2012年3月7日水曜日

高島水際線公園と動輪の謎

またまた投稿が久しぶりになってしまいました。すみません。

昨年、みなとみらい21地区の端っこに、高島水際線公園(たかしますいさいせんこうえん)ができました。公園の概要はこちらのリンクかこちらのリンクを見てください。

この辺はみなとみらい地区として造成される前は、高島貨物駅(及び横浜機関区)として活用されていました。貨物船で運ばれてきた貨物が、艀(はしけ)に移し替えられ、この近くの岸壁で陸揚げされ、貨車に積み込まれ。この貨物駅で、行き先ごとに貨物列車として編成されて全国に輸送されていったのです。当時は搭載する貨物ごとに、無蓋貨車、有蓋貨車、タンク車、ホッパー車などなど、いろいろな貨車が存在していました。しかし、貨物輸送がコンテナに切り替わった80年代に(特に1984年2月1日国鉄ダイヤ改正)従来型の貨物列車は大幅に削減されてしまい、全国に配置されていた操車場や貨物駅も大幅に整理されてしまいました

 これは昭和6年版の大横濱全図という地図の高島貨物駅あたりの部分です。

さて、話は戻って、高島水際線公園ですが、この公園の中ほどに、車輪モニュメントというものがあります。説明によると、公園の造成中に出土した車輪をモニュメントとして飾ったということのようです。



しかし、この車輪、単純な車輪ではありません。よく見ると、クランクのようなものがついています。これは紛れもなく機関車の動輪です。それにしても小さいですね。これはいったい何でしょうか?
鉄道オタクとまではいえないものの、鉄道関係に興味のある私は、気になって気になって仕方がありませんでしたので、調査を開始しました。

 後日、自宅からメジャーを持ってきて、実測してみました。まずは軌間(レールとレールの距離)ですが、左の写真のように約760mmです。ううむ、これはナローゲージですね。軌間にはいろいろな規格があり、日本で最も普及しているのが、JRの在来線や多くの私鉄で採用している1067mm、京浜急行や京成電鉄などの私鉄や新幹線で採用している標準軌1435mm。そして、昔の馬車鉄道の流れをくむ、1372mm(一部の私鉄、たとえば京王線などで採用)

 これに対して、762mmという規格もあって、Wikipediaの記事では「 762 mm(2 ft 6 in) - 世界の多くの軽便鉄道・森林鉄道。日本では三岐鉄道北勢線近鉄内部・八王子線黒部峡谷鉄道。 日本で「ナローゲージ」と呼ばれる鉄道の多くがこの軌間である。2フィート6インチから、ニロク、ニブロクと呼ばれる。」とあります。鉄道網の全国への整備の過程で、建設費の安い軽便鉄道が、本格的な鉄道を補完する目的で各地に建設された時期があります。

ていうことは、この動輪は、旧国鉄の規格のものではなくて、どこかの軽便鉄道。あるいは森林鉄道の機関車のものということになります。
さらに、動輪の径を実測してみました。写真はありませんが、655mmでした。かなりな小径です。

さて、ここで、手元にあった資料。中学生の時に買った、機芸出版社の「蒸気機関車スタイルブック」を引っ張り出して、隅から隅まで探して見たら、 ちょうどこのサイズに適合する機関車を見つけることができました。

耶馬溪鉄道10型..ですね。説明文を転載します。「762mm軌間の小型タンク機関車。大分県の耶馬溪鉄道が購入したが、のち四国の別子鉱業に転じた。この種の小型機しては割合に近代的な、まとまったスタイルであった。キャブ廻りなど同一形態のCタンクが南武鉄道に納入されている。No.10・気筒229φ×356mm・重量14.5t・最少曲線半径21.3m・製造1927・汽車」

