私は、横浜市に住んで20年以上、今の横浜駅近くに越してからも、8年になります。しかし、あの有名な三溪園には行ったことがなく、今回初めて訪れましたのでその件を記事にしましょう。
三溪園を造営したのは原富太郎という明治時代の富豪です。この人は文人でもあり、号を「三溪」としていたので、その庭園を三溪園と呼びます。ここは、本牧三の渓と呼ばれていた場所で、富太郎さんはその場所の名前を号にしたのだと思います。
原家の経済的な基礎を築いたのは、原善三郎( 文政10年4月28日(1827年5月23日) - 明治32年(1899年)2月6日))という人です 。この人は、今でいう埼玉県の神川町というところの出身で、もともと、秩父地方で産出した生糸を買って江戸の呉服問屋に販売する、問屋のようなことを家業としてやっていたようです。
幕末になって、生糸の輸出が開港場で行われるようになると、横浜に移り、居留地の外国人商人に生糸を販売する事業を始めたようです。詳しくはこのリンクをご参照ください。生糸商はそれはそれで競争が激しかったようですが、何とか競争を勝ち抜いて、明治の初めには横浜の豪商の一角を占めるに至りました。また、横浜市の最初の市議会議員を務めたり、明治25年には埼玉県選出の衆議院議員、明治28年には高額納税者として神奈川県選出の貴族院議員として中央政界にも進出しました。
大きな地図で見る
善三郎さんが現在の三溪園の土地20万㎡を購入したのは、明治初年のこと。明治20年には山上に別荘松風閣を建設しました。 善三郎さんが亡くなったのは明治32年のことです。一方、善三郎さんには跡取り息子がいたものの、夭折してしまいましたが、孫娘の原 屋寿(はら やす)がおりました。屋寿が東京の跡見女学校で学んでいた時に、教師だった青木富太郎(慶応4年8月23日(1868年10月8日) - 昭和14年(1939年)8月16日))(のちの原富太郎(三溪))をみそめてしまい、明治25年(1892年)に結婚しました。青木富太郎は東京専門学校(現・早稲田大学)で政治学・経済学を学んだのですが、岐阜の庄屋の跡取り息子だったそうで、入り婿に際してはいろいろともめたようですが、跡見の校長が何とか話をつけたようです。
三渓の生家である青木家は今の岐阜市にあった素封家で、代々庄屋を務めるとともに、養蚕や絹の行商などにもかわっていたようです。 また母方の祖父である高橋杏村は南画家で、詩書にも造詣が深かったとのこと。三渓自身も地元に近い鶏鳴塾という場所で、漢詩漢文を学んだそうです。この辺の生い立ちが、のちの生糸王にして文人である原三渓を形成していったものと思われます。
話は前後してしまいましたが、三渓さんは入り婿として、原商店に入り、部屋住みの店員見習いから初めて黙々と働きました。そして、明治32年に善三郎さんが亡くなると、大胆な経営改革に着手するのです。まずは原商店を、原合名会社に改組し人事制度も刷新。従来居留地の外国人商人に販売していた生糸の海外市場への直接取り引きの開始。また、富岡、名古屋などの製糸場を三井家から譲り受け、生産から販売までの一貫体制を確立し、また先代から引き継いだ第二銀行の経営にあたるなど、マルチな経営の才能を見せました。
三渓さんは自らのビジネスに集中するだけではなく、蚕糸業全体の振興にも努め、第一次大戦直後の恐慌の際には、自らが率先して政治家と交渉を行い、蚕糸業を救済する枠組みを策定し、自ら帝国蚕糸株式会社の社長に就任し、蚕糸相場の安定に奔走しました。その後も横浜経済界の重鎮として第七十四銀行の破綻処理や、関東大震災からの復興に率先して取り組み、また横浜港の近代化にも並々ならぬ成果を上げました。いわば今日の横浜の基礎を築いた偉人であります。(最後はだいぶ端折りましたが) 生糸は明治時代の主要輸出産業でありますから、原三渓さんの地位は、今でいうとトヨタ自動車の会長くらいの感じではないでしょうか。
で、三溪園の話になります。
2012年3月17日土曜日
BCR日記・累計PV(ページ・ビュー)上位記事
当ブログ「BCR日記」に使用しているBloggerの機能で、過去のアクセス統計などが取れるようになったので、累計でPVが多かった記事の一覧を作成してみました。まあ、こんな感じです。火災の件は別として、増上寺、伊藤若冲、縄文土器、神奈川台場、指の多い猫、三越包装紙、横浜ノースドック、シーランド公国といったところが上位でありました。
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2012年3月7日水曜日
高島水際線公園と動輪の謎
またまた投稿が久しぶりになってしまいました。すみません。
昨年、みなとみらい21地区の端っこに、高島水際線公園(たかしますいさいせんこうえん)ができました。公園の概要はこちらのリンクかこちらのリンクを見てください。
この辺はみなとみらい地区として造成される前は、高島貨物駅(及び横浜機関区)として活用されていました。貨物船で運ばれてきた貨物が、艀(はしけ)に移し替えられ、この近くの岸壁で陸揚げされ、貨車に積み込まれ。この貨物駅で、行き先ごとに貨物列車として編成されて全国に輸送されていったのです。当時は搭載する貨物ごとに、無蓋貨車、有蓋貨車、タンク車、ホッパー車などなど、いろいろな貨車が存在していました。しかし、貨物輸送がコンテナに切り替わった80年代に(特に1984年2月1日国鉄ダイヤ改正)従来型の貨物列車は大幅に削減されてしまい、全国に配置されていた操車場や貨物駅も大幅に整理されてしまいました
これは昭和6年版の大横濱全図という地図の高島貨物駅あたりの部分です。
さて、話は戻って、高島水際線公園ですが、この公園の中ほどに、車輪モニュメントというものがあります。説明によると、公園の造成中に出土した車輪をモニュメントとして飾ったということのようです。
しかし、この車輪、単純な車輪ではありません。よく見ると、クランクのようなものがついています。これは紛れもなく機関車の動輪です。それにしても小さいですね。これはいったい何でしょうか?
