2009年11月29日日曜日

Art for art's sake : 伊藤若冲の場合

また、伊藤若冲の話です。

以前ご紹介したように、伊藤若冲は京都錦小路の青物問屋「枡屋(通称枡源)」の主人でしたが、40歳にして家督を弟に譲り、好きな画業に専念したということです。「枡源」は使用人が2000人というから大変な大企業ですね。

江戸時代は商人に対する税金は、冥加金や運上金、それから商家の間口によって課税される地子銭、あとは公共事業への拠出金のようなものもあったようです。しかし、一般的には商家に対する税率はそれほど高く無かったといわれています。幕府財政が窮乏してくると豪商などに御用金と称して金銭を供出させる不条理な制度がありましたが、若冲が生きていた江戸初期はまだ幕府財政は健全であり、そのような事も無かったはずです。

ということを考えると、若冲はかなり金銭的な余裕のある楽隠居の身分だったと考えられます。彼の代表作である動植綵絵も高価な画絹や舶来の絵の具など、かなり高価な画材を使用していたことが知られており、彼の裕福さを物語っています。

このことを、さる画家に話したときのこと、「っていうことは、若冲は金のためとか他人のために画を描いたんじゃないのね。」というレスでした。そうですね、確かに若冲は金持ちの趣味で描いていたわけなので、自分のため、自分の表現のためだけに描いていたということでしょう。

先に書いたとおり、動植綵絵は釈迦三尊像とともに相国寺に寄進したものです。若冲は同寺に永代供養を依頼してもいたので、芸術的動機以上に宗教的な動機もあったものと思います。しかし、動植綵絵は誰に依頼されるものでもなく、金のためでもなく、権力者におもねるものでもないことは明白な事実だと思います。

相国寺は足利義満花の御所の隣接地に建立した古刹で、配下に有名な金閣寺(鹿苑寺)もあります。若冲は金閣寺の大書院障壁画も水墨で描いており、今に残されています。義満が建立した当時、伽藍には高さ106mの七重大塔があり、数年で焼失したものの、以後530年間(1926年まで)日本一高い建造物の記録を持っていたと言うことです。


<花の御所>

いかに芸術家とはいえ、通常の場合は世過ぎの事も考えざるを得ない状況ですので、若冲のような境遇で、誰の意見も目も気にせず、このように自分の思うままに製作でき、しかもそれが数百年来伝わる傑作として残されるという状況は稀有のことだと思います。

このようなケースは、古くは姫路藩主(譜代:15万石)の弟で「夏秋草図屏風」などの秀作を残した酒井抱一や、下っては中央画壇を見限り、奄美大島で染色工として働きながら傑作の数々を残した異色の日本画家田中一村に通じるものがあるかもしれませんね。


<「風雨草花図」通称「夏秋草図屏風」>

今日のタイトルにある"Art for Art's sake"は直訳すれば「藝術のための藝術」という意味ですが、普通は「藝術至上主義」と訳します。この言葉はフランス語の''l'art pour l'art''という19世紀初期の言葉の英訳です。フランス語のほうが語呂がいいですね。ラテン語だと"Ars gratia artis"です。このラテン語の言葉は、MGM映画の最初のタイトル画面でライオンが吼える場面がありますが、ライオンの上に現れるリボン(良く見たらリボンじゃなくてフィルムですね)に書き込まれています。今度MGM映画を見ることがあれば、目を凝らして探してみてください。

なんかラテン語ってなんとなくかっこいいですね。たいして意味の無い言葉でも深遠な意味があるような感じがしてくるから不思議です。(JJは昔、学生時代にラテン語の授業を登録していたのですが、一度も出ないで単位も落としたという、トラウマがあります。)

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