<今日のツイートからすこし編集しなおして掲載しました>
西暦1800年の世界。人口百万人を超える都市はたった3個所でした。倫敦、北京と、そして江戸です。江戸の人口のうち、江戸定住者は約半分で、残りの半分は参勤交代
に伴って国許から出て来た武士や使用人たちでした。参勤交代は一年おきなので、凡そ100万人以上が国許と江戸を行ったり来たりしていたということになります。
江戸の文化や情報網は現代人が考えるより遥かに発達しており、しかも、厳密な身分制はあるものの、文化面での交流に関しては、武士もその他もあまり関係なく行われていたようです。
江戸で生まれ、発達した文化が、100万人の参勤交代随行員を通じて、全国に伝播します。それ以外にも、豊かな庶民は参拝やら、物見遊山やら、年貢の出納(名主が在府の領主に金納で持ってきたりもあったようです)やらで、各地を旅行をしていました。これほどダイナミックに人間が移動して、情報が伝播していた地域は、近世では他にはないのではないかと、思っています。
参勤交代で江戸詰になった侍も、そんなに忙しくはないので、空き時間には名所見物をしたり、江戸のグルメを楽しんだり。少ないこずかいをやりくりしつつ、楽しんでいたようです。この件に関しては、幕末の紀州藩士、酒井伴四郎という下級武士の記録が残っていて、江戸詰だった万延年間に詳細な日記とこずかい帳が残されています。この人は江戸詰めだったときには、紀州藩の中屋敷(いまの赤坂御用地)内の長屋に住んでいて、住居費は掛からず。また、紀州藩では江戸詰めの侍に手当を支給していたようなので、遊び歩くだけの資金もあったようです。
一方で、江戸中期、文化5年(1808年)には、江戸市中に656軒の貸本屋が存在したといいます。平均して1軒当たりの得意先が170軒ほど(得意先が商家とかであ
ればそこには複数の読者が…)。すると、読者数としては、10万人を軽く超える。江戸の総人口が100万人である事を考えると大変な数。貸本屋が扱うのは、お上の検閲を受けた正規の書物の他にも、各種発禁本(艶本や幕府に批判的な書物や、海外事情などのいわゆる裏本ですかね)が含まれていたとか。
で、雑俳の話ですが、これが江戸時代には大変流行しました。有名な宗匠の中には、商品付き(宗匠が採点)興行を行うものもあり、前句付けなどで応募を募っ
たようです。元禄期の引札(チラシ)によると、投句料八銭で、上位5名に奈良晒1反、その後は、徒然草の注釈書、小刀、風呂敷、墨などなど300位まで商品が提供されたそうです。
投句者は、各地の川柳取次ぎ所で応募しますが、その投句総数も、万句合せの言葉通り、一万を超える事もありました。投句者のほうも、大名、武士から地方の商人、農民、女性や子供まで貴賎にかかわらずといった感じです。
投句料が八銭(八文の事だと思われます)で、一万句集まると、八万文。一両が四貫文(4000文)と換算すると、総額は二十両て事になりますね。こういう興行を月に四回開催した宗匠(江戸の松月堂不角)もあったようですから、かなりのビジネスでもあります。
江戸文化というものが、階層的にも地域的にも極めて裾野の広い大衆文化であったものと思います。雑俳にとどまらず、他の文学、絵画や音楽、はては科学技術においても。それが、現代にも通じている。決して他国には例を見ないものと思われます。
0 件のコメント:
コメントを投稿