鉄道オタクとまではいえないものの、鉄道関係に興味のある私は、気になって気になって仕方がありませんでしたので、調査を開始しました。
後日、自宅からメジャーを持ってきて、実測してみました。まずは軌間(レールとレールの距離)ですが、左の写真のように約760mmです。ううむ、これはナローゲージですね。軌間にはいろいろな規格があり、日本で最も普及しているのが、JRの在来線や多くの私鉄で採用している1067mm、京浜急行や京成電鉄などの私鉄や新幹線で採用している標準軌1435mm。そして、昔の馬車鉄道の流れをくむ、1372mm(一部の私鉄、たとえば京王線などで採用)
これに対して、762mmという規格もあって、Wikipediaの記事では「 762 mm(2 ft 6 in) - 世界の多くの軽便鉄道・森林鉄道。日本では三岐鉄道北勢線、近鉄内部・八王子線、黒部峡谷鉄道。 日本で「ナローゲージ」と呼ばれる鉄道の多くがこの軌間である。2フィート6インチから、ニロク、ニブロクと呼ばれる。」とあります。鉄道網の全国への整備の過程で、建設費の安い軽便鉄道が、本格的な鉄道を補完する目的で各地に建設された時期があります。
ていうことは、この動輪は、旧国鉄の規格のものではなくて、どこかの軽便鉄道。あるいは森林鉄道の機関車のものということになります。
さらに、動輪の径を実測してみました。写真はありませんが、655mmでした。かなりな小径です。
さて、ここで、手元にあった資料。中学生の時に買った、機芸出版社の「蒸気機関車スタイルブック」を引っ張り出して、隅から隅まで探して見たら、 ちょうどこのサイズに適合する機関車を見つけることができました。
耶馬溪鉄道10型..ですね。説明文を転載します。「762mm軌間の小型タンク機関車。大分県の耶馬溪鉄道が購入したが、のち四国の別子鉱業に転じた。この種の小型機しては割合に近代的な、まとまったスタイルであった。キャブ廻りなど同一形態のCタンクが南武鉄道に納入されている。No.10・気筒229φ×356mm・重量14.5t・最少曲線半径21.3m・製造1927・汽車」
最後の汽車というのは製造元が「汽車製造会社」という意味です。文中にはありませんが、図面のほうには動輪の径が660φと記載されています。まさにこのサイズですね。
ここで、気になるのが、「 同一形態のCタンクが南武鉄道に納入されている。」という部分です。Cタンクというのは動輪の軸が三軸で炭水車がつかない機関車です。
今のJR南武線は、当初私鉄の南武鉄道として、多摩川の砂利を運ぶために建設されました。昭和2年(1927年)3月に川崎ー登戸間の旅客線と、矢向ー川崎河岸間の貨物線が開通し、順次延伸していったようです。南武鉄道は当初から電化されていたようですが、貨物列車には蒸気機関車も使われていたようです。すると、上記の耶馬溪鉄道10型の姉妹機が活躍していた可能性もありますね。ちなみに、南武鉄道は、大東亜戦争の戦局の悪化に伴い、昭和19年4月1日に国鉄に買収されてしまいました。
ということで、先の動輪は、南武鉄道に納入された上記の同型機か?という話ですが、ここで、符合しないのが、南武鉄道の軌間です。ここはナローゲージ(762mm)ではなく、旧国鉄軌間(1067mm)だったはずです。南武鉄道に納入された同型機とはたぶんこのリンクにある、国鉄買収後に1120型となったものだと思いますが、動輪の径は860mmで少々大きいし、軌間も1067mmですね。
次に、神奈川県に762mm軌間の軽便鉄道が存在したかという観点で、調査をしてみました。 検索したところ、二種類の軽便鉄道が見つかりました。ひとつは、湘南軌道というもので、秦野から二宮までを南北に結んでいました。秦野で産出される葉タバコを二宮まで運ぶのが主目的だったようです。ここのリンクに湘南軌道で使用されていた蒸気機関車の写真が載っていますね。耶馬溪鉄道のものよりも、旧態依然ですが、かわいらしい機関車です。この動輪だったのかもしれませんね。
もう一つは、小田原熱海間を結んでいた熱海鉄道です。もともと、国鉄の東海道本線は、国府津から御殿場線を通って箱根を北側に迂回していました。そこで、国府津-小田原-熱海を結ぶために、国府津-小田原間は馬車鉄道(客車を馬が引く形式)小田原-熱海間は豆相人車鉄道なるものが整備されました。人車鉄道とは、人間が客車を押すもので、6-8人乗りの小さな客車を3人の車丁が後から押していたそうです。小田原熱海間25.5kmを4時間5分(その後急行ができて3時間5分)かけて走破したとのこと。まあ、のんびりした時代であるが、人車鉄道以前は悪路を歩いて1日がかりであったということなので、熱海への湯治客には画期的な交通手段だったのでしょう。
