のビジネスへとシフトせざるを得ない状況を反映しているようで興味深い。

今まで秋葉原の変遷を見てきたが、それは同時に日本の社会状況の縮図を見ているように感じる。その中心商品も(電気材料→ラヂオ部品→テレビ部品→白物家電→アマチュア無線→マイコン/パソコン→ソフト・デジタル家電)と変化してきた。また、郊外店の増殖による地盤沈下のなかで、郊外展開できなかった多くの家電専業店が廃業に追い込まれていった一方、いち早くマイコン→パソコンへと取り組んできた販売店は、それなりに生き残っているようだ。チャールズ・ダーウィンの言葉にあるように、存続できるものは常に状況の変化に対応できるものなのである。秋葉原はこれからも次のトレンドをいち早く体現し、次世代文化の揺籃としての役割を持ち続けるだろう。

2010年1月17日日曜日

町中の米軍基地 - 横浜ノースドック

神奈川県内の在日米軍施設の面積は、約18百万平米(18平方キロメートル)を占め、都道府県別では沖縄県、青森県に続いて第3位、在日米軍施設全面積の6%弱に相当します。(横浜市の広報では20百万平米になっており、集計上の差異(たぶん自衛隊との共用施設の計上方法など)が多少あります。)代表的なところでは、横須賀の海軍基地(米海軍第7艦隊の母港ですね。)、厚木海軍飛行場、相模原総合補給廠、上瀬谷通信施設、池子地区などが挙げられます。

もともと、神奈川県には帝国陸海軍の軍事基地が多数存在しました。それは、横浜という国内一の港湾施設と内陸を結ぶ鉄道網が完備され、帝都東京に隣接し、防衛の要ともなり、京浜工業地帯には多くの軍需産業が、設置されていたからだと思います。戦後になって進駐軍が旧軍の基地を拠点として駐留したので、それが現代につながっているのはもっともなことではあります。

大戦末期に日本の主要都市はB29による空襲でほとんど壊滅状態になりました。横浜市も当然空襲が行われ(横浜大空襲・昭和20年5月29日)甚大な被害を受けましたが、港湾施設の被害は比較的軽微だったようです。米軍は戦後を見据えて横浜港を重要な拠点として利用することを考えていたためと言われています。実際終戦を迎え、連合国軍総司令官であるダグラス・マッカーサーは厚木基地に到着し、最初は横浜のホテルニューグランドに滞在しました。(ちなみにマッカーサーは戦前に新婚旅行の際にも同ホテルに宿泊したことがあるようです。)終戦後横浜は港湾施設や旧軍関係の施設とともに、市の中心部を広範囲にわたり接収され、他の大都市に比較して戦後復興が遅れた要因とされています。占領下の横浜のことは後日記事を書きたいと思います。

市の中心部における接収はほとんど解除され、土地や施設も返還されたのですが、まだ残っているところはあります。これですね。

実はJJの家から目と鼻の先にあるのですが、ここは横浜ノースドックと呼ばれる港湾設備で、在日米軍の陸軍に所属し、キャンプ座間の配下にあり輸送業務などを行っています。横浜市広報による記事はここにあります。この場所は大正時代に埋め立てられた瑞穂埠頭というところで、横浜市神奈川区にあります。


大きな地図で見る

 

ノースドックの手前には瑞穂橋という橋がかかっていますが、この先立ち入り禁止という看板が立っています。無視して橋を渡ると、厳重なゲートがあります。






うっつ、これ以上進むと衛兵に狙撃されそうなので、ここで戻りましょう。ゲート脇から内部を覗くと、灰色の艦艇(たぶん汎用上陸用舟艇ですね)が垣間見えますね。その向こうには山下公園方面が遠望できます。



瑞穂橋のたもとには、2件のバーが並んでいます。横文字の看板を見るといかにも進駐軍相手といった風情ですね。

向かって右側のStar Dustに関してはここにレビューが掲載されています。ほとんどは日本人客で、米軍関係者で一杯ということではないようですね。JJは良く知りませんでしたが、割と有名な店のようです。ずいぶん以前に厚木基地内の将校クラブに行ったことがありますが、そこはもう完全にアメリカンで、米ドルの世界でしたね。25¢硬貨(Quarter)を投入して遊ぶスロットマシンなんかも何台か置いてありました。

