2010年1月20日水曜日

秋葉原の思い出

<この文章は初出ではなく何年か前に某誌で発表したものです>

火事と喧嘩は江戸の華」とはよく言ったもので、江戸の町は実に火事が多かったようである。享保年間(18世紀初頭)には、参勤交代で入替わる武家人口も加えると人口は百万人を超え、当時世界第一の大都会だった江戸の町は、密集した木造建築の山だったのだから、ひとたび火事が出ればたまらない。あっという間に燃え広がってしまうのである。有名な明暦の大火(俗に言う振袖火事)をはじめとして、江戸の大半を焼き尽くす大火は10回をくだらない。当時の消火活動というのは、火事の前には無力で、基本的には燃え広がる先に回って建物を破壊し、延焼を防ぐ程度のものであった。また、予防的な意味で要所要所には広小路や火除地といわれる延焼防止のための空き地を設けるようになった。

この状況は明治になってもすぐには変わらず、維新後の東京も相変わらず火事に悩まされた。明治二年には神田相生町から出火し、佐久間町など1,100戸が消失する大火があった。当時の神田佐久間町周辺は人家が密集しており火事が多く、「あくま町」などとあだ名されていたようである。そこで、当時東京府の大木知事は焼け跡の住民を立ち退かせ、跡地に火除地を造成し、そこに火伏せの神様である秋葉大権現を祀った。ここが江戸っ子の間で「アキバッパラ」と呼ばれ遊び場として親しまれていた。その後、明治23年日本鉄道(現在のJR東日本東北本線)が上野から当地に延伸し、「秋葉原」という駅名を命名されたのである。これが秋葉原の始めである。私の先祖は江戸時代から湯島天神の近くに住んでいたので、何代か前にこの経緯を目撃しているかもしれないと思うと不思議な感じはする。

さて話は戻って、秋葉大権現建立の後、文明開化の熱気が覚めやらぬ明治16年には東京電灯会社が設立され、その4年後には茅場町に最初の火力発電所が設立されるなど、富国強兵の流れの中で、電気が果たす役割は次第に大きくなっていった。また、大正14年にラヂオ放送が開始されると、電気の持つ可能性は照明や動力の他に情報という分野へと、さらに増大していった。このような状況の中で、電気材料を扱う電気材料卸商が都内各地に出現するようになった。戦前の秋葉原にも広瀬無線・山際電気・高岡電気・中川無線などがあったが、電気材料卸が特にこの地域に集積しているとは言えず、電気街と呼ぶには程遠かった。(戦前はどちらかというと自転車商が集積する街だったと言う話を聞いたことがあるが今回確認できなかった。)そのうち、戦局の悪化とともに次第に商品の入手が困難となり、やがて昭和20年の東京大空襲を迎え焼け野原となる。秋葉原が電気街として発展するのは大東亜戦争の後のことである。

終戦後、わずか数年のうちに秋葉原は電気の街に変貌して行った。戦前からの電気材料卸商が再開した店もあり、また、新規に起業した店もあった。一説によれば、広瀬無線が地方に取引先を多く抱え、多くの人々が材料の仕入れに集まってきたことや、路面電車を中心とした、交通の便が良かったこと(これは後述する)、秋葉原は安いといううわさが広まったこと、また、近所にあった今の東京電機大学の学生がラヂオを組み立てて露店で販売していたりといった事情があったようである。その後のテレビブームから家電ブームへと高度成長時代の中で秋葉原が発展して行った状況は私が書くまでも無いであろう。



私がこの街に最初に足を踏み入れたのは、小学生の頃だった。それは、父親の仕事に使う電気材料を仕入れに行った時だったか、交通博物館(これは昔の万世橋駅の遺構につながっている興味深い建物である)に連れて行ってもらった帰りに寄ったのか定かではない。当時はまだ路面電車が全盛の頃で、家の近くの停留所から30番の須田町行きに乗って、万世橋で降りると、そこは今の石丸電気一号店(当時は日の丸電気だったような記憶がある)の前であった。万世橋のひとつ先の停留所が須田町で、ここは都電のメッカである。都電最盛期には都内に40路線あり、そのうちの10路線が須田町を通っていたのである。この辺りでは、中央通りを走る路線と、靖国通りを走る路線、また、万世橋の交差点では秋葉原駅東口方面から松住町方面に向かう路線が交錯し、結構な見ものであった。

