2018年8月26日日曜日

江戸の面影・十二社の池(その1)

JJの今の勤務先は西新宿という所にありまして、そのすぐ近くに十二社通というバス通りがあり、新宿中央公園の西側を南北に走っています。もともと下町の出身者である私は最初は十二社という地名が読めず「じゅうにしゃ」かと思っていたのですが、実はこれで「じゅうにそう」と読みます。

バス通りを走るバス路線は京王バス(宿51系統)で、新宿駅西口と渋谷駅を結んでいます(代々木公園の西側を走る経路)。会社の最寄からひとつ隣の停留所が「十二社池の上」という停留所で、その次(新宿駅寄り)が「十二社池の下」という停留所です。
「十二社(じゅうにそう)という地名もなにやら歴史がありそうだし、十二社池の上という停留所があるのに、あたりに池のようなものも見かけないし。」と不思議に思い、散歩がてら色々と調査をしてみました。

 これが現地周辺の地図です。中央公園の西側を南北に十二社通りが通っているのが分かります。で、中央公園の北西の角の所に「熊野神社」という神社があるのが分かります。この熊野神社が十二社なのです。



熊野神社に関してはWikipediaに記事がありますのでご参照ください。以下要約です..

~その昔、室町時代に紀州出身の商人で鈴木九郎という人がおり、この地で一帯の開拓や馬の売買などで財を成し、人々から「中野長者」と呼ばれていたそうです。この人が、応永年間(1494年~1428年)に熊野三山から十二所権現をすべて祀るべく創建したとのことです~

今から600年も遡るんですね..そういえば中野長者橋出入口が、首都高速中央環状線にありましたね。

~神社境内には大きな滝があり、また隣接して十二社池と呼ばれていた大小ふたつの池があり、江戸時代には江戸近郊の景勝地として知られていたそうです。江戸時代あたりから付近には茶屋や料亭などが立ち並び、やがて花街となっていったようです。最盛期には茶屋や料亭が約100件も並んでおり、この賑わいは戦前まで続いていたそうです~

やっと池の話が出てきましたね。



上の地図は当地の地図の江戸時代版です。中央やや左に熊野十二社とありその西側に池が二つありますね。これが十二社の池です。ちなみに地図の下から右上に向かう黄色い線は甲州街道で、その下側の青いのが玉川上水です。十二社の東側に南北にある青い線は玉川上水から神田川に水を分ける分水路で、「神社境内には大きな滝があり」とかかれていた滝は、この分水路の方に存在していたようです。





歌川廣重が当地を描いた錦絵が二種類残されており、上の図はそのうちの一つ「四つ谷角筈十二そうの池熊野の杜」とあります。絵の下の方に社が見えますが、これが熊野権現なのでしょう。なかなか風光明媚ですね。ちなみに角筈(つのはず)とはこの一帯の古い地名で、住居表示の時に失われてしまいましたが、まだ交差点や区民会館などの名前には残っています。

十二社の池は今から400年ほど前、慶長11年(1606年)に伊丹播磨守という人により大小二つの池が作られたとあります。おそらくは農業用のため池だったのでしょう。伊丹播磨守とは伊丹康勝の事だと思います。 江戸初期の幕臣で勘定奉行を勤めた後、寛永10年(1633年)に甲斐徳美藩の藩主(=大名)に取り立てられています 。

熊野神社は今でも立派な社殿を構えており、境内には神社の縁起や十二社の池の歴史などが書かれた案内板なども見られます。

十二社池は明治に入ってからも花街として賑っていたようですが、やがて周辺の宅地化(大正12年の関東大震災以降)やら水質の問題やら西新宿地区の再開発の計画やらで、徐々に縮小(埋め立て)の上昭和43年には完全に無くなってしまいます。

 上の写真の年代は分かりませんが戦前のまだ賑やかだった頃でしょうね。手前のボートに乗っているのは夏服を着た学生さんでしょうか?
 次の写真はおそらく戦後の埋め立てられる少し前の様子だと思います。「福助」というお蕎麦屋さんが映っていますが、実はこの店は今(2018年8月現在)でも営業しています。
 
 上の写真はおそらく埋め立てられる直前か、埋め立て中の写真だと思います。花街として寂れてしまった理由の一つとして、昭和32年に施行(赤線廃止はその翌年)された売防法の影響などもあったのでしょう。

上図は昭和31年の当該地区の地図です。矢印の先に細長い池が残っているのが分かると思います。これが十二社池です。すでに下池(北側)は埋め立てられており、上池のみが残っています。

池の東側に六桜社という工場があります。ここは今では新宿中央公園の北側に相当します。現在はコニカミノルタになってしまいましたが、かつての小西六写真工業の創業者である小西屋六兵衛が明治35年に建てた乾板・印画紙工場で、今でも中央公園には写真工業発祥の地の立て札が立っています。京王線が甲州街道の道路上を走った後、道から逸れて湾曲した軌道を描いているのが興味深いですが、この件についてはいつか別稿で書きたいと思います。

さて、今まで触れてはいませんでしたが、当地の東側には明治31年(1898年)に淀橋浄水場が東京で最初の近代浄水場として完成しました。それまでは江戸時代に作られた、あまり衛生的とは言えない水道を使っていたものです。淀橋浄水場の完成で、玉川上水の水を引き込んで浄化・消毒した水を東京市内にポンプで圧送するようになりました。

その後戦後になって浄水場が東村山へ移転することになり、淀橋浄水場も昭和40年(1965年)に廃止され、この一帯が新宿副都心として再開発されることになりました。昭和後期から超高層ビルが多数建設され、現在の近代的なビル街が現れたのはよくご存じの事でしょう。

その役目を終えた十二社池も昭和43年(1968年)には完全に埋め立てられ、今ではその痕跡を探すのも難しくなってしまいました。次回の記事では、失われた十二社池の痕跡を現代に探ってみたいと思います。

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