人車鉄道には、面白いエピソードがあり、こんな話もあります。「豆相人車鉄道では、狭い客車ながらも1・2・3等と客のランクが分けられて運賃にも格差が設けられており、上り勾配区間では3等→2等客の順番で、押手の押す作業を手伝うために駆り出された。最後まで客車にいられたのは1等客のみであった。」
人車の時代は明治28年からはじまり、明治40年には軌間が762mmに改軌され、小型の蒸気機関車が客車を牽引するようになりました。その後、国鉄が熱海を通って丹那トンネル経由で沼津に抜けるルート(現在の東海道線)を建設することになり、熱海鉄道は国が買い上げ、事業者は線路を国から貸与を受けて営業を続けました。しかし、小田原熱海間の国鉄の完成を待たず、大正12年の関東大震災による壊滅的な被害から立ち直れずに、営業中止に追い込まれたとのことです。熱海鉄道で使用されていた蒸気機関車の内1両(7号機)は熱海駅前に展示されているそうです。
話はそれましたが、結局動輪の由来はわかりません。どこかの軽便鉄道で使われていた蒸気機関車の動輪であることは間違いなさそうですが、それがどういう経緯で、高島貨物駅(あるいは横濱機関区)に埋まっていたものでしょうか?なぞは深まるばかりです。熱海鉄道は廃線時には国有化されていたので、その車両の残骸が国有鉄道の管理下にあったという仮定も成り立つかもしれませんね。
昨年、みなとみらい21地区の端っこに、高島水際線公園(たかしますいさいせんこうえん)ができました。公園の概要はこちらのリンクかこちらのリンクを見てください。
この辺はみなとみらい地区として造成される前は、高島貨物駅(及び横浜機関区)として活用されていました。貨物船で運ばれてきた貨物が、艀(はしけ)に移し替えられ、この近くの岸壁で陸揚げされ、貨車に積み込まれ。この貨物駅で、行き先ごとに貨物列車として編成されて全国に輸送されていったのです。当時は搭載する貨物ごとに、無蓋貨車、有蓋貨車、タンク車、ホッパー車などなど、いろいろな貨車が存在していました。しかし、貨物輸送がコンテナに切り替わった80年代に(特に1984年2月1日国鉄ダイヤ改正)従来型の貨物列車は大幅に削減されてしまい、全国に配置されていた操車場や貨物駅も大幅に整理されてしまいました
これは昭和6年版の大横濱全図という地図の高島貨物駅あたりの部分です。
さて、話は戻って、高島水際線公園ですが、この公園の中ほどに、車輪モニュメントというものがあります。説明によると、公園の造成中に出土した車輪をモニュメントとして飾ったということのようです。
しかし、この車輪、単純な車輪ではありません。よく見ると、クランクのようなものがついています。これは紛れもなく機関車の動輪です。それにしても小さいですね。これはいったい何でしょうか?
鉄道オタクとまではいえないものの、鉄道関係に興味のある私は、気になって気になって仕方がありませんでしたので、調査を開始しました。
後日、自宅からメジャーを持ってきて、実測してみました。まずは軌間(レールとレールの距離)ですが、左の写真のように約760mmです。ううむ、これはナローゲージですね。軌間にはいろいろな規格があり、日本で最も普及しているのが、JRの在来線や多くの私鉄で採用している1067mm、京浜急行や京成電鉄などの私鉄や新幹線で採用している標準軌1435mm。そして、昔の馬車鉄道の流れをくむ、1372mm(一部の私鉄、たとえば京王線などで採用)
これに対して、762mmという規格もあって、Wikipediaの記事では「 762 mm(2 ft 6 in) - 世界の多くの軽便鉄道・森林鉄道。日本では三岐鉄道北勢線、近鉄内部・八王子線、黒部峡谷鉄道。 日本で「ナローゲージ」と呼ばれる鉄道の多くがこの軌間である。2フィート6インチから、ニロク、ニブロクと呼ばれる。」とあります。鉄道網の全国への整備の過程で、建設費の安い軽便鉄道が、本格的な鉄道を補完する目的で各地に建設された時期があります。
ていうことは、この動輪は、旧国鉄の規格のものではなくて、どこかの軽便鉄道。あるいは森林鉄道の機関車のものということになります。
さらに、動輪の径を実測してみました。写真はありませんが、655mmでした。かなりな小径です。
さて、ここで、手元にあった資料。中学生の時に買った、機芸出版社の「蒸気機関車スタイルブック」を引っ張り出して、隅から隅まで探して見たら、 ちょうどこのサイズに適合する機関車を見つけることができました。
