2019年1月13日日曜日

江戸時代の高級料亭「八百善」と一両二分の茶漬け(その1)

江戸の町に八百善という高名な料理屋があり、たいそうな評判を博していました。どのくらいの評判かというと、酒井抱一が挿絵を寄せた「江戸流行料理通(リンク先で電子書籍として購読可能)」という料理本がロングセラーとなったり(参勤交代の武士や江戸見物の人々が土産に買い求めたという事です)、第十一代将軍の家斉公がたびたび訪れたり(将軍様が民間の料理屋を訪れるというのはかなり異例の事だと思います)といった具合です。また、江戸の懐石料理を完成させたという話も有名です。

図1:江戸時代の八百善の様子
八百善は代々栗山善四郎が継いできており、現在は十一代目まで来ています。栗山家は1570年ごろは百姓をされていたようですが、その後自家栽培の作物を販売する八百屋に転じ、その名も八百屋善四郎となりました。明暦の大火(俗にいう振袖火事:1657年)以降の江戸都市改造の際に、神田から新鳥越(浅草と新吉原の間くらい)に移転。名前も八百屋善四郎から八百善に代わり、二代目善四郎の頃、享保二年(1717年)を八百善の創業の年としているそうです。
図2:八百善の所在地
図2の赤丸は八百善の所在地です。ちょっとわかりにくいのですが、地図の右下の川が大川(隅田川の事ですね)左下の赤線の中が浅草寺。左上の赤枠の中が新吉原です。枠の中ではありませんが、桃色に塗られているのが寺院でこれらは浅草寺の別院であったり、別の寺院であったりと、とにかく寺が多いです。明暦の大火の後に幕府が都市改造を行った際に、寺は郊外(下谷、谷中、あるいは麻布あたり)に移転させたという経緯が関係していると思います。

当初は青果商であった八百善ですが、場所柄法事などのために寺院への仕出しなどを行うようになり、しだいに料理屋へと商売替えをしたようです。

大川から吉原に向かって水路が見えると思いますが、これが山谷堀で、堀に沿って日本堤という堤防がありました。吉原への遊客は日本堤を歩いて行ったり、あるいは舟で山谷堀を通って行ったようです。吉原で遊ぶにはたいそうな金(一流の太夫と遊ぶには一晩十両とか..)が掛かりますから、通人や豪商などの通り道近くに八百善の店があったという事になります。吉原の遊郭では客の料理は仕出しを頼んだそうですから、八百善あたりにも仕出しの依頼があったかもしれません。

ところでJJの母方の祖母の実家が今戸という場所で、船宿を営んでいたという事なので、先祖は舟で遊客を運んでいたりしたのかも知れません。 関東大震災の大火事の時には舟宿の舟で川に逃げて、難を逃れたという話を叔父から聞いたことがあります。今戸町は図2の地図だと大川寄りの青い楕円のあたりです。なんと八百善の目と鼻の先ですね。八百善で食事をする金はなかったかもしれませんが、客を舟で運んだかもしれません。
図3:名所江戸百景から「よし原日本堤」
 稀代の浮世絵画家、歌川広重も何枚か吉原の絵を残していますが、図3は日本堤の様子です。奥の屋根が連なっている場所が遊郭のある吉原です。吉原は遊女の逃亡を阻止するために堀で囲まれており、日本堤側にある大門(「だいもん」ではなく「おおもん」と読みます)からのみ出入りが可能でした。堤の上に小屋掛けのような建物が多くみられますが、茶店や飲食店のようなものでしょうかね。
図4:八百善周辺の風景
 先述の江戸料理通の挿絵に八百善周辺の風景がありましたので、図4として掲載します。真ん中に八百善の看板が見えると思います。その奥に左右に通るのが日本堤、右奥が吉原、左奥に浅草寺の五重塔が見えて、右手前は待乳山聖天です。待乳山の少し南側の大川の方から吉原を俯瞰した構図になると思いますが、現実の位置関係からは多少無理があるかもしれませんね。

話が一両二分の茶漬けまで至りませんでしたので、そのあとの話は(その2)へ続きにしましょう。

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