2010年1月9日土曜日

神奈川台場跡散策

JJの住んでいるのは横浜市神奈川区。ここは江戸時代には旧東海道の神奈川宿があったところです。東海道五十三次は日本橋→品川→川崎→神奈川→保土ヶ谷→戸塚→藤沢....と続きます。日本橋を朝出発した旅行客は健脚であれば戸塚や次の藤沢あたりまでたどり着いたかもしれませんが、足の遅い者や遅い時刻に出発した者など、神奈川宿あたりで休んだ旅行者もあったかもしれませんね。また、神奈川宿は東海道五十三次の宿場としての他にも、江戸への物資を運ぶ舟の中継基地としての役割も大きかったと思います。

ペリー来航以降、安政5年に結ばれた日米修好通商条約によれば、開港場所として記載されていたのは、横浜(現在の関内や大桟橋の方)ではなく、神奈川と明記されていました。しかし、神奈川宿は交通の要所であり、また江戸に近く、外国軍隊の侵略や、当時の攘夷派による外国人襲撃の危険性などを考慮して、今の大桟橋のある辺りに桟橋を建造し、そこを開港場としました。開港場は長崎の出島のようにして堀をめぐらし関所を作ったのです。関所はいまの吉田橋(関内駅近くの伊勢崎モール入り口辺り)付近にあり、そこから海側を関内、陸側を関外と呼んだそうです。

当時の地形では現在の横浜駅周辺は入り江になっており、神奈川宿から横浜の開港場へは渡船が通じていました。先日記事にした洲崎大神の前が渡船の船着場だったようです。

条約の条文を考えるとこれは欺瞞的だったので、海外からは当然非難されました。その批判をかわすために廃藩置県時に神奈川も横浜も含むこの県全体を神奈川県と名づけ「だって、神奈川だろ、文句言うなよ...」としたようです。

これに先立ち、ペリー来航の時に江戸前に台場と呼ばれる西洋式砲台が建設(1854に一部完成)され、横浜開港後に横浜にも台場が建設されました。


これは明治14年に発行されたフランス式彩色地図です。当時の陸軍陸地測量部がフランスから学んだ技術で作成しました。写真中央の陸地から飛び出した出島のような部分が神奈川台場です。ちなみに左下の土手のようなところは鉄道用地で横浜駅(現在の桜木町駅)に通じる鉄道が海の中に作られた土手の上を通っていました。土手の左側(現在の横浜駅西口周辺)は海でした。この土手の埋立て工事を請け負った高島嘉右衛門についてもいろいろと話題がありますが、いつか記事にしましょう。

神奈川台場をもう少し詳しく図にしたのが下の写真です。

こちらも同じく明治14年発行のフランス式彩色地図です。撮影の都合で上が北ではありません。

この台場に関しては「横浜の開港により、江戸湾内を航行する船舶の監視役として 神奈川台場が築造されることとなりました。安政6年(1859)5月、幕府は伊予松山藩に海防砲台の構築を命じ、勝海舟が設計にあたりました。約7万両の費用と約1年の工期を要し、万延元年(1860)6月に 竣工した当時の台場は、総面積約2万6千m²(約8千坪)で、海に突き出た扇形をしていました。明治32年(1899)2月に廃止されるまで礼砲用として使われていましたが、大正10年頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなっています。」といった記事がありました。

周辺が埋め立てられる前の台場の写真が上のものです。写真下側の棟の高い建物が並んでいるあたりが旧東海道の町並みだと思います。

現在はどうなっているかというと、この下に埋もれています。(上の写真とアングルは違いますよ)

ここは東高島貨物駅といって、桜木町から鶴見を結ぶ貨物線(高島線)が通過する場所です。かつては画面左の水路に入ってきた艀(ハシケと読みます)から荷揚げされて、この貨物駅で貨車に積み替えられたのでしょうが、現在は貨物列車の待ち合わせ(この地点から桜木町駅まで単線なのです)をするくらいで、荷扱いは行いません。ただし、日通とヤマト運輸が宅配便の基地として使っています。

画面下に倉庫のような建物が見えると思いますがその近くにこんな立て札が立っています。「史跡 神奈川台場跡」って書いてありますね。

後ろに見える石垣が台場の石垣の遺構ですね。石垣だけを撮影したのが下の写真です。

先ほどの地図を見ると判ると思いますが、台場には二本の通路が備わっておりました。そのうちの一本は下記のように現在発掘調査が行われております。

なにか興味深いものが見つかると面白いですね。

高島線は、そんなに頻繁に列車が来るわけではないのですが、そこそこ来ますね。コンテナ列車も見かけますが、多いのは、石油を積んだ貨物列車です。根岸の製油所(新日本石油精製根岸製油所)から運ばれてくるんでしょうね。根岸の製油所は日本最大の石油精製施設だそうです。石油を運ぶ貨車(タキ1000型というようです)は一両に45トンも積載できますので、タンクローリーで運ぶよりよっぽど効率がいいんでしょう。電気機関車だとエコでもありますね。



貨物線はこのあたりから複線で湾岸を進み、鶴見駅のあたりで東海道線に合流します。その後新川崎を経て武蔵野貨物線に進んでいくのか、あるいは南武線経由で川崎貨物駅そしてその先の大井埠頭裏にある東京貨物ターミナル駅のほうに進むのか、そこまで追っかけたことがないので良くわかりません。石油輸送列車とその行き先に関してはこのリンクに記載されています

かつて京浜工業地帯には湾岸沿いに網の目のように貨物線や引込み線が張り巡らされていましたが、今ではご紹介した本線を残すのみになりました。かつての引込み線は廃墟のようになっています。廃墟趣味のJJにはちょっと興味の尽きないところもありますので、そのうちに記事でご紹介しましょう。

これは瑞穂埠頭(現在も部分的に在日米軍に接収中)に向かう引込み線のあとで、瑞穂橋に並行している鉄橋です。今日はこの手前でプロのカメラマンが男性モデルの写真を撮影していました。

最後にもう一枚写真を掲載しましょう。これたまんないですね。廃墟趣味+リベット萌えのJJの心をくすぐる一枚です。

これは東高島貨物駅から東神奈川駅に伸びる線で、昭和34年くらいに廃線になったものの遺構です。

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