耶馬溪鉄道10型..ですね。説明文を転載します。「762mm軌間の小型タンク機関車。大分県の耶馬溪鉄道が購入したが、のち四国の別子鉱業に転じた。この種の小型機しては割合に近代的な、まとまったスタイルであった。キャブ廻りなど同一形態のCタンクが南武鉄道に納入されている。No.10・気筒229φ×356mm・重量14.5t・最少曲線半径21.3m・製造1927・汽車」
最後の汽車というのは製造元が「汽車製造会社」という意味です。文中にはありませんが、図面のほうには動輪の径が660φと記載されています。まさにこのサイズですね。
ここで、気になるのが、「 同一形態のCタンクが南武鉄道に納入されている。」という部分です。Cタンクというのは動輪の軸が三軸で炭水車がつかない機関車です。
今のJR南武線は、当初私鉄の南武鉄道として、多摩川の砂利を運ぶために建設されました。昭和2年(1927年)3月に川崎ー登戸間の旅客線と、矢向ー川崎河岸間の貨物線が開通し、順次延伸していったようです。南武鉄道は当初から電化されていたようですが、貨物列車には蒸気機関車も使われていたようです。すると、上記の耶馬溪鉄道10型の姉妹機が活躍していた可能性もありますね。ちなみに、南武鉄道は、大東亜戦争の戦局の悪化に伴い、昭和19年4月1日に国鉄に買収されてしまいました。
ということで、先の動輪は、南武鉄道に納入された上記の同型機か?という話ですが、ここで、符合しないのが、南武鉄道の軌間です。ここはナローゲージ(762mm)ではなく、旧国鉄軌間(1067mm)だったはずです。南武鉄道に納入された同型機とはたぶんこのリンクにある、国鉄買収後に1120型となったものだと思いますが、動輪の径は860mmで少々大きいし、軌間も1067mmですね。
次に、神奈川県に762mm軌間の軽便鉄道が存在したかという観点で、調査をしてみました。 検索したところ、二種類の軽便鉄道が見つかりました。ひとつは、湘南軌道というもので、秦野から二宮までを南北に結んでいました。秦野で産出される葉タバコを二宮まで運ぶのが主目的だったようです。ここのリンクに湘南軌道で使用されていた蒸気機関車の写真が載っていますね。耶馬溪鉄道のものよりも、旧態依然ですが、かわいらしい機関車です。この動輪だったのかもしれませんね。
もう一つは、小田原熱海間を結んでいた熱海鉄道です。もともと、国鉄の東海道本線は、国府津から御殿場線を通って箱根を北側に迂回していました。そこで、国府津-小田原-熱海を結ぶために、国府津-小田原間は馬車鉄道(客車を馬が引く形式)小田原-熱海間は豆相人車鉄道なるものが整備されました。人車鉄道とは、人間が客車を押すもので、6-8人乗りの小さな客車を3人の車丁が後から押していたそうです。小田原熱海間25.5kmを4時間5分(その後急行ができて3時間5分)かけて走破したとのこと。まあ、のんびりした時代であるが、人車鉄道以前は悪路を歩いて1日がかりであったということなので、熱海への湯治客には画期的な交通手段だったのでしょう。
人車鉄道には、面白いエピソードがあり、こんな話もあります。「豆相人車鉄道では、狭い客車ながらも1・2・3等と客のランクが分けられて運賃にも格差が設けられており、上り勾配区間では3等→2等客の順番で、押手の押す作業を手伝うために駆り出された。最後まで客車にいられたのは1等客のみであった。」
人車の時代は明治28年からはじまり、明治40年には軌間が762mmに改軌され、小型の蒸気機関車が客車を牽引するようになりました。その後、国鉄が熱海を通って丹那トンネル経由で沼津に抜けるルート(現在の東海道線)を建設することになり、熱海鉄道は国が買い上げ、事業者は線路を国から貸与を受けて営業を続けました。しかし、小田原熱海間の国鉄の完成を待たず、大正12年の関東大震災による壊滅的な被害から立ち直れずに、営業中止に追い込まれたとのことです。熱海鉄道で使用されていた蒸気機関車の内1両(7号機)は熱海駅前に展示されているそうです。
話はそれましたが、結局動輪の由来はわかりません。どこかの軽便鉄道で使われていた蒸気機関車の動輪であることは間違いなさそうですが、それがどういう経緯で、高島貨物駅(あるいは横濱機関区)に埋まっていたものでしょうか?なぞは深まるばかりです。熱海鉄道は廃線時には国有化されていたので、その車両の残骸が国有鉄道の管理下にあったという仮定も成り立つかもしれませんね。
2011年12月11日日曜日
江戸時代の文化と前句付け興行
<今日のツイートからすこし編集しなおして掲載しました>
西暦1800年の世界。人口百万人を超える都市はたった3個所でした。倫敦、北京と、そして江戸です。江戸の人口のうち、江戸定住者は約半分で、残りの半分は参勤交代 に伴って国許から出て来た武士や使用人たちでした。参勤交代は一年おきなので、凡そ100万人以上が国許と江戸を行ったり来たりしていたということになります。
