2020年5月5日火曜日

COVID-19と日本の特異性

2020年はカルロス・ゴーン逃亡のニュースで年が明け、唖然としたものでしたが、概して平和な一年が予想される令和二年の正月を過ごしました。それが、だんだんと変な方向に傾いていったのは、2月に発生した新型肺炎騒ぎです。2月はダイヤモンドプリンセス号の集団感染が発生して、JJの家の目と鼻の先にある大黒埠頭に係留されていたのを遠目に、「コロナ怖いね」と言いながらも、まだ国内出張にも出かけることができました。。

3月に入るとじわじわと感染者が増加し、なんだかんだと自粛モードが始まり、出張もすべて取りやめにして、会社も在宅勤務に切り替わりました。下のグラフは2月から3月にかけての感染者の累計です。3月29日にはかねて闘病中であった志村けんさんが亡くなり、事態の深刻さが一挙に深まりました。

(東洋経済オンラインより)

 2月ごろまではまだ中国、韓国、日本と極東の国々での感染症であったのが、3月に入ってイタリアを始め欧州諸国に感染が拡大し、さらに3月中旬ごろからは米国で感染が拡大、その後世界的な流行となりました。5月4日現在米国での感染者数は1,188,421人にのぼり、亡くなった方は68,602人と世界最大の感染国になってしまいます。

 国別感染者数(外務省海外安全ホームページより)

感染者数を競うつもりはありませんが、2月ごろは中国がダントツで韓国、日本と続いていたのですが、その後日本の感染者数は欧米の後塵を拝し、5月5日現在では31位に落ちています。5月5日現在の世界の感染状況は下図の通りです。
 
 By JOHNS HOPKINS UNIVERSITY

4月8日に適用開始された緊急事態宣言で、社会生活や企業活動に多大なる影響をもたらしており、筆者も3月からの在宅勤務で仕事の効率も上がらない状況が続きます。当初は5月6日までの予定だったのですが、5月4日の発表で5月31日までの延長が決まりました。(5月14日にチェックポイントを設けて感染拡大が食い止められていれば途中解除もあり)

筆者のような会社員は在宅でも仕事ができて給与も毎月入ってきますが、自営の方や時間給の方、特に飲食や物販並びにサービス関係の方々は大変な影響だと思います。 これだけの痛みをともなう緊急事態宣言に効果が見いだせなかったかというと決してそんなことはなく、新規感染者は4月中旬をピークに見事に減少しています。

 (東洋経済オンラインより)
グラフは毎日発生する新規感染者のグラフで、棒グラフの緑色が有症状感染者、黄色が無症状感染者、灰色が症状確認中です。棒グラフだけ見ていても曜日変動などがあり、傾向がつかみにくいのですが、黄色い線が変動を均した移動平均になります。移動平均線では4月15日くらいにピークを迎えて、その後減少していることが分かります。これでよいかというとまだ駄目で、(新規感染者数)<(回復者数)まで減少しないと、病床がパンクして医療崩壊を起こすことになります。ちなみにグラフは上げませんが、新規退院者数は1日100人程度です。

感染者数の国際比較に関しては、国によってPCR検査の能力やポリシーの違いがあり、一概に比較は難しいのは承知していますが、一方で新型肺炎による死者数は国により多少の誤差(通常の死亡者が必ずしもPCR検査を受けていなかったりして、漏れているケースがある)があるものの、ほぼ正確に犠牲者を捉えていると考えられます。

また国によって人口が異なるので、感染者や死亡者の絶対数を比較してもあまり意味がありません。そこで、人口100万人当たりの感染者数と同じく人口100万人当たりの死亡者数で散布図を作ってみると、非常に興味深いことが分かります。国の選定は各大陸でそれぞれ代表的な国を拾いました。

 
Worldometerの数字をもとに筆者作成
100万人当たりの感染者数と死亡者数が共に非常に高い群と非常に低い群、そしてその中間に位置する群があることが分かります。群を分かりやすくあらわしたものが下図になります。
 便宜的にA群、B群そしてC群と区別することにしましょう。人口当たりの感染者数と死亡者数が共に非常に多いA群にはベルギー、スペイン、イタリア、イギリス、フランス、米国が含まれます。中間のB群にはカナダ、ドイツ、イラン、トルコ、ペルー、ロシア、チリが含まれます。人口当たり感染者数や死亡者数がが最も低いC群には日本、韓国、中国、インド、マレーシア、インドネシア、オーストラリアが含まれます。

