大東亜戦争の末期、1945年になると日本の各大都市が連合軍(といっても米軍だが)の空襲に晒されました。これは民間人を巻き込んだ無差別爆撃で、明らかに国際法違反の攻撃です。我が横浜も昭和20年5月29日の昼間にB-29爆撃機517機、P-51戦闘機101機による攻撃(主に焼夷弾による爆撃)で8,000名から10,000名に上る犠牲者を出しました。アメリカ軍は攻撃目標を東神奈川駅、平沼橋、横浜市役所、日枝神社、大鳥国民学校の5ヶ所に定めて襲撃し、特に被害が甚大だったのは、現在の神奈川区反町、保土ケ谷区星川町、南区真金町地区一帯とされているようです。東神奈川駅が攻撃地点の一つに選ばれたのは、相模原の補給廠や長津田の弾薬庫(現在のこどもの国)などの内陸部の軍事拠点と横浜港や横須賀の海軍基地を結ぶ鉄道の要所だったからでしょうか。
しかし一方で、横浜大空襲による港湾施設への被害は比較的軽微で、これは終戦後を見据えて破壊を控えたものと言われています。その後7月26日のポツダム宣言とそれに対する日本政府の黙殺を経て8月6日に広島、8月9日に長崎への原子爆弾、同日にソビエト連邦の参戦があり、8月15日にとうとう無条件降伏することになります。で、終戦です。
8月30日に進駐軍総司令官となるダグラス・マッカーサーが厚木基地に降り立ちました。マッカーサーはその足で横浜のホテルニューグランドに向かったということです。このホテルはかつてマッカーサーが新婚旅行で訪れた場所でもあります。
厚木基地に降り立つマッカーサー |
進駐軍上陸の記事 |
横浜港へ向かう上陸用舟艇 |
山下公園に立ち並ぶ進駐軍住宅 |
横浜市内に立ち並ぶカマボコ型兵舎 |
接収の解除は日本国側からの要請と進駐軍側の重要性を勘案して順次進められてきたようですが、本格的な接収解除は昭和26年のサンフランシスコ講和条約締結を待たなければなりません。それ以降も接収の続いた施設は多く、瑞穂埠頭(ノースピア)に至っては2016年現在まだ返還されていません(自衛隊も共用で利用しているようではありますが)。この大規模な接収が横浜の戦後復興を遅らせたという見方もあります。
ただ、別の側面から見れば、戦後復興が遅れたために、市の中心部の建物は比較的新しく、多くの米国軍人が居住していたことから、エキゾチックな文化も感じられ、現代の国際観光都市としての横浜の魅力形成に一役買っていると言えるかもしれません。
最後にちょっと興味深い占領時代の地図を掲載します。各道路に1st streetとか"A" Avenueとかの英語名がついているのが興味深いです。今でいう伊勢崎モールが5th Streetすなわち5番街になっていますね。横浜球場も接収されてLou Gehrig Stadiumに改名されています。市街地の中で黄色い部分は進駐軍が接収していた土地のようで、先ほど写真にあるカマボコ型兵舎などが建ち並んでいたようですね。この地図は昭和26年~30年ごろにかけて発行されたもののようで、サンフランシスコ講和条約が締結され、一応の独立国になった頃でも、まだ横浜の中心部は進駐軍に占領されたような状態だったことが分かります。
占領時代の横浜中心部の地図 |
ということで、今日は終戦記念日にちなんで、横浜の占領時代について書いてみました。
0 件のコメント:
コメントを投稿