江戸の文化や情報網は現代人が考えるより遥かに発達しており、しかも、厳密な身分制はあるものの、文化面での交流に関しては、武士もその他もあまり関係なく行われていたようです。
江戸で生まれ、発達した文化が、100万人の参勤交代随行員を通じて、全国に伝播します。それ以外にも、豊かな庶民は参拝やら、物見遊山やら、年貢の出納(名主が在府の領主に金納で持ってきたりもあったようです)やらで、各地を旅行をしていました。これほどダイナミックに人間が移動して、情報が伝播していた地域は、近世では他にはないのではないかと、思っています。
参勤交代で江戸詰になった侍も、そんなに忙しくはないので、空き時間には名所見物をしたり、江戸のグルメを楽しんだり。少ないこずかいをやりくりしつつ、楽しんでいたようです。この件に関しては、幕末の紀州藩士、酒井伴四郎という下級武士の記録が残っていて、江戸詰だった万延年間に詳細な日記とこずかい帳が残されています。この人は江戸詰めだったときには、紀州藩の中屋敷(いまの赤坂御用地)内の長屋に住んでいて、住居費は掛からず。また、紀州藩では江戸詰めの侍に手当を支給していたようなので、遊び歩くだけの資金もあったようです。
一方で、江戸中期、文化5年(1808年)には、江戸市中に656軒の貸本屋が存在したといいます。平均して1軒当たりの得意先が170軒ほど(得意先が商家とかであ ればそこには複数の読者が…)。すると、読者数としては、10万人を軽く超える。江戸の総人口が100万人である事を考えると大変な数。貸本屋が扱うのは、お上の検閲を受けた正規の書物の他にも、各種発禁本(艶本や幕府に批判的な書物や、海外事情などのいわゆる裏本ですかね)が含まれていたとか。
で、雑俳の話ですが、これが江戸時代には大変流行しました。有名な宗匠の中には、商品付き(宗匠が採点)興行を行うものもあり、前句付けなどで応募を募っ たようです。元禄期の引札(チラシ)によると、投句料八銭で、上位5名に奈良晒1反、その後は、徒然草の注釈書、小刀、風呂敷、墨などなど300位まで商品が提供されたそうです。
投句者は、各地の川柳取次ぎ所で応募しますが、その投句総数も、万句合せの言葉通り、一万を超える事もありました。投句者のほうも、大名、武士から地方の商人、農民、女性や子供まで貴賎にかかわらずといった感じです。
投句料が八銭(八文の事だと思われます)で、一万句集まると、八万文。一両が四貫文(4000文)と換算すると、総額は二十両て事になりますね。こういう興行を月に四回開催した宗匠(江戸の松月堂不角)もあったようですから、かなりのビジネスでもあります。
江戸文化というものが、階層的にも地域的にも極めて裾野の広い大衆文化であったものと思います。雑俳にとどまらず、他の文学、絵画や音楽、はては科学技術においても。それが、現代にも通じている。決して他国には例を見ないものと思われます。
西暦1800年の世界。人口百万人を超える都市はたった3個所でした。倫敦、北京と、そして江戸です。江戸の人口のうち、江戸定住者は約半分で、残りの半分は参勤交代 に伴って国許から出て来た武士や使用人たちでした。参勤交代は一年おきなので、凡そ100万人以上が国許と江戸を行ったり来たりしていたということになります。
江戸の文化や情報網は現代人が考えるより遥かに発達しており、しかも、厳密な身分制はあるものの、文化面での交流に関しては、武士もその他もあまり関係なく行われていたようです。
江戸で生まれ、発達した文化が、100万人の参勤交代随行員を通じて、全国に伝播します。それ以外にも、豊かな庶民は参拝やら、物見遊山やら、年貢の出納(名主が在府の領主に金納で持ってきたりもあったようです)やらで、各地を旅行をしていました。これほどダイナミックに人間が移動して、情報が伝播していた地域は、近世では他にはないのではないかと、思っています。
参勤交代で江戸詰になった侍も、そんなに忙しくはないので、空き時間には名所見物をしたり、江戸のグルメを楽しんだり。少ないこずかいをやりくりしつつ、楽しんでいたようです。この件に関しては、幕末の紀州藩士、酒井伴四郎という下級武士の記録が残っていて、江戸詰だった万延年間に詳細な日記とこずかい帳が残されています。この人は江戸詰めだったときには、紀州藩の中屋敷(いまの赤坂御用地)内の長屋に住んでいて、住居費は掛からず。また、紀州藩では江戸詰めの侍に手当を支給していたようなので、遊び歩くだけの資金もあったようです。