横浜ノースドックは返還の話も出ているようですね。まあ、傍から見ていても決して使用頻度が高いようにも思えないので、民間施設の共用でも問題なさそうに思うんですがね。軍人は、有事の際には....という理屈かもしれませんが。

ところで、ノースドック近くにはこんなレトロな倉庫が残っています。この辺はだいたい三菱系の牙城ですから、三井のマークを見るのは珍しいですね。このアングルは1月9日にアップした写真(コンクリート造の三井倉庫)の裏から撮ったものになります。昔は手前の貨物線につけた貨車から荷物の積み下ろしをしたんでしょう。


造作を見ると相当古いですね。この辺が埋め立てられた大正時代か昭和一桁位の建築でしょうか?コンクリート造の倉庫の方は、壁に弾痕のような痕があります。たぶん戦争中に機銃掃射されたんじゃないかと思います。倉庫の壁にはこんな看板が取り付けてあります。これもレトロでいいですよね。


ちょっとぶらぶら散歩するにも面白いところですね。最寄り駅はJR東神奈川駅、または、京浜急行の仲木戸駅になります。今日は、横浜駅から直線で1マイルくらいのところに立地する在日米軍基地のリポートでした。

2010年1月15日金曜日

横浜から見た東京スカイツリー


横浜からも東京スカイツリーが見えるようになりました。ぐんぐん伸びればぐんぐん見えるでしょうね。まんなかの小さく見えるのがそうです。

2010年1月9日土曜日

神奈川台場跡散策

JJの住んでいるのは横浜市神奈川区。ここは江戸時代には旧東海道の神奈川宿があったところです。東海道五十三次は日本橋→品川→川崎→神奈川→保土ヶ谷→戸塚→藤沢....と続きます。日本橋を朝出発した旅行客は健脚であれば戸塚や次の藤沢あたりまでたどり着いたかもしれませんが、足の遅い者や遅い時刻に出発した者など、神奈川宿あたりで休んだ旅行者もあったかもしれませんね。また、神奈川宿は東海道五十三次の宿場としての他にも、江戸への物資を運ぶ舟の中継基地としての役割も大きかったと思います。

ペリー来航以降、安政5年に結ばれた日米修好通商条約によれば、開港場所として記載されていたのは、横浜(現在の関内や大桟橋の方)ではなく、神奈川と明記されていました。しかし、神奈川宿は交通の要所であり、また江戸に近く、外国軍隊の侵略や、当時の攘夷派による外国人襲撃の危険性などを考慮して、今の大桟橋のある辺りに桟橋を建造し、そこを開港場としました。開港場は長崎の出島のようにして堀をめぐらし関所を作ったのです。関所はいまの吉田橋(関内駅近くの伊勢崎モール入り口辺り)付近にあり、そこから海側を関内、陸側を関外と呼んだそうです。

当時の地形では現在の横浜駅周辺は入り江になっており、神奈川宿から横浜の開港場へは渡船が通じていました。先日記事にした洲崎大神の前が渡船の船着場だったようです。

条約の条文を考えるとこれは欺瞞的だったので、海外からは当然非難されました。その批判をかわすために廃藩置県時に神奈川も横浜も含むこの県全体を神奈川県と名づけ「だって、神奈川だろ、文句言うなよ...」としたようです。

これに先立ち、ペリー来航の時に江戸前に台場と呼ばれる西洋式砲台が建設(1854に一部完成)され、横浜開港後に横浜にも台場が建設されました。


これは明治14年に発行されたフランス式彩色地図です。当時の陸軍陸地測量部がフランスから学んだ技術で作成しました。写真中央の陸地から飛び出した出島のような部分が神奈川台場です。ちなみに左下の土手のようなところは鉄道用地で横浜駅(現在の桜木町駅)に通じる鉄道が海の中に作られた土手の上を通っていました。土手の左側(現在の横浜駅西口周辺)は海でした。この土手の埋立て工事を請け負った高島嘉右衛門についてもいろいろと話題がありますが、いつか記事にしましょう。