B群にはこれから感染拡大するかも知れない南米やロシアが含まれていますが、それ以外の国は大体このくらいで推移すると思われます。不思議なのはアジアとオセアニアの国が含まれるC群です。特に日本に関しては、共産党が強権で武漢などの諸都市を封鎖隔離した中国や、同じく都市の強制的ロックダウンを断行した欧米に比べて 非常に緩い隔離政策にもかかわらず、幸いにもあまりひどいことにはならず、感染者数もピークアウトしています。

日本の人口当たりの感染者数や死亡者数が極端に低い原因に関しては、下記のような色々な説が取りざたされていますが、決定的な要因は現在のところ分かっていません。

-人種的な差異
-清潔な生活習慣(帰宅すると靴を脱ぎうがい手洗い、毎晩入浴)
-社会の衛生水準
-マスクを装着する文化
-他人と(身内でも)スキンシップしない習慣
-BCGの接種(特にTokyo172株)
-世界一普及している人口当たりのCTスキャン装置
-国民皆保険制度と国民の健康管理水準
-人口当たりの病院ベッド数
-従順な国民性(法的強制力無くても自粛に従う同調圧力(?))

まあ、理由は分かりませんが、日本の場合はそれほど壊滅的にはならずに終息を迎えられるのではないかと思っています。しかし、油断はできませんので、あと4週間我慢して(新規感染者数)<(回復者数)となるのを待ちましょう。

付録:

筆者が参考にしている、新型コロナウイルスによる肺炎(COVID-19)に関連するリンク先(時限的かもしれませんが)

厚生労働省
内閣府
NHK
東洋経済オンライン
ジョンズホプキンス大学
Worldometer

2020年3月8日日曜日

ブログ「BCR日記」もずいぶんほったらかしになってしまいました

最後の記事が2019年1月14日だったので、もう1年以上も前、元号もまだ令和になる前ですね。その後、個人的には色々とあったのもあり、また本職の仕事とか業界団体の仕事とか多忙でブログを書く精神的な余裕もなかったものです。

今は新型コロナウイルス騒ぎで、出張は取りやめ、本職の方も在宅勤務期間という事で、時間的余裕はあるので、ぼつぼつと何か書き始めようと思います。

2019年1月14日月曜日

江戸時代の高級料亭「八百善」と一両二分の茶漬け(その2)

八百善は順調に商売を拡大し、四代目善四郎が誕生した明和五年(1768年)には、年商が2000両近くにまで達します。この四代目善四郎という人がかなりのやり手だったらしく、若いころには2度ほど諸国に料理の取材のための旅に出たり、文政五年(1822年)には、前述の江戸流行料理通の初版を発行したりと、料理文化の発信に努めます。

また、この四代目善四郎は文人墨客との交遊も厚く、文化文政時代を代表する江戸の文化人たち、酒井抱一、大田蜀山人、谷文晁、葛飾北斎らともかかわりがありました。
図1:八百善の二階座敷にて文人会食の図   
 図1は江戸流行料理通の挿絵で、右側の角ばった顔の人が我が敬愛する狂歌師の大田蜀山人(南畝)です。酒井抱一や大田蜀山人と言えば、我が故郷の名園である向島百花園(文化年間開園)にもかかわりがありました。この両名に関しては、いつか筆を運びたいと思います。

八百善で出していた料理は大変凝っていたもので、前出の江戸流行料理通を読み込めばその手間の掛けようが分かります。当時のくずし字の本は読みずらいので、現代の八百善のホームページにいくつかのレシピが掲載されていますので、ご参照ください。どれもみなおいしそうであります。