中央通りの地下には、日本最古の地下鉄である銀座線が走っている。残念ながら銀座線の駅は末広町の次は神田で、秋葉原を素通りしてしまう。しかし、建設当初は、万世橋駅なるものが存在していた事実はあまり知られていない。地下鉄の工事は浅草から掘り始め、昭和二年に浅草上野間が部分開業している。その後銀座を目指して掘り進んでいくのだが、万世橋から神田へ抜けるには、神田川の下をくぐるトンネルを掘る必要があった。もともと銀座線は道路に溝を掘って建設後埋め戻すオープンカット工法で、比較的浅い場所に建設されていたので、川の下をくぐるのは当時の建設技術では結構厳しいものがあった。そこで、体制を整えるため、万世橋に仮の駅を作り、ここで浅草から来た電車を折返し運転させ、時間を稼ぎながら神田川の下をくぐる工事を進めていったのである。万世橋駅は、ホームがひとつしかなく、また、神田以降の開業に伴い、廃止されてしまった。私が学生の頃は、電車の車窓から微かにホームの遺構が見えたし、石丸電気前の歩道の通気孔をのぞくと地下の闇に続く不気味な階段が見られたものである。

私が最もよく秋葉原に通ったのは、中学・高校の頃である。電気少年であったし、当時はアマチュア無線も熱心にやっていたので、そのような部材を購入しに行ったり、用も無いのにジャンク屋などをうろついたりしていたものである。当時の秋葉原は、電気街に隣接して青果市場があり、そちらに一歩近づくとたいそうごった返していた。白菜の切れ端に足を滑らして転びそうになったり、台車を牽引する電気自動車に轢かれそうになって、市場のおじさんに怒鳴られたりした思い出がある。

この頃は、部品屋に入ると石炭酸の匂いがしたものだった。これは部品屋だけでなく、電気機器に通電して内部の匂いを嗅ぐと一様に同じ匂いがした。この時分の電気部品にはベークライトが多用されており、その原料である石炭酸(フェノール)が残留していたからであろう。

1980年頃になると、そろそろマイコンの時代が始まる。私の記憶では、ラジオ会館の4階にBitINNを始めとするマイコンショップが何軒かでき始めたのがハシリだったように記憶している。マイコンとはいっても実用性には程遠いもので、何桁かのLED表示器と16進テンキーがついていて、自分でマシン語を打ち込むような代物である。その次にはキーボードやBASIC言語を備えた製品が登場したが、FDDが普及するにはまだ数年を要した。FDD付のAPPLE-IIが店頭に並んでいるのを横目で見ながら、自宅では自作のプログラムをオーディオ・カセットに記録していた事など、今では笑い話である。それがどんどん進化し、マイコンがパソコンになり、実用を越えるほどの機能を備えるようになった。今やパソコンは「文化的生活」の必需品となり、世帯普及率が86%(2008年度)に上るという事実はまさに驚異的である。これはひとえに、高機能低価格化と高速インターネットの普及が貢献していると考えられるが、普及初期における秋葉原の果たした触媒的役割によって、技術と文化を支える技術者を生み出してきた事実も無視できないだろう。

実を言うと、最近秋葉原には行っていない。個人的に時間が無いこともあるのだが、秋葉原に行かなくとも大抵のものは近所で揃ってしまい、また特殊な商品でも情報でもネットで入手できてしまうからである。秋葉原系の人々のことを一時期「ヲタク」と言っていたが、最近の秋葉原は、ますます「ヲタク」情報発信(アニメとかフィギュアとか)基地の様相を深めているようである。この状況は、日本経済が工業生産から知財、コンテンツ系のビジネスへとシフトせざるを得ない状況を反映しているようで興味深い。

今まで秋葉原の変遷を見てきたが、それは同時に日本の社会状況の縮図を見ているように感じる。その中心商品も(電気材料→ラヂオ部品→テレビ部品→白物家電→アマチュア無線→マイコン/パソコン→ソフト・デジタル家電)と変化してきた。また、郊外店の増殖による地盤沈下のなかで、郊外展開できなかった多くの家電専業店が廃業に追い込まれていった一方、いち早くマイコン→パソコンへと取り組んできた販売店は、それなりに生き残っているようだ。チャールズ・ダーウィンの言葉にあるように、存続できるものは常に状況の変化に対応できるものなのである。秋葉原はこれからも次のトレンドをいち早く体現し、次世代文化の揺籃としての役割を持ち続けるだろう。

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