神奈川台場をもう少し詳しく図にしたのが下の写真です。

こちらも同じく明治14年発行のフランス式彩色地図です。撮影の都合で上が北ではありません。

この台場に関しては「横浜の開港により、江戸湾内を航行する船舶の監視役として 神奈川台場が築造されることとなりました。安政6年(1859)5月、幕府は伊予松山藩に海防砲台の構築を命じ、勝海舟が設計にあたりました。約7万両の費用と約1年の工期を要し、万延元年(1860)6月に 竣工した当時の台場は、総面積約2万6千m²(約8千坪)で、海に突き出た扇形をしていました。明治32年(1899)2月に廃止されるまで礼砲用として使われていましたが、大正10年頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなっています。」といった記事がありました。

周辺が埋め立てられる前の台場の写真が上のものです。写真下側の棟の高い建物が並んでいるあたりが旧東海道の町並みだと思います。

現在はどうなっているかというと、この下に埋もれています。(上の写真とアングルは違いますよ)

ここは東高島貨物駅といって、桜木町から鶴見を結ぶ貨物線(高島線)が通過する場所です。かつては画面左の水路に入ってきた艀(ハシケと読みます)から荷揚げされて、この貨物駅で貨車に積み替えられたのでしょうが、現在は貨物列車の待ち合わせ(この地点から桜木町駅まで単線なのです)をするくらいで、荷扱いは行いません。ただし、日通とヤマト運輸が宅配便の基地として使っています。

画面下に倉庫のような建物が見えると思いますがその近くにこんな立て札が立っています。「史跡 神奈川台場跡」って書いてありますね。

後ろに見える石垣が台場の石垣の遺構ですね。石垣だけを撮影したのが下の写真です。

先ほどの地図を見ると判ると思いますが、台場には二本の通路が備わっておりました。そのうちの一本は下記のように現在発掘調査が行われております。

なにか興味深いものが見つかると面白いですね。

高島線は、そんなに頻繁に列車が来るわけではないのですが、そこそこ来ますね。コンテナ列車も見かけますが、多いのは、石油を積んだ貨物列車です。根岸の製油所(新日本石油精製根岸製油所)から運ばれてくるんでしょうね。根岸の製油所は日本最大の石油精製施設だそうです。石油を運ぶ貨車(タキ1000型というようです)は一両に45トンも積載できますので、タンクローリーで運ぶよりよっぽど効率がいいんでしょう。電気機関車だとエコでもありますね。



貨物線はこのあたりから複線で湾岸を進み、鶴見駅のあたりで東海道線に合流します。その後新川崎を経て武蔵野貨物線に進んでいくのか、あるいは南武線経由で川崎貨物駅そしてその先の大井埠頭裏にある東京貨物ターミナル駅のほうに進むのか、そこまで追っかけたことがないので良くわかりません。石油輸送列車とその行き先に関してはこのリンクに記載されています

かつて京浜工業地帯には湾岸沿いに網の目のように貨物線や引込み線が張り巡らされていましたが、今ではご紹介した本線を残すのみになりました。かつての引込み線は廃墟のようになっています。廃墟趣味のJJにはちょっと興味の尽きないところもありますので、そのうちに記事でご紹介しましょう。

これは瑞穂埠頭(現在も部分的に在日米軍に接収中)に向かう引込み線のあとで、瑞穂橋に並行している鉄橋です。今日はこの手前でプロのカメラマンが男性モデルの写真を撮影していました。

最後にもう一枚写真を掲載しましょう。これたまんないですね。廃墟趣味+リベット萌えのJJの心をくすぐる一枚です。

これは東高島貨物駅から東神奈川駅に伸びる線で、昭和34年くらいに廃線になったものの遺構です。

近所をお散歩中。ちょっと古い倉庫ですね。

2010年1月8日金曜日

火災速報ほぼ鎮火・横浜市神奈川区

消防隊による懸命の消火作業により火災はほぼ鎮火。恐るべし日本の消防、対応及び鎮火までの時間かなり早いと思う。

火災速報消火作業中・横浜市神奈川区

消防隊による懸命の消火作業によって、黒煙は減少し鎮火に向かう。

火災速報炎上中・横浜市神奈川区(その2)黒煙に包まれる首都高

黒煙に包まれる首都高速K1(横羽)線

火災速報炎上中・横浜市神奈川区

横浜市神奈川区神奈川付近で火災発生。炎上中。付近は黒煙に包まれる。

2010年1月4日月曜日

浅草にお参りその後東京スカイツリーの建設現場を見学

JJは毎年近所の氏神様に初詣に行くとともに、浅草にお参りに行きます。JJの出身地は墨田区で、浅草は歩いても行ける距離だったことから、子供のころから頻繁に出かけており、なじみの深い町であります。