最後の汽車というのは製造元が「汽車製造会社」という意味です。文中にはありませんが、図面のほうには動輪の径が660φと記載されています。まさにこのサイズですね。

ここで、気になるのが、「 同一形態のCタンクが南武鉄道に納入されている。」という部分です。Cタンクというのは動輪の軸が三軸で炭水車がつかない機関車です。

今のJR南武線は、当初私鉄の南武鉄道として、多摩川の砂利を運ぶために建設されました。昭和2年(1927年)3月に川崎ー登戸間の旅客線と、矢向ー川崎河岸間の貨物線が開通し、順次延伸していったようです。南武鉄道は当初から電化されていたようですが、貨物列車には蒸気機関車も使われていたようです。すると、上記の耶馬溪鉄道10型の姉妹機が活躍していた可能性もありますね。ちなみに、南武鉄道は、大東亜戦争の戦局の悪化に伴い、昭和19年4月1日に国鉄に買収されてしまいました。

ということで、先の動輪は、南武鉄道に納入された上記の同型機か?という話ですが、ここで、符合しないのが、南武鉄道の軌間です。ここはナローゲージ(762mm)ではなく、旧国鉄軌間(1067mm)だったはずです。南武鉄道に納入された同型機とはたぶんこのリンクにある、国鉄買収後に1120型となったものだと思いますが、動輪の径は860mmで少々大きいし、軌間も1067mmですね。

次に、神奈川県に762mm軌間の軽便鉄道が存在したかという観点で、調査をしてみました。 検索したところ、二種類の軽便鉄道が見つかりました。ひとつは、湘南軌道というもので、秦野から二宮までを南北に結んでいました。秦野で産出される葉タバコを二宮まで運ぶのが主目的だったようです。ここのリンクに湘南軌道で使用されていた蒸気機関車の写真が載っていますね。耶馬溪鉄道のものよりも、旧態依然ですが、かわいらしい機関車です。この動輪だったのかもしれませんね。

もう一つは、小田原熱海間を結んでいた熱海鉄道です。もともと、国鉄の東海道本線は、国府津から御殿場線を通って箱根を北側に迂回していました。そこで、国府津-小田原-熱海を結ぶために、国府津-小田原間は馬車鉄道(客車を馬が引く形式)小田原-熱海間は豆相人車鉄道なるものが整備されました。人車鉄道とは、人間が客車を押すもので、6-8人乗りの小さな客車を3人の車丁が後から押していたそうです。小田原熱海間25.5kmを4時間5分(その後急行ができて3時間5分)かけて走破したとのこと。まあ、のんびりした時代であるが、人車鉄道以前は悪路を歩いて1日がかりであったということなので、熱海への湯治客には画期的な交通手段だったのでしょう。

人車鉄道には、面白いエピソードがあり、こんな話もあります。「豆相人車鉄道では、狭い客車ながらも1・2・3等と客のランクが分けられて運賃にも格差が設けられており、上り勾配区間では3等→2等客の順番で、押手の押す作業を手伝うために駆り出された。最後まで客車にいられたのは1等客のみであった。」

人車の時代は明治28年からはじまり、明治40年には軌間が762mmに改軌され、小型の蒸気機関車が客車を牽引するようになりました。その後、国鉄が熱海を通って丹那トンネル経由で沼津に抜けるルート(現在の東海道線)を建設することになり、熱海鉄道は国が買い上げ、事業者は線路を国から貸与を受けて営業を続けました。しかし、小田原熱海間の国鉄の完成を待たず、大正12年の関東大震災による壊滅的な被害から立ち直れずに、営業中止に追い込まれたとのことです。熱海鉄道で使用されていた蒸気機関車の内1両(7号機)は熱海駅前に展示されているそうです。

話はそれましたが、結局動輪の由来はわかりません。どこかの軽便鉄道で使われていた蒸気機関車の動輪であることは間違いなさそうですが、それがどういう経緯で、高島貨物駅(あるいは横濱機関区)に埋まっていたものでしょうか?なぞは深まるばかりです。熱海鉄道は廃線時には国有化されていたので、その車両の残骸が国有鉄道の管理下にあったという仮定も成り立つかもしれませんね。

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