一方で、江戸中期、文化5年(1808年)には、江戸市中に656軒の貸本屋が存在したといいます。平均して1軒当たりの得意先が170軒ほど(得意先が商家とかであ ればそこには複数の読者が…)。すると、読者数としては、10万人を軽く超える。江戸の総人口が100万人である事を考えると大変な数。貸本屋が扱うのは、お上の検閲を受けた正規の書物の他にも、各種発禁本(艶本や幕府に批判的な書物や、海外事情などのいわゆる裏本ですかね)が含まれていたとか。
で、雑俳の話ですが、これが江戸時代には大変流行しました。有名な宗匠の中には、商品付き(宗匠が採点)興行を行うものもあり、前句付けなどで応募を募っ たようです。元禄期の引札(チラシ)によると、投句料八銭で、上位5名に奈良晒1反、その後は、徒然草の注釈書、小刀、風呂敷、墨などなど300位まで商品が提供されたそうです。
投句者は、各地の川柳取次ぎ所で応募しますが、その投句総数も、万句合せの言葉通り、一万を超える事もありました。投句者のほうも、大名、武士から地方の商人、農民、女性や子供まで貴賎にかかわらずといった感じです。
投句料が八銭(八文の事だと思われます)で、一万句集まると、八万文。一両が四貫文(4000文)と換算すると、総額は二十両て事になりますね。こういう興行を月に四回開催した宗匠(江戸の松月堂不角)もあったようですから、かなりのビジネスでもあります。
江戸文化というものが、階層的にも地域的にも極めて裾野の広い大衆文化であったものと思います。雑俳にとどまらず、他の文学、絵画や音楽、はては科学技術においても。それが、現代にも通じている。決して他国には例を見ないものと思われます。
近況とご挨拶
このところTwitterばかりで、Blogのほうが更新されていませんね、いけません。今年は、東日本大震災という大変な災害がありまして、こちらにもかなり影響されている所がありますが、実は個人的にも1月に入院してかなり大掛かりな手術をし、その後、術後の補助療法ということで、かなり強烈な投薬を受けていてその後遺症に悩んだりと、結構大変な一年でした。
病気の方はそれ以前の無理やストレスがたたったものかなと思いましたので、最近は仕事も無理せずにやっています。まあ、副作用と後遺症のほうも投薬が終わって4ヶ月経過し、多少は楽になってきた今日この頃です。
ブログも少しづつ書き始めますので、またよろしくお願いいたします。
病気の方はそれ以前の無理やストレスがたたったものかなと思いましたので、最近は仕事も無理せずにやっています。まあ、副作用と後遺症のほうも投薬が終わって4ヶ月経過し、多少は楽になってきた今日この頃です。
ブログも少しづつ書き始めますので、またよろしくお願いいたします。
2011年7月2日土曜日
7月のビオトープ
いやあ、暑いですね。先月は6月としては記録的な暑さとやら。原発事故の影響で節電もせねばならず、冷房が効いていなかったり、エスカレータが止まっていたりと何かと疲れる夏になりました。いろいろと忙しかったり、体調の問題があったりと、ブログの更新もなかなかできていません。読者の方には申し訳ありません。
で、ことし3鉢作ったビオトープです(水鉢園芸)ですが、まあ、そこそこ格好が付いてきましたので、近況をご紹介しましょう。
ビオトープその1
ビオトープその1は睡蓮鉢です。睡蓮を植えて、メダカを放っています。水面には、アマゾンフロッグピットという浮き草と自然発生した浮き草が浮いています。
毎朝メダカに餌を与えるのですが、この季節は浮き草の成長が激しく、年がら年中浮き草を間引きしています。水質は安定しているので、とくに水かえはせず、減ってきたら補充するようにしています。
餌の時間になると、メダカが水面近くに集まってきて、少しは可愛いですね。ベランダで日照時間が限られているせいか、睡蓮の蕾はついていません。今年こそは何とか..
ビオトープその2
ビオトープその2は、高低差のあるレイアウトで、高いほうから、シマフトイ、ナガバオモダカ、ウォーターコインが植わっています。
本来メダカを放す予定でしたが、水深が浅くなってしまったので、断念しています。
で、ことし3鉢作ったビオトープです(水鉢園芸)ですが、まあ、そこそこ格好が付いてきましたので、近況をご紹介しましょう。
ビオトープその1
ビオトープその1は睡蓮鉢です。睡蓮を植えて、メダカを放っています。水面には、アマゾンフロッグピットという浮き草と自然発生した浮き草が浮いています。
毎朝メダカに餌を与えるのですが、この季節は浮き草の成長が激しく、年がら年中浮き草を間引きしています。水質は安定しているので、とくに水かえはせず、減ってきたら補充するようにしています。
餌の時間になると、メダカが水面近くに集まってきて、少しは可愛いですね。ベランダで日照時間が限られているせいか、睡蓮の蕾はついていません。今年こそは何とか..
