2018年9月2日日曜日

江戸の面影・十二社の池(その3)

十二社の池については(その2)で完結と思っていたのですが、その後いろいろと検索したら、興味深い追加情報が出てきたので少し追記します。

以前の記事で玉川上水から神田川に水を流す分水路の話と、その痕跡について記した訳ですが、こちらのブログにもう少し詳しい経緯が載っていたので、紹介します。こちらのブログによると、分水路は「神田上水助水堀」というのが正式のようです。

ブログから引用します

水量不足の神田川(神田上水)に、「上水」としての水を補給するためのものでした。
 玉川上水の完成から10数年後の寛文7年(1667年)開設、明治31年(1898年)淀橋浄水場完成により、玉川、神田上水が上水としての機能を失うまで、一貫して維持されてきました。その後も、昭和40年(1965年)浄水場廃止まで、その排水路として機能していました。~


なるほど、痕跡の残っていた中央公園北側の堀は、割と後のほうまで残っていたという訳ですね。


 ブログ中に非常に興味深い地図が載っていたので、上にリンクを張りました。大正7年ごろの当地の様子のようです。

確かに助水堀は途中分断されているのが分かります。この当時、十二社の池はまだ大きく残っており、また、下池もひょうたん型に残っているのが見えますね。

玉川上水は地図の下の方にうねうねと流れていますが、浄水場ができた時に、和泉給水所から淀橋浄水場まで一直線に新水路が建設され、 それが玉川上水新水路と表示されています。ここは今は道路になっており、水道道(すいどうみち)とも呼ばれているようです。東京の下町の方にもありますが、一直線に作られて同様の名称が冠されている道路は割とあちこちに見られますね。

鉄道の観点から興味深いのが二点ありまして、まずは淀橋浄水場に引き込み線が敷かれていたこと。これは何でしょうかね、「浄水場建設時に資材を運んだ」と書かれている記事を見ましたが、引き込み線は戦時中くらいまで残っていたようで、存在意義は、建設時の資材搬入だけではなかったように思います。水道水をタンク車に積んで他所に運んだものでしょうか?二点目は玉川上水沿いに走る線路。これは今の京王線ですね。京王線の線路については、面白い話がありますので、またいつか書きたいと思います。

地図の上の方に青梅街道が通っており、神田川のところに「淀橋」という橋が架かっています(地図には名前はありませんが)。これが当地が淀橋と呼ばれている所以になります。もちろんヨドバシカメラの名前も淀橋から来ています。

まあ、調べれば調べるほど追加情報が出てきて、なかなか完結できないのですが、十二社の池についてはこのくらいにしたいと思います。(何か新情報が出てきたら追加するかもしれませんが)

PS.と書いておきながら、iPhoneアプリで「東京時層地図」という優れものを見つけてしまい、¥1,900もしたのですが即決買い。いまはまっています。過去の地形図や、航空写真も自在に見ることができるので、十二社池の時系列的変化も追うことができます。なので、近日中に(その4)も行きます。

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