加賀金沢藩は加賀百万石の名前に恥じぬ大藩で、外様ではありましたが、徳川家との姻戚関係も濃いためか、幕府では御三家に準じる扱いでした。江戸には藩邸が三か所あり、上屋敷が本郷の現在東京大学になっている場所。抱屋敷が駒込(六義園の西隣)、下屋敷が板橋(現在の北園高校周辺)です。しかし、上屋敷が江戸城からかなり離れた本郷(江戸城との間には外堀の延長として深く掘られた神田川や旗本御家人の居住区である湯島を挟んでいる)にあることを考えると、やはり外様に対する警戒心は隠せていませんね。もちろん親藩譜代大名たちの屋敷は江戸城周辺を守るように配置されています。
この上屋敷は104,000坪(34ヘクタール)という広大な規模であり、国元の金沢城が92,000坪なので国元よりも広い屋敷を持っていたことになります。現在の東京大学の敷地イコール加賀金沢藩の上屋敷敷地かというとそうではなく、周辺の他の屋敷地なども含めた形になっています。この辺の関係は図1を見てください。現在の東京大学の建物の図の上に江戸時代の区割りが描き込まれています。
図1東京大学の敷地と江戸時代の区割りとの関係 |
富山藩と大聖寺藩は金沢藩の支藩なので前述の面積に含まれています。北側の農学部と浅野地区は水戸藩と安志藩の敷地だったんですね。
で、江戸時代の藩邸がどのようなものだったかというと、東京大学のサイト(東京大学本郷キャンパスの遺跡)に詳しく紹介されています。現在の東京大学の建物は、一部(江戸時代の藩邸の名残である赤門や、赤レンガの化学科の建物など)を除いて大半が関東大震災(大正12年)後に建て替えられたもので、建築後80年以上が経過し、この10年ほどでかなり建て替えが進んでいます。建て替えの時に古い建物を壊す際、同時に考古学的な発掘調査が行われ、色々なことが分かっています。おそらく江戸時代の遺構の発掘調査としては、旧汐留貨物駅に並んで大規模なものだと思います。詳しくは前述のサイトの記事を読んでください。
江戸時代の加賀藩邸の見取り図が図2です。
図2加賀藩本郷邸図(1840年ごろ) |
前述のサイトの記述ですが「このほか「詰人空間」には、作事方役所や割場・会所などといった役所の建物、土蔵群、「加賀鳶」として知られる火消人足の詰所、その他様々な施設が配置されている。屋敷北寄りには屋敷神としての鎮守社や罪人を収容する牢屋なども置かれている。」加賀鳶が出てきましたね。この詰人空間のどこかに加賀鳶の詰所(自衛消防隊本部)があったんでしょうね。図2を拡大すると左下の場所に「御火消詰所」というのが見られるので、おそらくここが詰所だったのだと思われます。
図2で一番下辺から右上にかけて敷地の東南側を取り囲むように立っていたのが外壁を兼ねた長屋で、特に南側はあるトラブル(後述)から窓がすべて塗りこまれており、開口部が無いことから「盲長屋」と呼ばれていました。
上の図は江戸時代の地図と現在の地図を上下に並べたものです。敷地の西端は中山道(現在の国道17号)。一方敷地の南端は現在の春日通りで、この通り沿いに盲長屋が並んでいました。
この盲長屋に加賀鳶が住んでいたのかどうかは分かりません。ただ河竹黙阿弥の歌舞伎の題目が「盲長屋梅加賀鳶」とあるので、実際にここに住んでいたのかもしれませんし、地元の代表的な建築物だったので、そういう題目をつけたのかもしれませんね。東大の発掘調査では屋敷北側の詰人空間が下級武士用で南側が中級武士用(確かに住居の区割りも北側のほうが狭いですね)とありますので、加賀鳶の住居は北側だったのかもしれませんし、周辺の町人地から通っていたのかもしれませんね。
盲長屋のいわれですが、先のサイトにはこんな記述があります..
「加賀藩の表長屋といえば、やはり盲長屋が連想される。本富士通り(現春日通り)に面した藩邸南部の長屋(南御長屋)は、黙阿弥の歌舞伎「盲長屋梅加賀鳶」で有名な盲長屋であるという。 盲長屋と呼ばれる所以は、旗本平塚組の近藤登之助が登城する際、長屋から捨てた水が近藤の行列にかかったとか、二階の窓からあざ笑う者がいたとか、事の定 かは解らないが、ともかく近藤との確執により、長屋の通り側の窓が塗りつぶされたためと言われている。確かに絵図を参照すると、この南側の長屋には他とは 異なり開口部が描かれておらず、ここに「盲長屋」と呼ぶに相応しい長屋が存在していたことは確かなようである。この南御長屋は、明治元(一八六八)年の本 郷春木町三丁目から出火した火災により、被害を受けた可能性が高い。
しかし、東側にあるもう一つの表長屋(東御長屋)はこの火災の火の手から逃れることができた。こちらの長屋には、下級の同心か足軽が居住していたものと考えられている。」
図3長屋の例(愛宕三丁目) |
これは愛宕三丁目の長屋です。盲長屋ではありませんが、一階部分が海鼠壁(なまこかべ)になっていて、なかなか恰好が良い建物です。防火に細心の注意を払っていた江戸市中ですのでこういった壁だったのでしょう。
図4加賀藩邸東長屋 |
写真の右側を写真の奥の方に向かって進んでいくと、長屋の途中に長屋門(東御門)があったようです。その写真も残っています。それが図5です。表門ではなく通用門という位置づけなのでしょうか?百万石の大藩にしては質素な作りですね。
図6に長屋とそれに連なる長屋門が描かれた石版画を掲載します。東長屋の方は一応窓がありますので、盲長屋ではなかったようです。
江戸から明治に代わり40年以上も残っていた東長屋ですが、明治44年に東京大学が敷地の拡大のために隣接地を購入し、邪魔になった東長屋は大正時代に取り壊されてしまったようです。
図5東長屋・東御門 |
図6織田一磨「東京風景十六 本郷竜岡町」(江戸東京博物館) |
ちょっと位置関係が分かりずらかったと思いますので、図7に図4,5,6の位置を記したものを掲載いたします。ご参考になさってください。
さて、明治維新を迎えた巳之助ですが、お殿様が金沢に帰ってしまうということで、加賀鳶としての職を失い、なにがしかの下賜金(退職金相当なんでしょうね)を貰って湯島天神の門前で酒屋(本郷で魚屋という説もあり)を開いたそうですが、そこは慣れぬ商売故、立ち行かなくなり、ほどなく潰れてしまったそうです。
江戸も東京と名称が変わり、100万人と言われた人口も地方の侍が帰郷したせいで人口は半減。町も火の消えたような寂しさだったそうで 景気も良くなかったんだと思います。
巳之助は加賀藩の奥女中と所帯を持ったそうで、この人がたいそう礼儀に厳しかったそうです。母親からはそう聞きましたが、大正生まれの母親はおそらく本人には会っていないと思います。ちょっと長くなりましたが、今日は江戸時代に思いをはせてみました。
図7写真の位置関係など |
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