ビオトープその2
ビオトープその2は、高低差のあるレイアウトで、高いほうから、シマフトイ、ナガバオモダカ、ウォーターコインが植わっています。
本来メダカを放す予定でしたが、水深が浅くなってしまったので、断念しています。
ちょっとアップにした写真です。ナガバオモダカが可憐な白い花を咲かせています。後ろに写っているのは、薬味用の紫蘇ですね。
ビオトープその3
ビオトープその3は今年最後に製作したもので、水辺の情景を再現してみました。
手前の水中にはアサザを植え、奥の陸地には、シノブとトクサを植えてみました。水陸の境には流木を配し、陸上にはミズゴケを貼りました。自分では気に入った作品です。
アサザの部分の拡大写真です。
水鉢は見るからに涼しげなのですが、やはりベランダは暑いですね。せめて見た目だけでも涼しげにして、猛暑と節電の夏を乗り切りたいと思います。
2011年6月5日日曜日
猫空に行って来ました
以前このブログでも紹介した、台北近郊のお茶の産地「猫空(マオコンと発音します)」ですが、ついに行く機会に恵まれたので、ご報告します。
今年は年明けの入院などもあって、しばらく海外出張から遠ざかっていたのですが、今回は重要な用事があり、久しぶりに台湾に行って来ました。猫空は以前から一度行ってみたかったのですが、時間的な問題や、ロープウエイの運行停止問題などで、なかなか行く機会がありませんでした。先週台北のホテルでテレビを観ていたら、ロープウエイが運行しているようでしたので、多少時間もあり、思い切って行って見ることにしました。
台北では熱心に公共交通機関の整備が行われていて、年に何回か訪問するたびに、MRT(Mass Rapid Transit, または台北捷運)の新しい路線が開通しているのは驚きです。まあ、整備の速さと規模は北京には敵いませんが、それでも、数年前に比較すると利便性は確実に向上しているのは間違いありません。
今回羽田で新しいガイドブック(2010年10月発行版)を購入したのですが、そのガイドブックにも掲載されていない路線がすでに開通していて驚いたものです。左の写真は昨日駅で撮影した最新の路線図です。
台北市を囲む地域は台北県と呼ばれていましたが、昨年暮れにたくさんの周辺市が合併して、新北氏が誕生しました。いままで三重市とか中和市とか樹林市だったものが、これを機に三重区、中和区、樹林区などになりました。台北周辺地域がベッドタウン化して、多くの人口が台北市内に通勤しているのに、政治的・予算的な優先権が与えられていなかった事も合併の一因であるようです。
で、猫空ですが、路線図の右端から上のほうを通って中央を下降して右下に行く茶色のラインが見えると思いますが、これが文湖線で、右下の動物園駅のところから、猫空ロープウエー(猫空纜車)が出ています。
台北もこのあたりまで来ると山もあり、なかなか長閑な感じです。市内は車やバイクやバスが一杯で空気も悪いので、マスクをしている人もよく見かけますが、この辺ならば大丈夫そうですね。
マンションなども目立ちますので、台北へのベッドタウンにもなっているのでしょう。
猫空ロープウエイはMRTの路線の一部として運転していることもあり、料金は終点まで乗ってもNT$50(日本円で150円もしません)。日本でもスキー場などにあるゴンドラみたいな感じで、左の写真のように進んでいきます。
かなり高度がありますので、なかなか気持ちの良いものです。床が透明になっているゴンドラもあり、台数が限られているので、専用のレーンに並んで乗るようになります。
乗降できる途中駅が二箇所あり、指南宮駅で降りてみました。ここには指南宮という創建1890年の道教寺院があります。ここのサイトによると台湾道教の総本山と書いてありますね。駅前には香港の道教信者との交流開館のようなものが目立ちました。
山中の傾斜地にこのような寺院が聳えている様はまさに荘厳であります。こういった寺院がXX宮、YY宮と何箇所にも建立されています。
ここは道教寺院ではありますが、神仏混交みたいで、参道には電柱にこのような看板も見られます。南無阿弥陀仏ですね。やはり漢字の国はうれしいものがあります。
境内には植物も植えられて、たぶんお坊さんが世話をされているのだと思いますが、植栽も大変綺麗に整備されています。
指南宮駅から再度ロープウエイに乗って一駅行くと終点の猫空駅です。駅舎は結構モダンなつくりでこんな感じです。猫空駅を拠点として、私のように茶畑の茶芸館に向かうもよし、自然に親しむもよし、寺院をめぐるも良しといったところでしょうか。ロープウエイも終点付近も家族連れや若いカップルで満ち溢れていて、皆たいへん楽しそうでありました。
茶畑や茶芸館は猫空駅から少し離れたところにあり、ガイドブックに紹介されていたお目当ての店「邀月茶坊」は歩いて20分くらい掛かります。というのも着いてから判ったので、到着時にはもう汗だくでした。途中は台湾の自然を堪能できる山道(といってもバスが通れる舗装道です)を堪能しました。傾斜地にパパイヤの木が一本実をつけていました。
猫空とは言っても猫がたくさんいるわけではありません。道すがら名前の由来が書かれた看板を見つけました。それによると、この辺の渓流には川底に穴の開いた地形が特徴的で、それをあらわすことばの発音が地方の言葉で「猫空」に似ていたので、そうなったようです。(中国語の堪能な方が読んでいたら補足してください。)
で、歩くことしばし。「邀月茶坊」の門が見えてきました。
なかなか趣がありますね。門をくぐるとアプローチです。
大汗をかいて山道を歩いたり、言葉が通じずに奮戦したりと、いろいろと大変でしたが、念願の自然の中での優雅なティータイムを過ごすことができました。とても楽しかったです。
