2012年4月24日火曜日

原富太郎と三溪園(その1)

私は、横浜市に住んで20年以上、今の横浜駅近くに越してからも、8年になります。しかし、あの有名な三溪園には行ったことがなく、今回初めて訪れましたのでその件を記事にしましょう。

三溪園を造営したのは原富太郎という明治時代の富豪です。この人は文人でもあり、号を「三溪」としていたので、その庭園を三溪園と呼びます。ここは、本牧三の渓と呼ばれていた場所で、富太郎さんはその場所の名前を号にしたのだと思います。

原家の経済的な基礎を築いたのは、原善三郎( 文政10年4月28日1827年5月23日) - 明治32年(1899年2月6日))という人です 。この人は、今でいう埼玉県の神川町というところの出身で、もともと、秩父地方で産出した生糸を買って江戸の呉服問屋に販売する、問屋のようなことを家業としてやっていたようです。

幕末になって、生糸の輸出が開港場で行われるようになると、横浜に移り、居留地の外国人商人に生糸を販売する事業を始めたようです。詳しくはこのリンクをご参照ください。生糸商はそれはそれで競争が激しかったようですが、何とか競争を勝ち抜いて、明治の初めには横浜の豪商の一角を占めるに至りました。また、横浜市の最初の市議会議員を務めたり、明治25年には埼玉県選出の衆議院議員、明治28年には高額納税者として神奈川県選出の貴族院議員として中央政界にも進出しました。


大きな地図で見る


善三郎さんが現在の三溪園の土地20万㎡を購入したのは、明治初年のこと。明治20年には山上に別荘松風閣を建設しました。 善三郎さんが亡くなったのは明治32年のことです。一方、善三郎さんには跡取り息子がいたものの、夭折してしまいましたが、孫娘の原 屋寿(はら やす)がおりました。屋寿が東京の跡見女学校で学んでいた時に、教師だった青木富太郎(慶応4年8月23日1868年10月8日) - 昭和14年(1939年8月16日))(のちの原富太郎(三溪))をみそめてしまい、明治25年(1892年)に結婚しました。青木富太郎は東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学んだのですが、岐阜の庄屋の跡取り息子だったそうで、入り婿に際してはいろいろともめたようですが、跡見の校長が何とか話をつけたようです。


三渓の生家である青木家は今の岐阜市にあった素封家で、代々庄屋を務めるとともに、養蚕や絹の行商などにもかわっていたようです。 また母方の祖父である高橋杏村は南画家で、詩書にも造詣が深かったとのこと。三渓自身も地元に近い鶏鳴塾という場所で、漢詩漢文を学んだそうです。この辺の生い立ちが、のちの生糸王にして文人である原三渓を形成していったものと思われます。

話は前後してしまいましたが、三渓さんは入り婿として、原商店に入り、部屋住みの店員見習いから初めて黙々と働きました。そして、明治32年に善三郎さんが亡くなると、大胆な経営改革に着手するのです。まずは原商店を、原合名会社に改組し人事制度も刷新。従来居留地の外国人商人に販売していた生糸の海外市場への直接取り引きの開始。また、富岡、名古屋などの製糸場を三井家から譲り受け、生産から販売までの一貫体制を確立し、また先代から引き継いだ第二銀行の経営にあたるなど、マルチな経営の才能を見せました。


三渓さんは自らのビジネスに集中するだけではなく、蚕糸業全体の振興にも努め、第一次大戦直後の恐慌の際には、自らが率先して政治家と交渉を行い、蚕糸業を救済する枠組みを策定し、自ら帝国蚕糸株式会社の社長に就任し、蚕糸相場の安定に奔走しました。その後も横浜経済界の重鎮として第七十四銀行の破綻処理や、関東大震災からの復興に率先して取り組み、また横浜港の近代化にも並々ならぬ成果を上げました。いわば今日の横浜の基礎を築いた偉人であります。(最後はだいぶ端折りましたが) 生糸は明治時代の主要輸出産業でありますから、原三渓さんの地位は、今でいうとトヨタ自動車の会長くらいの感じではないでしょうか。

で、三溪園の話になります。

0 件のコメント:

コメントを投稿