江戸流行料理通には優れた挿絵が何枚も入っており、これもまた人気に一役を買ったものではないかと思います。挿絵のいくつかをご紹介しましょう。
図2:八百善増築の様子・葛飾北斎画
 これは八百善の増築の様子でしょうか、左側の仮囲い(江戸時代も仮囲いしたんですね)の方で職人が作業しています。職人の動きが北斎漫画そのままに生き生きと活写されています。何棟かの建物が描かれていますが、みな瓦葺きで立派ですね。右側の門のところに八百善と書かれた暖簾が下がり、その奥に鳥居らしきものが見えます。
図3:江戸流行料理通の挿絵・酒井抱一画
きのこ、わさびに侘助の花でしょうか。しゃれた俳画で、このページは数少ない色刷りになっています。姫路藩十五万石の次男坊にして当代一の画家に敬意を表しての色刷りでしょうか。くずし字が読めないので、上の文言が分かりませんが、最初の「八百善」と途中の「割烹家」最後の「蜀山人」だけは何とか分かります。だれかわかったら教えてください。
図4:江戸流行料理通の挿絵・谷文晁画
 こちらは谷文晁です。こちらも色付きですね。模様は鰹みたいですが、ちょっと痩せすぎな感も。背中と腹のとげとげがキハダマグロみたく見えますが。うむ。絵は良いでしょう。
 
また、江戸流行料理通には当時は珍しい卓袱料理や普茶料理に関する記載も多く、作法から調理法まで詳細に記載されています。
図5:江戸流行料理通の挿絵・清人普茶式
図6:江戸流行料理通の挿絵・普茶料理略式
普茶料理とは江戸初期に中国から来日した禅僧である隠元禅師が伝えたとされる精進料理で、法事の時などに食されたようです。通常の料理は個別の膳に盛られたものが供されますが、卓袱料理や普茶料理では大皿に盛られたものを取り合って食します。図5は清国の人々が会食をする場面で、これに対して日本では図6のように座卓で食されたようです。「賓主一礼して席に着く図」と書かれています。襖をあけて挨拶しているのが主賓なのでしょう。

鎖国を始めて200年くらい経ったころですが、料理にもじわじわと海外の文化も取り入れていたようですね。図1でも、寝惚け先生(大田蜀山人)はワイングラスのようなものを手にしています(ギヤマンと言いますかね)。

文化文政時代に先進的な食文化を提供し、当代一の文人から将軍様にまで愛された「八百善」色々な伝説も語り継がれています。最後に伝説の一つである「一両二分の茶漬け」の話で締めましょう。この話は江戸末期に著された「寛天見聞記」という随筆に記されており、この「寛天見聞記」は「燕石十種」という随筆集の第5巻に収録されています。国会図書館デジタルコレクションで読むこともできます。以下、現代語で要約します。

ある通人が、酒も飲み飽きたし八百善にでも行って、極上の茶を煎じさせて香の物とともに茶漬けでも食おうという事になり、友人二名ほどを連れて八百善に行き、茶漬けを頼んだ。 「しばらくお待ちくだされ」と言われて半日も待たされ、やっとのことで香の物と煎茶の土瓶が運ばれてきた。香の物は春にしては珍しい、瓜と茄子の粕漬を切り混ぜたものだった。食べ終わって、値段を聞くと金一両二分(現代の価値で10万円~15万円)と聞いて、一気に興ざめとなった。

「いくらこの時期に珍しい香の物と言っても、あまりに高いではないか」

と客が訝し気に聞くと、亭主はこう答えた。

「いや、香の物のお代はともかく、茶の方が高うございます。まあ、茶葉は極上と言いましても土瓶には半斤も入りません。しかし、 この茶葉に合う水が近隣にはございませんゆえ、玉川まで早飛脚を立てて水を汲みに行かせました。この運賃が莫大となりました。」

という伝説です。真偽のほどは「?」ですが。「寛天見聞記」の記述では、そのころ煎茶が流行っており、客を招いて煎茶の土瓶をいくつか出して、茶の銘と水の出所(玉川とか隅田川とかどこそこの井戸とか)を当てさせるのが流行っていたそうではありますが、きき茶みたいなもんでしょうかね。そういった背景はあるものの、自宅でも簡単に食べられるのに、わざわざ八百善で茶漬けなどという贅沢を諫めるような書きぶりでした。

「一両二分の茶漬け」天下泰平が長く続いた江戸時代らしいエピソードではないでしょうか。

2019年1月13日日曜日

江戸時代の高級料亭「八百善」と一両二分の茶漬け(その1)

