2010年8月8日日曜日

江戸の面影

江戸が東京と名を変えてから今年で142年。子供のころの大東京祭で明治100年のパレードを見てからでも既に40年以上経ってしまいました。この間、明治政府による都市開発や、関東大震災による被災、そして東京大空襲と何度も被害をこうむった東京には、江戸の面影がほとんど残っていません。江戸期の建物も非常に少なく、都心部で残っている所は、浅草寺周辺、上野公園周辺(旧寛永寺)、江戸城周辺、芝増上寺周辺、池上本門寺周辺といったところでしょうか。

 写真は都心に残る最古級の建築物である、芝増上寺の三解脱門です。元和8年(西暦1622年)建造です。

JJの母方は江戸っ子でありまして、江戸時代には湯島天神の門前で酒屋を営んでいたそうです。門前といっても、どっち側かよくわかりませんが、たぶん黒門町の側だと思います。湯島天神は町人地と武家地の境に位置しており、江戸時代には諸藩(金沢藩とか)の江戸詰めの下級侍やら下級御家人やら(身分の高い武士は自分で買い物なんて行きませんので)、もちろん長屋住まいの熊さん八っつぁんに至るまで、貧乏徳利を提げて酒を買いに来たのではないかと思うと、想像が膨らみます。

東京には江戸期の建物こそほとんど残っていませんが、江戸の面影は、行事や人々の生活の中に 色濃く残されています。江戸時代から、明治、大正、昭和、平成と時代は流れて行きましたが、文化や人々の生活やものの考え方は江戸を連綿と引き継いでいるのです。

江戸の風俗などは、江戸期の優れた画家によって絵画として伝えられてはいますが、やはり、情報量は写真にはかないません。幕末にはわが国にも写真術が伝えられ、長崎の上野彦馬や横浜の下岡蓮杖の写真館は幕末には既に開業していました。

こういった人たちは、最初は外国人や国内の開明派要人などを撮影していましたが、外国人のエキゾチックなお土産として、日本の風景や、風俗などを撮影するようになり、近年になってそういった幕末・明治を写した写真が数々「発掘」されています。

そのなかでももっとも有名なのが、モース・コレクションで、大森貝塚を発見したお雇い外国人のモースが帰任時に米国に持ち帰った膨大な写真が存在します。そのほかにも色々なコレクションがあり、中には明らかな演出写真もあるのですが、どれも当時の人々の息遣いまで聞こえて来そうな、貴重な歴史資料です。

最近、ここのサイトに江戸・明治の写真がアップされているのに気がつき、 いとおしく眺めました。もしも興味があればぜひともご覧ください。

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