浅草観音こと金龍山浅草寺は東京でも一番古いといわれる古刹で、寺の縁起に拠れば、その歴史は推古天皇36年(西暦628年)に遡るということです。文書上の記録としては鎌倉時代の「吾妻鏡」に浅草寺のことが書き残されているのが初出だそうです。(1181年に鶴岡八幡宮の造営に際し、浅草から宮大工を呼び寄せたというもの)


まずは雷門ですね。雷門は慶応元年(西暦1865年)に焼失後、仮門であったのを昭和30年に当時松下電器産業の松下幸之助翁からの寄進によって、現在の鉄筋コンクリート造りのものが再建されました。


雷門をくぐると仲見世通りが続きます。そして現れるのが宝蔵門(通称仁王門)です。宝蔵門は東京大空襲で焼けてしまいましたが、ホテルニューオータニの大谷米太郎夫妻の寄進により昭和39年に現在の鉄筋コンクリート作りのものが再建されました。ここの大提灯には小舟町と書かれています。小舟町にはかつて日本橋の魚河岸があり、そこの信徒の心意気を示しすものとして万治2年(1659年)に奉納したことにはじまり(浅草寺志・・・高さ三間半、幅二間、重さ約五十貫)、3百有余年の歴史と伝統を今に連綿として受け継いでいます。現在の大提灯は平成16年に小舟町に本社を構える小原化工株式会社という会社が寄進したものということです。


宝蔵門をくぐると本堂ですね。旧本堂は慶安2年(1649年)に再建されたものでしたが、東京大空襲で消失。現在の鉄筋コンクリート造りのものは昭和33年に再建されたものです。

現在改修工事中ということで、全体が仮囲いされてしまっています。仮囲いの龍の絵は本堂の天井画として描かれた日本画家川端龍子氏のものですね。浅草寺の公式ホームページによると、屋根瓦の吹き替え及び塗装を行うようです。宝蔵門の方は2007年にやはり屋根の葺替えを行い、その時に軽量化を図るため、チタン成型瓦を多用したとの事です。たぶん同様に瓦の軽量化を行うのではないかと思われます。


本堂の右側には、浅草神社が鎮座しております。浅草神社は三社様とも呼ばれ、浅草寺の縁起にかかわる三人が神として祀られています(東照宮(徳川家康)・大国主命も合祀)。毎年5月に行われる三社祭は浅草神社のお祭りです。

西暦628年に地元の漁師、檜前浜成・武成の兄弟が隅田川で漁をしていたところ、網に木の人形像がかかり、この地域で物知りだった土師真中知に相談した所、これは観音像であると教えられ、二人は毎日観音像に祈念するようになった。その後、土師真中知は剃髪して僧となり、自宅を寺としたのが浅草寺の縁起との事です。

拝殿の前には幕が下がっており、ちょっと見難いのですが向かって左には三葉葵紋、右側には三社様の紋(魚網が三つ)が染め抜かれています。拝殿及び本殿は慶安2年(1649年)に3代将軍徳川家光公の寄進で完成したもので、奇跡的に空襲を免れた強運の建物で、現在は重要文化財に指定されています。ご利益 も一層大きいはずです。浅草寺境内には、このほかも二天門、伝法院など空襲を免れた建物が散在しています。

東京の古刹は浅草寺も含めて江戸幕府の庇護を受けていましたので、あちこちの寺社で三葉葵紋を見かけます。菊紋よりも三葉葵紋に慣れ親しんだのが、江戸っ子が今でも徳川贔屓な所以です。

いつかそのうち東京大空襲の記事も書こうと思いますが、空襲でほとんどの建物が破壊されてしまった都内に残る江戸の遺構は貴重ですね。代表的なところは、浅草寺周りと、上野のお山(寛永寺と東照宮関係)、芝の増上寺、江戸城、池上の本門寺、護国寺といったところでしょうか。谷中あたりも空襲を免れているので古い建物が残っているかもしれませんね。