江戸の町に八百善という高名な料理屋があり、たいそうな評判を博していました。どのくらいの評判かというと、酒井抱一が挿絵を寄せた「江戸流行料理通(リンク先で電子書籍として購読可能)」という料理本がロングセラーとなったり(参勤交代の武士や江戸見物の人々が土産に買い求めたという事です)、第十一代将軍の家斉公がたびたび訪れたり(将軍様が民間の料理屋を訪れるというのはかなり異例の事だと思います)といった具合です。また、江戸の懐石料理を完成させたという話も有名です。

図1:江戸時代の八百善の様子
八百善は代々栗山善四郎が継いできており、現在は十一代目まで来ています。栗山家は1570年ごろは百姓をされていたようですが、その後自家栽培の作物を販売する八百屋に転じ、その名も八百屋善四郎となりました。明暦の大火(俗にいう振袖火事:1657年)以降の江戸都市改造の際に、神田から新鳥越(浅草と新吉原の間くらい)に移転。名前も八百屋善四郎から八百善に代わり、二代目善四郎の頃、享保二年(1717年)を八百善の創業の年としているそうです。
図2:八百善の所在地
図2の赤丸は八百善の所在地です。ちょっとわかりにくいのですが、地図の右下の川が大川(隅田川の事ですね)左下の赤線の中が浅草寺。左上の赤枠の中が新吉原です。枠の中ではありませんが、桃色に塗られているのが寺院でこれらは浅草寺の別院であったり、別の寺院であったりと、とにかく寺が多いです。明暦の大火の後に幕府が都市改造を行った際に、寺は郊外(下谷、谷中、あるいは麻布あたり)に移転させたという経緯が関係していると思います。

当初は青果商であった八百善ですが、場所柄法事などのために寺院への仕出しなどを行うようになり、しだいに料理屋へと商売替えをしたようです。

大川から吉原に向かって水路が見えると思いますが、これが山谷堀で、堀に沿って日本堤という堤防がありました。吉原への遊客は日本堤を歩いて行ったり、あるいは舟で山谷堀を通って行ったようです。吉原で遊ぶにはたいそうな金(一流の太夫と遊ぶには一晩十両とか..)が掛かりますから、通人や豪商などの通り道近くに八百善の店があったという事になります。吉原の遊郭では客の料理は仕出しを頼んだそうですから、八百善あたりにも仕出しの依頼があったかもしれません。

ところでJJの母方の祖母の実家が今戸という場所で、船宿を営んでいたという事なので、先祖は舟で遊客を運んでいたりしたのかも知れません。 関東大震災の大火事の時には舟宿の舟で川に逃げて、難を逃れたという話を叔父から聞いたことがあります。今戸町は図2の地図だと大川寄りの青い楕円のあたりです。なんと八百善の目と鼻の先ですね。八百善で食事をする金はなかったかもしれませんが、客を舟で運んだかもしれません。
図3:名所江戸百景から「よし原日本堤」
 稀代の浮世絵画家、歌川広重も何枚か吉原の絵を残していますが、図3は日本堤の様子です。奥の屋根が連なっている場所が遊郭のある吉原です。吉原は遊女の逃亡を阻止するために堀で囲まれており、日本堤側にある大門(「だいもん」ではなく「おおもん」と読みます)からのみ出入りが可能でした。堤の上に小屋掛けのような建物が多くみられますが、茶店や飲食店のようなものでしょうかね。
図4:八百善周辺の風景
 先述の江戸料理通の挿絵に八百善周辺の風景がありましたので、図4として掲載します。真ん中に八百善の看板が見えると思います。その奥に左右に通るのが日本堤、右奥が吉原、左奥に浅草寺の五重塔が見えて、右手前は待乳山聖天です。待乳山の少し南側の大川の方から吉原を俯瞰した構図になると思いますが、現実の位置関係からは多少無理があるかもしれませんね。

話が一両二分の茶漬けまで至りませんでしたので、そのあとの話は(その2)へ続きにしましょう。

2019年1月12日土曜日

平成最後の新年を迎えて

このブログの方も昨年の9月を最後に投稿できず。気が付けば年を越してしまいました。

9月にある講演を引き受けて、その準備と日常の業務で心身共に疲弊し、しばらく体調を崩してしまいました。年末の入院を最後に体調も回復してきましたので、そろそろ投稿も再開しようと思います。