今年は年明けの入院などもあって、しばらく海外出張から遠ざかっていたのですが、今回は重要な用事があり、久しぶりに台湾に行って来ました。猫空は以前から一度行ってみたかったのですが、時間的な問題や、ロープウエイの運行停止問題などで、なかなか行く機会がありませんでした。先週台北のホテルでテレビを観ていたら、ロープウエイが運行しているようでしたので、多少時間もあり、思い切って行って見ることにしました。
台北では熱心に公共交通機関の整備が行われていて、年に何回か訪問するたびに、MRT(Mass Rapid Transit, または台北捷運)の新しい路線が開通しているのは驚きです。まあ、整備の速さと規模は北京には敵いませんが、それでも、数年前に比較すると利便性は確実に向上しているのは間違いありません。
今回羽田で新しいガイドブック(2010年10月発行版)を購入したのですが、そのガイドブックにも掲載されていない路線がすでに開通していて驚いたものです。左の写真は昨日駅で撮影した最新の路線図です。
台北市を囲む地域は台北県と呼ばれていましたが、昨年暮れにたくさんの周辺市が合併して、新北氏が誕生しました。いままで三重市とか中和市とか樹林市だったものが、これを機に三重区、中和区、樹林区などになりました。台北周辺地域がベッドタウン化して、多くの人口が台北市内に通勤しているのに、政治的・予算的な優先権が与えられていなかった事も合併の一因であるようです。
で、猫空ですが、路線図の右端から上のほうを通って中央を下降して右下に行く茶色のラインが見えると思いますが、これが文湖線で、右下の動物園駅のところから、猫空ロープウエー(猫空纜車)が出ています。
台北もこのあたりまで来ると山もあり、なかなか長閑な感じです。市内は車やバイクやバスが一杯で空気も悪いので、マスクをしている人もよく見かけますが、この辺ならば大丈夫そうですね。
マンションなども目立ちますので、台北へのベッドタウンにもなっているのでしょう。
猫空ロープウエイはMRTの路線の一部として運転していることもあり、料金は終点まで乗ってもNT$50(日本円で150円もしません)。日本でもスキー場などにあるゴンドラみたいな感じで、左の写真のように進んでいきます。
かなり高度がありますので、なかなか気持ちの良いものです。床が透明になっているゴンドラもあり、台数が限られているので、専用のレーンに並んで乗るようになります。
乗降できる途中駅が二箇所あり、指南宮駅で降りてみました。ここには指南宮という創建1890年の道教寺院があります。ここのサイトによると台湾道教の総本山と書いてありますね。駅前には香港の道教信者との交流開館のようなものが目立ちました。
山中の傾斜地にこのような寺院が聳えている様はまさに荘厳であります。こういった寺院がXX宮、YY宮と何箇所にも建立されています。
ここは道教寺院ではありますが、神仏混交みたいで、参道には電柱にこのような看板も見られます。南無阿弥陀仏ですね。やはり漢字の国はうれしいものがあります。
境内には植物も植えられて、たぶんお坊さんが世話をされているのだと思いますが、植栽も大変綺麗に整備されています。
指南宮駅から再度ロープウエイに乗って一駅行くと終点の猫空駅です。駅舎は結構モダンなつくりでこんな感じです。猫空駅を拠点として、私のように茶畑の茶芸館に向かうもよし、自然に親しむもよし、寺院をめぐるも良しといったところでしょうか。ロープウエイも終点付近も家族連れや若いカップルで満ち溢れていて、皆たいへん楽しそうでありました。
茶畑や茶芸館は猫空駅から少し離れたところにあり、ガイドブックに紹介されていたお目当ての店「邀月茶坊」は歩いて20分くらい掛かります。というのも着いてから判ったので、到着時にはもう汗だくでした。途中は台湾の自然を堪能できる山道(といってもバスが通れる舗装道です)を堪能しました。傾斜地にパパイヤの木が一本実をつけていました。
猫空とは言っても猫がたくさんいるわけではありません。道すがら名前の由来が書かれた看板を見つけました。それによると、この辺の渓流には川底に穴の開いた地形が特徴的で、それをあらわすことばの発音が地方の言葉で「猫空」に似ていたので、そうなったようです。(中国語の堪能な方が読んでいたら補足してください。)
で、歩くことしばし。「邀月茶坊」の門が見えてきました。
なかなか趣がありますね。門をくぐるとアプローチです。
なかなかいい感じです。店に入ると、席を決めますが、冷房の効いた室内の席と外のテラス席がありますので、ここは迷わずテラス席に。こんな感じです。
日本語は通じないので、ごにょごにょ言っていたら「広東語か?」と聞かれてしまいました。でもなんとか日本語のメニューを出してもらい、注文です。お茶と、饅頭を頼みました。普通の食事も可能です。
店の人が親切にお茶の煎れかたを伝授してくれますし、湯飲み茶碗の下にみえる紙片にも中国語で説明が書いてあります。饅頭はこんな感じです。蒸したてで、大変おいしかったのですが、一人で六個は一寸多すぎたかもしれません。
饅頭の写真はちょっとフィルタリングしてあります。大汗をかいて山道を歩いたり、言葉が通じずに奮戦したりと、いろいろと大変でしたが、念願の自然の中での優雅なティータイムを過ごすことができました。とても楽しかったです。
猫空なのに猫はいないのかと落胆された方のために、一枚だけ写真を上げておきます。これは別の茶屋にいた猫です。こっちを向いてくれなかったので背中だけの写真でした。
邀月茶坊や他の茶芸館の訪問記はネットにもいといろと掲載されておりますので、もし行かれるようでしたら、そちらもご参照ください。
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