浅草まで来たついでに業平橋まで一駅のって東京スカイツリーの建築現場を見学してきました。

ただいま254mまだ横浜からは見えません。まだまだ伸びますね。

ちょっと長くなりましたので、スカイツリーの方は後日レポートいたします。

三越包装紙の秘密(アンパンマンとの隠れた関係)

先日お年始として親戚からコーヒーの詰め合わせをもらいましたが、それが三越の包装紙に包まれていました。三越はこのところリストラを進めており、神奈川県内の店舗の撤退も進んでいるため(横浜店や、大船三越など)最近とんと三越の包装紙を見ることがなくて、ご無沙汰しておりました。

この写真ですね。この三越の包装紙の模様って昔から何か不思議で、気になってました。一見すると雲形定規を組み合わせたようにも見えるのですが、よく見るとそうでもないし。

そしたら、何ヶ月か前のNHK日曜美術館で、三越包装紙の由来について紹介しておりまして、意外なことがわかりました。実はこのことは三越のホームページにも書かれておりまして、検索すれば判ることだったんですが。ここに三越のホームページへのリンクがあります。

リンク先の情報を要約しますと、1950年(昭和25年)になって、それまでハトロン紙だった百貨店の包装紙ですがクリスマス用にをもう少しカラフルなものにして、戦後の世相を明るくしようってんで、当時の高名な画家である猪熊弦一郎氏にデザインを依頼したそうです。

猪熊氏は千葉の犬吠崎を散策していた際、波に洗われる岩を見てこのデザインを思いついたそうです。このデザインは「華ひらく」と命名されています。猪熊氏のところにこのデザインを受け取りに行ったのが、当時三越の宣伝部員だった柳瀬嵩氏(のちにアンパンマンで有名になった漫画家やなせたかし氏です)でした。包装紙に書き込まれた筆記体の「Mitsukoshi」のローマ字は柳瀬氏が書き込んだものだということです。

猪熊弦一郎氏は戦前から戦後にかけて活躍された洋画家で、戦後は特に抽象的な作品を多く残されているようです。ここのサイトに作品の写真が多数アップされています。代表作とはいえないかもしれませんが、多くの方が(それとは気づかずに)目にされたことがある作品に、上野駅中央改札口上部の壁画があります。ここに写真が掲載されています。昭和26年の作品で「自由」という題名です。先ほどの三越包装紙とほぼ同時期の作品といえますね。この作品は具象画ですが、題名どおりに動物や人物が伸びやかに素朴派的なタッチで描かれています。戦後の開放感が伝わってくるような作品だと思います。

ということで、ちょっと不思議な三越の包装紙の柄は、猪熊弦一郎という画家と、後に漫画家になった「やなせたかし」のお二人が関係していたというお話しでした。

2010年1月3日日曜日

箱根駅伝復路レポート第9区

毎年正月は箱根駅伝(正式には「東京箱根間往復大学駅伝競走」といいます)で盛り上がりますね。JJは第2区/第9区の走路近くに住んでいますので、毎年往路・復路とも応援に出かけます。


観戦地点に近づく中継車

1920年(大正9年)に始まった箱根駅伝は歴史のある競技であると同時に、つくずく大変だなと思います。コースは東海道に沿って大手町から箱根までの片道約109Km。途中は平坦ではなく、かなりのアップダウンがあります。特に往路最後の5区と復路最初の6区は小田原・箱根間の標高差864mを水平距離約20Kmで駆け上り駆け下ります。これだけ変化に富んだコース往復217.9Kmを10名の選手が襷をつなぎます。10名の長距離選手(予選会出場の条件として10000m走35分以内か5000m走17分以内のどちらかを作った選手を補欠も含めて10人以上確保)をそろえ、この時期に合わせてコンディション作りを行うのは至難の業ではないかと思います。

JJが駅伝を見に行くときは、往路の場合は鶴見中継所を過ぎるあたりにいそいそと支度をして出かけます。花の二区と呼ばれるとおり、毎年エース級の選手が投入されますので見ものではありますが、いかんせん第2区はそれほど差が開いているわけでもなく、選手も後半の権太坂や戸塚中継所手前の坂に備えて、前半はセーブしていることもあり、割とダンゴ状態で通過していきます。その中でも特に目立つのが、俊足の黒人ランナーで、昨年と今年は日大のダニエル、以前は山梨学院大のモグスとかモカンバなど、黒い弾丸のようにJJの前を駆け抜けていきました。まあ、往路は最近では、やはり5区の山登りに迫力を感じますね。東洋大柏原選手の二年連続区間新記録達成はすばらしいものでした。