2018年9月16日日曜日

池袋の「池」はどこにある

失われた「池」を追うのも、佳境に入ってきました。都内には周りに池がないのに「池」のついた地名がまだまだありますね。例えば、溜池とか池袋とか池之端とか..おっと、池之端は近くに現役の不忍池がありました。

今回は池袋の「池」を探してみましょう。


池袋の中心である池袋駅は、一日の利用者264万人(世界で第二位)の巨大駅で、JRを始め東武、西武、東京メトロが乗り入れる一大ターミナルになっており、駅を中心とした繁華街が広がっています。今でこその賑わいですが、もともとは江戸郊外の農村でした。明治18年(1885年)に赤羽から品川に向かう線路(日本鉄道)が敷設された際にも停車場は作られず、この線から田端に向かう支線が建設されたときに、やっと駅ができたというくらいの田舎でありました。時は明治36年(1903年)で世の中は20世紀に入っての事でした。

明治期の池袋停車場
その後の発展に関してはリンク先を読んでいただくことにして、池袋の歴史に関して、Wikipediaには下記のように記載されています。

~古くは武蔵国豊嶋郡池袋村といい、戦国時代古文書である『小田原衆所領役帳』(永禄2年・1559年)には「太田新六郎 知行 三貫五百文 池袋」とあることから、中世にはすでに近隣の地名長崎雑司ヶ谷巣鴨高田など)とともに確立していたと考えられる~

 戦国時代には池袋の名前が出てくるんですね。結構古い地名です。

で、肝心の地名の由来に関しては下記のように書かれています。

~現在の池袋駅西口のホテルメトロポリタン一帯(西池袋1丁目)に存在していた袋型の袋池(丸池)と呼ばれており、それが地名の直接の由来となったとされている。ただし当地は旧雑司ヶ谷村であり、池袋のもともとの中心部だったといえる池袋本町(かつての本村)からは離れているため、この説には異論がある。なお、丸池は時代を追って縮小され、70年代中頃までは現在のホテルメトロポリタン北側に存在した「元池袋公園」内に空池(からいけ)の状態で残っていたが、現在は完全に埋め立てられ、地名由来とされる池を偲んで、元の場所より東側の隣接地に元池袋史跡公園が開設された~

上の地図は、江戸時代の地図と現代の地図を重ね合わせたものです。確かに丸池という小さな池が、メトロポリタンホテルの近くに見えますね。

また丸池のあった近くには元池袋史跡公園が設けられ、上の写真のように「池袋地名ゆかりの池」という石碑が建立されています。

さすがに天下の一大ターミナルである池袋です。現地調査もせずにちょっと検索しただけで、色々分かります。

しかし、ここで違和感を禁じえません。それは丸池の大きさです。戦国時代はもっと大きかったのかもしれませんが、この程度の池がその後400年以上も地名に名を残すようにも思えないのです。また、丸池の場所も池袋村ではなく、雑司が谷村にあるのも場違いな感じがします。

そこで、上記のWikipedia記事にある「この説には異論がある」という部分が気になってきますね。異論というのはこういう事です..

地名における「袋」には「と川が合流しているところ」という意味があり、谷(谷戸)などが袋状にえぐれた地形や(都内では沼袋、横浜市中区の池袋など)、河川が袋のように曲流するところ(横浜市の鶴見川沿いなどの、いくつかの「袋」がつく小字など)に多い。これを基に、NHK総合テレビ「ブラタモリ 池袋・巣鴨」(2011年1月27日放送)では、村内を流れていた川が合流している、旧池袋村北東部付近(池袋本町4丁目~板橋区板橋1丁目)を地名の発祥に関係した場所と推測している~

なるほど、流石はブラタモリですね。 

上の地図は異論で言及している付近の現代の地図です。

そして上の地図は同じ場所の江戸時代の地図です。ここは朱引きの内側なので、切絵図があって調査がはかどります。まあ、見事に川が何本も合流しています。また地名も池袋本町とありますから、こちらの方が本家な感じがします。

