海自飛行艇 印へ輸出 中国牽制、政府手続き着手 - MSN産経ニュース http://sankei.jp.msn.com/politics/news/30324/plc13032406580005-n1.htm…
日本は武器輸出三原則によって、武器は原則輸出できないのですが、特定の装備を外すことで、可能とするようです。まあ、武器輸出三原則を順守することで防衛費も割高になっていたのですが、海外に販路を求めることで、メーカーも開発費の回収が進みますので、多少助かることでしょう。また、三菱航空機のMRJやホンダジェットなど、近頃話題に上る完成機の輸出の嚆矢となるかもしれません。
私は飛行機関係も詳しくはないのですが、結構好きで、このニュースの特に「飛行艇」という部分に惹かれてしまいますね。
Wikipediaの飛行艇の項目にはその定義として「飛行艇(ひこうてい、英語:flying boat)とは、水面発着出来る機体のうち、胴体部分が水面に接するように設計された飛行機である。日本工業規格(JIS)では「水上にあるとき、主に艇体によってその重量を支持する水上機」と定義される。この点で「フロートによってその重量を支持する」フロート水上機と区別される(JISW0106 航空用語(航空機一般))。」と記されています。
いまではすっかりニッチな機種になってしまった飛行艇ですが、戦前は、大型旅客機といえば飛行艇だった時代がありました。どうも当時のエンジンの信頼性が低く、緊急時にはどこでも着水できる飛行艇が重宝された背景があるようです。ランディングギアの技術が未熟で、大型機をスムーズに離着陸させられなかった事情もあるようです。
戦前はチャイナ・クリッパーとも呼ばれたマーチン M130がパンアメリカン航空によって太平洋便として運行され、サンフランシスコからマニラまで、またその先香港やシンガポールまで足を延ばしていたようです。
戦前から、戦中にかけての日本の航空産業は世界でも(トップとは言えないが)上位レベルのものがあり、 中でも、飛行艇に関しては、名機と呼ばれるものがありました。それは川西航空機が設計・製造していた97式飛行艇、及び、その改良型である、二式飛行艇(二式大艇とも呼ばれる)です。どうも帝国海軍は川西航空機を飛行艇の専門メーカーとして意識的に育成したようですね。
川西で開発を引っ張っていた技術者が菊原静男で、彼はのちに紫電や紫電改の設計にも携わっていたようです。
二式飛行艇 |
97式飛行艇や二式飛行艇は民間転用されて旅客機としても使われました。今では忘れ去られていますが、戦前から終戦直後にかけて、横浜の根岸に水上飛行場が存在し、そこから当時日本領であったサイパンさらにパラオまで定期便が就航していました。
さて、戦後になって、日本の航空産業を極度に警戒したGHQは航空機の開発製造はおろか、日本の空には模型飛行機すら飛ばすことができない時代が続きました。多くの航空機技術者は民間技術に転出し、重工業、自動車工業、鉄道などの分野で高度経済成長を支えていきました。
二式大艇を作った川西航空機も戦後は新明和工業と名称を変えて生き残り図りました。その後、日本でも航空機の開発ができるようになり、戦後初の飛行艇を新明和工業で開発することになりました。こうして生まれたのが、海上自衛隊の対潜哨戒機PS-1であり、初飛行は1967年のことでした。当然のことながら、前述の菊原静男も設計に携わっています。
PS-1の後継として開発されたのが水陸両用多用途機US-1(のちUS-1A)で、その改良版が今回インドへの売却準備中のUS-2なのです。
ながながと書きましたが、US-2が戦前の名機二式大艇 の直接の末裔ではないにしろ、何か深い縁でつながっているのですね。
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