2005年第81回大会で2区を疾走する山梨学院大のモグス。
まるで「黒い弾丸」のようでした。この時の区間賞をマーク。

一方復路のほうは、先頭が保土ヶ谷の交差点に差し掛かる頃に出かけます。9区に至ると先頭から最後尾まで20分差くらい、ばらけて来ており、またチームの順位が見えてきているので、何か観ていて選手の必死さを感じます。9区での順位入れ替えも総合順位に響いてきますので、みな必死です。今年は往路優勝の東洋大の工藤選手が2位に5分の差をつけてトップで9区に入ってきました。


9区をトップで疾走する東洋大学工藤選手の勇姿。
神奈川公園前で撮影

工藤選手は快調に飛ばしているといった感じですね。9区の方は選手が歩道に近いところを走るので、なかなか撮影しにくいのですが、選手の力走を撮影したのが何枚かありますので、ご紹介しましょう。


明治大学遠藤選手の力走。


法政大学福島選手の力走。

復路も最後尾には解除車と書かれたパトカーの後から、自転車軍団が付いていきます。往路よりも数は少ない感じですが、自転車に混ざってバイクも見られますね。
ちょっと危なっかしいなあと思います。

JJの出身大学が出場していると応援にももっと身が入るのですが、あんまりこういうのは得意ではないみたいで、それでも過去1回出場したことがあるようですが、最近はさっぱりですね。今後、是非がんばってもらいたいものです。

駅伝の中継車とか中継システムに関して、お友達のハリーさんが詳しくブログに書いていますので、興味があればこちらのリンクもご覧になってください。写真はJJが提供しておりますので、一部重複します。予めご了承ください。

たくさんの感動をもらった今年の第86回箱根駅伝は東洋大学の優勝で幕を下ろしました。箱根駅伝が終わると三が日も終わり。そろそろ職場復帰(大げさか?)に向けて調整(主に体重面での調整ですが...( ̄Д ̄;; )を始めます。

2010年1月2日土曜日

駅伝の列最後尾には「解除車」と書かれたパトカーが...その後に続く自転車部隊およそ100台。


自転車は駅伝関係者ではないようですが、好きで後をついているんですかね?確かに信号待ちがなくて気持ちよいでしょうけど。これだけ台数が集まると、警察も簡単には止められないでしょうね、危険だし...箱根の山を一緒に登った自転車はあったのかな?駅伝は平均時速20Kmくらいなので、平地であれば自転車でついてくのは楽勝でしょうね。

第86回箱根駅伝、2区で先頭を走る明治大学石川選手の勇姿


第一京浜 神奈川公園前で撮影。

箱根駅伝今年の応援旗はなぜか布製


観戦者に配布される「読売新聞」「報知新聞」の応援旗は毎年紙製ですが、今年はなぜか布製になりました。布だと多少高級感があって、そこいらに捨てないのでかえってエコだということか?

2010年1月1日金曜日

明日はいよいよ箱根駅伝。ウチの近くを通るのは9:25くらいかな。少し早起きしよっと。


2005年の箱根駅伝の写真。中継車。

明けましておめでとうございます。横浜での初日の出写真です。



明けましておめでとうございます。

最近ちょっとTwitterに浮気していまして、ブログの更新がおろそかになっていましたね。記事のほうも別経由だったので、ちょっと簡単になりすぎてました。正月少し時間がありますので、何か記事のほうも書こうかと思います。

今年の元旦は天気がよく、多少風は冷たいものの穏やかな陽気で、気持ちよいですね。初日の出時間帯も雲少なく快晴でしたので、今まででもベストショットの初日の出写真が撮影できました。



こちらの写真は初日の出を受けて輝く横浜のビル群です。上にたなびく吉祥雲がいいですね。今年の幸運を現しているようだと勝手に解釈しています。

なかなか好スタートを切った今年こそは良いことがありますように。

2010年カウントダウンの横浜港の汽笛鳴奏


今年のカウントダウンの横浜港での汽笛です。ああ~寒かった。