そこで失われた池探しのリーサルウェポンである、ハザードマップの登場です。


もうこれは間違いないでしょう。池袋駅の左下にある小さなハザードは丸池の跡、一方で左上の大きなハザードは「異論」で指摘している方の川の合流地点です。このくらいのサイズがあれば数百年もの間地名に残るのも納得感がでてきます。個人的には「異論」の方が正しいのではないかと思います。


2018年9月15日土曜日

京王井の頭線・池ノ上駅の「池」を探す

しばらく新宿は十二社の池を追ってみましたが、街中の「池」は割と簡単に痕跡も残さず消えてしまうので、地名に残っている「池」を探すのも面白くなってきました。で、今回は京王井の頭線は池ノ上駅の話です。

池ノ上は渋谷から井の頭線で3駅目の、各駅停車しか止まらない、あまり存在感もない小さな駅です。 周辺は住宅地と学校がいくつかで、あまり目立った施設もありません。一つ手前の駒場東大前駅や一つ先の下北沢駅に比べると知名度は圧倒的に低いと思います。


それで、以前から気になっていたのですが、「池ノ上」と言うからには、下の方に池があるはずです。で、現在の地図を見てみると..
 どうも周囲に池らしきものは見当たりません。

それでは、時代を140年くらい遡って、明治初期の地図を見てみましょう。
 帝都電鉄(現在の井の頭線)の線路が敷かれたのが昭和8年の事ですから、まだ当地に鉄道はありません。地図の下の方に川が二本流れていて合流している箇所が見られますが、池らしきものは見当たりません。この辺は、等高線を見てもだいぶ下がった場所のようです。別の地図を見ると北側の川は北沢用水(あるいは北沢川)、南側の川が烏山用水(あるいは烏山川)とあり、合流して目黒川になります。目黒川は中目黒を通って五反田に抜け、最後は天王洲のあたりで東京湾に注ぎます。河口付近は川の地下に首都高速中央環状線が通っています。

北沢用水(北沢川)に関してはこちらのブログ(東京の水2000)に興味深い記述がありましたので、併せてご参照ください。

さて、池はどこかという話でしたね。もう少し探ってみましょう。明治初期の地図を見ていただくとわかるように、二つの用水の合流地点に下側に、池尻村という地名が見えます。目黒川が大山街道(国道246号線)をくぐるところにかかっていたのが大橋で、現在の池尻大橋の駅名につながっています。

Wikipediaの「池尻」の記事にはこう書いてありました。

~北沢川烏山川が合流し目黒川となる付近で沼沢地帯を為していた。池尻の「尻」とは「出口」という意味で池や沼や湖が川に落ちる部分のことを示している。「いけしり」や「いけのしり」という呼称もある~

という事で、北沢用水と烏山用水の合流地点付近が、昔は湿地帯になっていたらしく、ここが「池」だったようです。それで「池」の上の方に池ノ上駅ができ、池の水が流れ出す地点に池尻村ができたものと思われます。江戸時代の地図があれば、池が見つかったかもしれませんが、この辺は朱引きの外(いわゆる江戸市外)なので、当時の切絵図もありません。
上の地図は60年くらい前、高度成長期前夜のものです。北沢上水も烏山上水も見られますが、その後1970年以降に順次暗渠化されてしまったようです。暗渠化の跡は緑道として整備され、暗渠の方は下水道として利用されていますが、地上の緑道部は近年では下水処理水を流してせせらぎを再現しているようです。

上の図は同じ場所の5mメッシュで段彩陰影を施したものです。やはり二つの上水の合流地点は地面が低いことが分かります。現在は治水対策がしっかりとられているのでしょうが、こういう場所は潜在的な水害のリスクがあるかもしれませんね。

 と思って、世田谷区の洪水ハザードマップを見てみたら、やはり二つの用水と合流地点それから目黒川に沿っては、洪水のリスクありという事になっていました。昔の水路とか、湿地とかが都市化で隠れてしまうのですが、いくら暗渠になっても、湿地の過去は消せないという事ですね。おそらく、昔あったはずの「池」とはハザードマップで青くなっているあたりなのだと思います。

失われた「池」はハザードマップの中にあり。と言ったところでしょうか。